ヘーゲルの弁証法
ヘーゲル
概要
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)
- ドイツの観念論者。カント、フィヒテより後でシェリングと同時代
- 今回読むのは『精神現象学』序文 長谷川宏訳
著作
- 精神現象学(Phanomenologie des Geistes、1807年)
- 大論理学(Wissenschaft der Logik、1812-16年)
- エンチクロペディー(Enzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften、1817年、1827年、1830年)
- 法哲学(綱要)(Grundlinien der Philosophie des Rechts、1821年)
- 没後に弟子がまとめた講義ノート(歴史学、美学、哲学史、宗教哲学など)
現状の哲学の批判
哲学を直観知とする者への批判
- 宗教的満足
- ただの妄想
形式主義者への批判
- 共同体という意識が希薄
- 学問に似つかわしくない
- 単調、同じ公式を当てはめるだけ
多種多様な内容を作り上げるのが哲学であるのに、内容が空虚でその欲求を満たしていない。ただ否定して終わるだけのもの。
真理を巡る立場
- 神を唯一の実体ととらえる(スピノザ)
- 思考を思考として確立する(カント)
- 直接の直観が思惟である(?)
これに対し、ヘーゲルは、「真理を直観としてではなく実体としてもとらえる」立場。
大まかな哲学史
近代哲学史の流れは、
- デカルト、スピノザ、ライプニッツ
- カントとカント主義者
- スピノザ主義者
最初に、デカルトたちが実体問題について考察。そこから離れ、カントが認識論をはじめる。それが煮詰まってからスピノザが再発見、という流れ。
デカルト、スピノザ、ライプニッツと実体問題
根底にあるのは、人間には自由意志があるかどうかについての問題。
人間が必然的な自然の一部分として、自然の原理に従っているように見える。ここにおいて、人間は自由意志を持ち得るか、という問い。
整理すると、おのおのが独自の原理であり、他からコントロールを受けないものが、二つあるのはなぜかということに。「それ自身のうちにありかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの」が複数あり得るかどうか。
この独自の原理を持つものを実体と呼ぶとすると、「複数の実体は存在しうるか」という命題になる。
だが、そもそも両立しうるかという問題が出る時点で両立しえないことがわかる。最初から、実体を他の原理を排するものとしてとらえているからだ。
それでも、複数の実体があるという立場を取る場合、神の証明をすることになる。上位の原理として、同じ実体性を持つもの(神)があり、それが人間と自然の両方を作り出した、という主張になる。
デカルトとライプニッツは、複数の実体はあり得る、という立場。スピノザは唯一という立場。
カントの認識論
カントの目的もデカルト、ライプニッツと同様、人間には自由意志が存在することを理論的に示すこと。
だが、これを直接デカルトらのように、実体問題として扱わず、「独自の原理を持つものが複数存在しうるのか」ということについては一度、横に置いておいて、人間の認識のみについて扱おう、とする。そして、自然の必然性を示すものが、全て観念を中心にして説明できるということから、自由意志の存在を示そうとする。変化球。
だが、これだと人間の理性がその必然性の原因だと示すだけで、自由意志があるという証明にはならないわけだ。人間には恣意的になる、自由意志があるかどうか、という問題から見るならば、「自然の必然的原理に自らが従う」というのと「自分の内にある理性という必然的原理に自らが従う」のとでは、あまり違いが無いのである。
スピノザの復興
そのような中、スピノザが再発見される。
ただ、その論理に穴の無いだけの空虚なもの、としてのみ受け取られる。実体の意味については理解されず、宗教的思索の中で到達するものだとかいうように見なされている。
ベネディクト・スピノザはこう説く。ただひとつの実体がある。それは神である。この唯一の実体は無限であり、絶対的である。すべての有限のものはこの実体からわかれでてくる。それらのものはこの実体のうちにふくまれていて、この実体のうちに出没する。それらのものはただ相対的な、一時的な、偶然的な存在にすぎない。この絶対的な実体はわれわれ人間には、無限の思考という形式と無限の延長という形式であらわれてくる。このふたつ、つまり無限の思考と無限の延長とは、絶対的な実体のふたつの属性である。われわれ人間はただこのふたつの属性しか認識することができない。神つまり絶対的な実体はおそらく、われわれ人間には知られないなお多くの属性をもっているだろう。「私は神をすっかり認識しているというのではない。けれども私は神の属性を探求する。もちろん、そのすべての属性の大部分の属性を知ることはないのだけれども。」(ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』より)
