スピノザの総合的方法

総合的方法

問題の提起

何が正しいのかを決めることができるのか、という問題がある。人間はそれぞれ、感情、思想、言語などで異なっている。だから、そこには一致点などないのでないか、というものである。

相手の持つ概念と原理の利用

スピノザは、単純な仕方でこれを解決する。それは、相手の持つ概念と原理のみを用いて、相手の主張を否定すればいい、そうすれば絶対に一致できるというものである。最初に、相手との一致点を確認し、それを定義と公理として整理する。これは、この段階で両者が真だと認めているものだ。そのあとは、この定義と公理のみを用いて議論をする。そして、そこから一つ一つ一致を積み上げていく。そして最終的には、相手の主張の矛盾点を、相手自身の概念と原理だけをもって暴く。こうすると、その結論について否定することができなくなる。その結論を否定したなら、すぐに、自分が先に一致したことを突きつけられる。だから、その結論がどれだけ自身の意に沿わないものであろうと、同意せざるを得なくなる。結果、両者は一致することになる。

哲学史における総合的方法

デカルト

この総合的方法は、デカルトによって発見されたものである。

分析は、事物が方法的に、そしていわばア・プリオリに見つけ出された、その真の途を示すものであって、かくてはつまり、読者がこの途にしたがい、しかもすべてに十分に注意する、ようにしたいと思うとするならば、この事物を彼は、自分自身で見つけ出したという場合に劣ることなく完全に知解し自分のものとすることでしょう。が、この証明方法はしかし、あまり注意深くない、もしくは敵対的な読者を信ずることへと駆りやるだけのものを何ももっておりません。というのも、この証明法の提示するところのもののうちにいささかなりとも何か気づかれないものがあるとするならば、その結論の必然性はあからさまにはならなくなるし、それにしばしばこの証明法は、十分に注意する者にとっては分明であるという理由で、しかし特に注意しなければならない多くのものに、ほとんど触れない、からなのです。総合は逆に、正反対の、いわばア・ポステリオリに問われた途によって、なるほど明晰に、結論されたところのものを論証するものであって、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用します。が、それは、帰結のうちの何かがこの総合に対して否定されることがあるとするならば、そのものが先行理由のうちに含まれているということをただちに示さんがため、そしてこのようにして読者から、彼がどれほど敵対的であっても頑迷であっても、同意をもぎとらんがため、なのではありますが、これは、分析のように、学び知りたいと願う心を満たし鎮めるものではなく、それというのも、事物が見つけ出されたその仕方を教えることが無いからです。(省察第二答弁)

このように、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用する証明方法を総合的方法と名づけている。そして、その論証が正しいものである根拠を、相手が同意したことのみを論証に用いる、ということに求めている。

スピノザ

総合的方法と分析的方法の区別を発見したのはデカルトだが、デカルト自身は分析的方法で主な著作を書いている。それを方法論として意識的に用いたのがスピノザである。

尤も、この比類ない著名な人物の哲学に関する諸著作は、なるほど数学における証明方法と秩序とに従っているものではありますが、しかしそれはユークリッドの幾何原本やその他の幾何学者たちの書に普通用いられた方法、即ち定義、要請及び公理をまず先におき、定理とその証明がそれにつづくという方法によって仕上げられているのではありません。デカルトの方法は、むしろこれと極めて異なったものでありまして、彼自らその方法を真実にして最善なる教授方法となし、これを「分析的方法」と名づけています。というのは、彼は「第二駁論への答弁」の終りのところで、不可疑的証明方法に二種類あることを認めております。一は分析的方法で、それは「対象を方法的に、そしていわばア・プリオリに発見する真の道を指し示す」ものであり、他は総合的方法で、それは「定義、要請、公理、定理及び問題の長い系列を用い、従ってそれは人がそのいずれかの結論を否認する場合、その結論が前提の中に含まれていることを直ちに示すことができ、このようにしてどんなに反抗的で強情な読者からも同意を奪取することができる」ものなのであります。(『デカルトの哲学原理』序)
このように、スピノザはデカルトの方法論を踏襲している。

