民衆の批判(定理一六~三六)
対象は民衆
定理一六から、批判対象はデカルトから民衆(vulgus)へとかわり、民衆の持つ神の観念が批判されることになる。
民衆が想定する神とは、万能の力を持ち、それを自由な仕方で行使する神だ。民衆は次のように考える。神は最高の知性と自由な意志を持つ1。その知性は、現にある世界だけではなく、それ以外の無数の世界を含んだ、計り知れないものである2。神はその中から一つを選択し、世界を創造した3。それゆえ、現にあるのとは異なる世界を創造することも、現にある世界を破壊して無に帰すことも可能である4 5、と。ここにおいて、すべての個物は神の力に左右される、偶然的で不完全なものとされる。
定理一五までの考察を理解した者にとって、このような主張は鼻で笑うものでしかないだろう。神について明晰判明な観念を形成しているのに、それが人間のような知性や意志を持つと考えたり、現実世界を創り出したと考えたりするわけがないのだ。
ではなぜ、スピノザが一々民衆の神を扱ったかというと、このような神の捉え方をする者が根強くおり、かつこの神の観念が自説の理解の妨げになると考えたからである6。
神から無限に多くのものが無限の仕方で生じる理由
第一部後半(定理一六~三六)の議論の構成は、第一部前半(定理一~一五)と同じである。スピノザは、第一部前半において、デカルトにあわせて神という言葉を定義した上で、一つ一つ合意を積み上げ、デカルトの主張を否定した。スピノザはそれと同じことを、民衆に対し、神の力という言葉を使って行う。
スピノザは、神の力を「神から無限に多くのものが無限の仕方で生じる」こととして定義する。ここだけ切り取るとわかりにくいが、神の認識過程を理解していれば、簡単に理解できることである。
我々は、普段は犬、猫、人間、机、椅子等といった個々の物体や、今朝食べたもの、以前読んだ本の記憶、友人の顔といった個々の観念を意識している。これら様態は無数に存在し、かつそれぞれが無限の仕方で変化している。
だがある時、これら個々の様態が共通性質を持つことに気づく7。あるものは延長属性を、別のあるものは思考属性を、というように。ここから我々は、様態の認識を離れ、実体、すなわち神を認識することになるのである8。
このように、我々は「無限に多くの仕方で生じる無限に多くのもの」を見ることで、神の観念にたどり着く。「無限に多くの仕方で生じる無限に多くのもの」は、神の観念と一体の、切り離せないものとして意識されているわけだ。このため、我々は神の観念を想起すれば、「無限に多くの仕方で生じる無限に多くのもの」、すなわち今までに出会ったありとあらゆる様態を想起することになるのである9。
ある観念から、それに結びつく多数のものを想起することは、我々が日常的に経験していることであって、何も特別なことではない10。例えば、「○○さん」という知り合いがいるとしよう。我々が「○○さん」の観念を形成するのは、「○○さん」と何度も出会うことによってである。この経験を通して、「髪が黒い」「背が高い」「読書が趣味」「言葉遣いがきれい」といった「○○さん」の特質が、「○○さん」という言葉と結びつけられるわけだ。すると、後に「○○さん」の観念を想起した際には、その言葉と結びついた「髪が黒い」「背が高い」「読書が趣味」「言葉遣いがきれい」といった特質も同時に想起されるわけである。
民衆にあわせた神の力の定義
民衆が持つ神の観念は、本質的にはスピノザと同じものである。ただし民衆は、神の観念の形成過程については自覚的でない。このため、神の観念から「無限に多くの仕方で生じる無限に多くのもの」が生じる事態を経験しても、それが起きる理由を理解できない。そこで、力という言葉を持ち出すのである。このような事態が起きるのは、神がそのような力を持っているからだと言って、説明をした気になるわけだ。この力という言葉は非常に曖昧であり、それゆえ「世界を創造する力」「世界を無に帰す力」といったありもしないものを付け足したり、人間の力と混同したりしてしまうわけだ。
以上を踏まえた上で、スピノザはまず神の力(potentia Dei)を定義する。「君は、神の観念から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じる事態を認めているだろう」「神の力という言葉で君が表現しているのは、この事態だろう」と11。
総合的方法による批判
続いて、民衆が曖昧にしていることを、段階を踏んで一つずつ解きほぐしていく。「君は精神と物体を、神とは別のものであるかのように言ってたが、それは君の認めている神の観念からして誤っているだろう」「属性と様態の区別を明確にしたならば、個物において偶然性がないことも認めるだろう」「君が言ってる意志や知性は、様態の一つでしかないだろう」というように12。
このように段階を経たうえで、スピノザはあらためて問いかけるわけだ。「君は、神の力について、最初に定義した以上の何かがあると思うか」と13。すると、民衆は何も言えなくなるのである。個物に偶然性を認めることもできないし、人間のような意志と知性を神に帰すこともできない。結局、最初に定義したことが全てだということになるわけだ。
