京大式カード

1969年初版の梅棹忠夫『知的生産の技術』が、この手の技術の走りである。そこには、京大式カードを使って知的生産を行う方法が記されている。

京大式カードの大きさはB6。紙は丈夫で、罫線が薄く引かれている。文房具店で、百枚入りのものが一つ540円程度で購入できる。記入の際は、日付、タイトルを必ずつける。一つのカードには一項目の内容のみを記述し、裏は使わない。そして、記入したカードはカードボックスに入れる。

京大式カード

カードを使った知的生産

カードが相当数たまったら、それを「くる」ことによって発想を促す。見返してみたり、いくつか取り出して、見比べてみたりするのだ。そうすれば、思いもよらないアイデアが組み合わされることで、新しい発見をすることができるだろう。つまり、カードを「発想支援装置」として使うわけだ。

また、これは具体的に何か論文を書こうという場合にも使えそうだ。論文を作る時には、とりあえず頭にあるものをすべてカードに書き出す。そうしてから、カードを見比べ、関係するもの同士でまとめる。そうすれば、それは論文の個々の章と対応したものになるだろう。それを参考にしながら、論文を書いていくのだ。つまり、カードは「論文を作る時の素材」としても活用できるわけである(梅棹自身は、カードと別の紙切れを使ってやる方法を提案している。思いつきを紙切れに書き記し、論理的なつながりがあるもの同士をホチキスでくっつける)。

操作できるというところが、カードの特徴なのである。蓄積と貯蔵だけなら、ノートで十分だ。ノートにかかれた知識は、しばしば死蔵の状態におちいりやすいので、カードにしようというのではなかったか。カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。そのときには、すぐにその発見をもカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P57)

アイデアはバラバラのほうが使いやすい

京大式カードの基礎にあるのは、「アイデアは個々バラバラになっているほうが使いやすい」という思想である。そしてこの思想は、一般に用いられている文房具とは潮流を異にするものである。この手の技術に疎い人は、論文を書く時にはノートを利用するわけだ。ノートに思いついたことを書き連ねて、あとでそれを材料にして論文を作ろうとするだろう。だが、そのような試みはたいてい失敗する。ノートは、書き込んだアイデアを組み替えることができない。関係するもの同士を並列したいのなら、新しくノートを購入してそこに書き写すしかない。が、それは非常に手間がかかり、破綻してしまう。ノートには柔軟性がなく、知的生産に向いていないのだ。そこで、アイデアを個々バラバラに書けるようにし、最初から組み替えが可能なようにしているのが、京大式カードを使ったシステムなのである。

ここにたどり着くには、思考作用は技術の問題であるという、醒めた視点が必要になる。自分が考えていることは有限であり、新しいアイデアも所詮は、過去に経験したことの組み合わせから生じるものでしかない。だから、アイデアをそれぞれ別個に書き出して、それを組み合わせれば、一つの思考ができあがる。精神作業とは、突き詰めれば、ただそれを効率化するものでしかない……という割り切った考え方が必要になるのだ。それは没個性的な技術であり、誰でも習得できるものであって、大思想家も深い思索を積んだ者も、他と区別されないことになるだろう。思考行為に神秘性を認め、そこに独自の価値を見出そうとする人間にとっては、受け入れがたいことであり、普通では到達できない境地なのだ。たいていの人は、自分の知的生産がうまくいかない場合、その責任を自身に帰す。論文が書けないのは自分の頭が悪く、精神的に未熟だからと反省し、さらに思索を深めるなり、偉大な先達の原典を読み込むなり、といった努力をすることになるだろう。だが、本当はそうでは無いのだ。論文を書けないのは、単に自分のやり方が悪いからである。問題点は技術的な未熟さにある、と総括し、それを突破しようとしているのである。カードを知的生産に使うことは、それゆえそれまでの方法論とは一線を画しており、飛躍なのである。

技術というものは、原則として没個性的である。だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質をもっている。それに対して、研究だとか勉強とかの精神活動は、しばしばもっとも個性的・個人的ないとなみであって、普遍性がなく、公開不可能なものである、というかんがえかたがあるのである。それは、個性的な個人の精神の、奥ぶかい秘密の聖域でいとなまれる作業であって、他人にみせるべきものではない……。
しかし、いろいろとしらべてみると、みんなひじょうに個性的とおもっているけれど、精神の奥の院でおこなわれている儀式は、あんがいおなじようなものがおおいのである。おなじようなくふうをして、おなじような失敗をしている。それなら、おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう。そういうようにしようではないか、というのが、このような本をかくことの目的なのである。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P8)

カードの死蔵

このシステムは、取り扱うカードが少ないうちは問題なく機能する。レジュメを作りたい時は、まずは思いついたことなり調べたことなりを、片っ端からカードに書いていく。書き終えたらカードを並び替え、それを材料にして文章を書く。白紙を前に考え込みながら、いきなり漠然と書き始めるよりは、格段に質のいいものが短時間でできるはずだ。

だが、複数の事柄について書かれたカードが、カードボックスの中に大量に蓄積されるようになると、このシステムは機能しなくなる。例えば、ある特定のテーマの論文を書く必要がある時、以前に書いたメモを参考にしようと思って、カードを見返してみるとしよう。すると出てくるのは、そのテーマとは無関係な、個々バラバラの内容について書かれているカードだ。読んだ本のメモ、経験したことの記録、ずっと以前に取り組んでいた課題に関する思いつき……。出会い、経験し、取り組んでいる課題の多様さにあわせて、カードボックスには様々な種類のカードが蓄積されている。そして、カードの多様性に比例して、現在取り組んでいるテーマに関係するカードを取り出すことが、難しくなるのである。さらにここに、時間経過によるメモの劣化という問題が加わる。アイデアメモは、それを思いついた当初に持っていた問題意識が失われると、意味が取れないものになってしまうのだ。カードをめくり、古い方へ行けば行くほど、理解しがたいカードに出会うことになるだろう。結果、知的生産をするときには、最近作成したカードだけをめくってみて、今の問題意識に関係がありそうなものを取り出すことになるだろう。そして、過去のカードは、今の問題意識からかけ離れた理解できないものとして、全く顧みられなくなるだろう。これは、それらを一つのデータベースとしてためていることが、無意味だということを意味する。過去に書いたカードが、死蔵してしまうのだ。

発想支援装置にもならない

さらに、アイデア発生装置としても、このデータベースは役に立たない。たとえば、私が過去に使っていたカードボックスには、当時ハマっていたFPSの特定マップの攻略アイデア、気になったレシピ、何かの思いつきの断片、何かの記録、といったものが混じっている。さらに、過去のデータになればなるだけ、意味の取れなくなったアイデアの欠片に出会うことになる。これらを見比べて、何か意義のあることを思いつけるわけがない。

複数の情報を並列して発想するには、それぞれが洗練され、かつ一定の関連性を持っている必要がある。アイデア段階で打ち捨てられたものが無秩序に並んでいても、意味がないのである。新しい刺激が欲しいのであれば、誰かに話を聞きにいくなり、町に出て新しい経験をするなり、誰かの本を読むなりすればいい。多大な手間をかけて、自分でデータベースなどを作る必要は無いのである。

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