なぜデカルト、ライプニッツでは無いのかはよくわからないが、デカルトは心身問題、ライプニッツはモナド論というようにつっこみどころが多くあるのに比べ、スピノザの場合は、意味はわからなくとも論理的には完全なものだと思われたということが原因ではないのかなと思う。
そして、この空虚で現実世界に使えないあまり意味のない哲学を、どう乗り越えるかというところでヘーゲルが出てくる
絶対精神
既存の学問の批判
既存の学問の批判がスタート地点。
それは、実際の認識過程と対応していない。何かを理解するというときでも、間違っているものを捨て、正しい真理を受け取るというのではない。今まであったものを否定することにより、それは失われる。けれども、否定したものは結果の中に過程として残っているはずだ。
既存の学問は、それを理解せず、この動きを認めようとしない。そして、世界が静的なものであるという前提のもとで理解しようとするから、いつまでも平板なことしか言えず、自我と世界、共同体と自我、などの矛盾を解消することができない。
逆立ちした世界観
今までの哲学の誤りは、世界が動的なものであることを理解しなかったことによる。主観と客観、自己と共同体、といったものを静的で不動のものと暗に前提したうえで、その両者はどう関係するのか、という問いを出していたのがまずかったのだ。
従って、動的なもの、運動そのものを中心にする。個々の対立しているものがあるのは、自分が認識の過程にいるからであり、それはやがて精神の発展とともに消え去るものなのだ。
認識の発展、真理の発見も同様で、絶対的な真理を一度に獲得するのではなく、徐々に運動を積み重ねる中で到達できるようなものであるはずだ。そして、諸々の矛盾も、同様にして解消されるはずだ
個の否定と絶対精神
これは、静的なもの、自立して不動だと思われていたものが全て否定されることを意味する。世界がひっくりかえされて理解され直すということ。
自然、自我、主観、客観、共同体という区別も意味を失う。この運動の中の過程にすぎず、絶対的なものではない、一時的なものだとして。運動の過程で、対立する極の一方にあるだけの、いつかは解消されるにすぎないものなのだ。
こうなると、個が認識する、ということも言えなくなる。では何が残るか、というとその運動のみが残ることになる。ただ、ひたすら自己自身で運動し、外へ出て行きながら内へ戻り、対立するものの一体化を繰り返し拡大して、有機的なまとまりをなすもの。人間はその一部にすぎず、相対的なものでしかない。
この認識しているもの、運動している主体が絶対精神。この絶対精神が徐々に自己を自覚していく過程が世界史なのだ。絶対精神が自己運動をし、その一時的な現れが人間であったり、自然であったりするのである。
精神現象学
教育の過程とは、個人の側から見れば、目の前にあるものを獲得し、無機的自然を栄養として体のうちにとりいれることであり、時代の底を流れる一般精神の側から見れば、隠れた時代精神が意識の対象となり、人々の心に入って反省されることにほかならない。学問とは、この教育の運動を必然の過程としてくわしく追跡するとともに、すでに精神の要素や所有物となったものの、その形成過程を叙述するものである。(ヘーゲル『精神現象学』)
精神の発生学と古生物学との対比論とも名づけうべきもので、さまざまの段階を通過する個人の意識の発展を、人類の意識が歴史的に通過する諸段階の短縮された再現としてとらえたものである(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
学問的体系を取る必然性
認識においても、それは漸次的な、低次の段階から否定を繰り返して高次へ向かう、という過程を取る。真理に到達する方法として、整備された、段階的な方法が重要だということになる。
ここに、学問体系が重要だということになる。どのようなものでも、それをたどることによって高次へ到達できる方法論。これは、哲学は直観知である、とする者に対する主張。
精神現象学
そのうえで、学問体系というだけでは、結果だけを示し、分類するものも含むことになる。
そこで、ヘーゲルがここで主張するような、漸次的で徐々に段階を踏んでいき、真理へ到達するという目的のために整備された学問を、精神現象学として通常の学問から区別する。
第一段階として、知の概念の獲得、第二段階として共同体との一致。