これは同時に、個物に不完全性を認める主張への批判にもなっている14。無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じる事態を、神の力と定義するのであれば、個物もその力の一部だということになる。ならば、神の力の必然性を肯定する以上、個物の必然性も肯定せざるをえない15。これまで民衆は、神の力という言葉で、個物の不完全性を主張してきた。だが今や、同じ言葉で、物の完全性を肯定させられるのである。
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たしかに私は、神の本性に最高の知性と自由な意志とが属することを証明しうると信じている多くの人々がいることを知っている。(定理一七備考) ↩
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たとえ神が異なった自然を創造したと仮定しても、あるいは神が永遠このかた自然ならびにその秩序に関して異なった決意をしたと仮定しても、そのために神には何の不完全性も生じないであろう。(定理三三備考) ↩
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すべての物がその現に在るところのものであるのは神の決意および意志のみに依存する(定理三三備考) ↩
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したがって神は、もし欲したなら、現に完全であるものをきわめて不完全なものであるようにすることができたろうし、また反対にできたであろうと。(定理三三備考) ↩
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民衆は、神の能力ということを、神の自由意志、ならびにありとあらゆるものにたいする神の権能、と解する。このゆえにあらゆるものは一般に偶然なものと見なされている。なぜなら彼らは神があらゆるものを破壊して無に帰する力を有すると言っているからである。(第二部定理三備考) ↩
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私はただ読者に、第一部において定理一六から終結に至るまでこれについて述べられてあることを改めて熟慮されるよう幾重にもお願いするのみである。なぜなら、何びとといえども、神の力を王侯の人間的力あるいは権能と混同しないように極力用心しなくては、私の述べようとするところを正しく理解することができないであろうからである。(第二部定理三備考) ↩
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ところで神の本性は、おのおのが自己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を有するから(定義六により)、このゆえに、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)必然的に生じなければならぬ。Q・E・D・(定理一六証明) ↩
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定義と特質の関係性を把握しているものにとって、これが当然であることは、スピノザ自身が言及している。「この定理は次のことに注意しさえすれば誰にも明白でなければならぬ。それはおよそ物の定義が与えられると、そこから知性は多数の特質を実際にその定義(言いかえれば物の本質そのもの)から必然的に生ずるもろもろの特質を結論すること、そして物の定義がより多くの実在性を表現するにつれて、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論すること、これである。(定理一六証明)」 ↩
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「神の力」と「神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じること」をスピノザが同一視していることは、定理一七備考の記述からわかる。「これに反して私は、神の最高の力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、すなわちあらゆるものが、必然的に流出したこと、あるいは常に同一の必然性をもって生起すること、(…)そうしたことを十分明瞭に示したと信ずる(定理一六を見よ)。」(定理一七備考) ↩
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神の力は神の本質そのものである。(定理三四) ↩
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物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。(定理三三) ↩
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神の力の中に在ると我々の考えるすべての物は必然的に存する。(定理三五) ↩