構造の解説

既存の哲学の評価

総合的方法の特色は、哲学における不一致が、弁論術の領域にあるものでしかない、と総括していることにある。弁論術の領域に属すものというのは、例えば、証明していないことを前提として議論することであったり、一度認めた証明を、後で覆すことであったり、論拠なく否定することである。既存の哲学を構成していたものは、このような弁論術でしかなく、その弁論術が学問の方法論と混同されたままだった。だから、不一致が生じていたのである。別に、各人の精神、思考が異なっているだとか、真理に到達する方法が難しいだとかの話ではないのだ。それまでの哲学は、その方法論を弁論の技術から引き離すようなレベルにすら到達していない、学問として未熟なものだったというだけの話である。総合的方法に到達する以前の哲学は、単純に、論争、弁論術の領域を乗り越えていないだけの、学問としてのレベルが非常に低い、原始的な状態にあったのだと総括しているのである。

しかし、事情はこうでありますものの、諸君の見られる通り、数学を除いては、ほとんどどんな学問も、この方法で処理されていないのです。これと天地の相違のある他の方法、即ち、定義と分類が絶えずからみ合い、問題と説明がここかしこに混入されるといったやり方によって全体の仕事が片付けられているのです。これというのも、諸種の学問を樹立し叙述しようと企てた人々は、以前にはそのほとんど全部、現在でもなおその多数が、この方法は数学という学問にのみ特有であって、他のすべての学問においては排斥され軽蔑さるものだと判断しているからであります。この結果彼らは、自己の主張を何ら不可疑的理由で証明することをせず、ただ尤もらしい蓋然的な論拠で支持しようと努力するにすぎません。そんなわけで、何ら不動・確実なものの含まれていない、むしろ論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山が作り上げられているのです。そして或る人によって薄弱な論拠でどうにかこうにか基礎づけられた事柄は、たちまち他の人によって反駁され、また同じ程度の武器で破壊し粉砕されるのです。このような次第で、不変な真理に渇望する精神は、安全幸福な渡航のできる平穏な水路を発見して望ましい認識の港にたどりつこうともくろみながらも、事実は意見の大海に激しく動揺し、論争の嵐に四方から囲まれ、疑惑の巨浪に絶えず追われ引きずられて、そこからいつまでも逃れるあてのない有様なのです。(『デカルトの哲学原理』序)

総合的方法による克服

だとすれば、一致するのに必要なのは、弁論術と哲学とを明確に分離することでしかない。このことを、スピノザは、弁論術の入り込む余地のない議論の方法を作り、実際にそれを用いて議論をし、同意を奪取することで行う。それが総合的方法である。それによって、弁論術を排した議論を強制し、一致を作り出すのである。したがって、総合的方法は、弁論術が用いる個々全ての状況に対応できるような、弁論術の本質を突き詰め、乗り越えた、技術の結晶だということができる。

真理は社会的なものでしかない

共通の原理、概念というものを持ち、相手の持つ混乱を解きほぐすことが唯一の方法だということは、共通点を持っていないものとは絶対に一致することはないということである。普遍的で、これを言えば誰にでも通じるだろう言葉、論理などは存在しないのだ。基本は一対一なのである。従って、議論は必ず特殊な形態をとる。述べている内容は普遍的なものであっても、その叙述形式は、説得しようとした相手を想定しそれを自分の認識に近づけるという手法、つまり時代的で局所的なものになるのである。相手と自分とが何を共通点としているかで、真理の基準とする定義や公理は異なってくるし、議論の道筋も、相手の持つ主張にあわせ、それを否定するという過程になるからだ。

わかりやすさが犠牲になる

この方法は、ひたすら相手の用いる言葉と論理のみを用いて、相手との一致を積み上げていく。従って、議論の過程において、最初に用いた言葉や論理が説明されなおす必要がない。それについては、ずっと知っているものだとして進む。さらに、無用な言いかえやレトリックによる訴えかけもできるだけ避けようとする。そのことによって、定義や言語の問題に一々立ち返らせるような隙を与える可能性があるからだ。これは、相手の同意を奪取するという議論の手法という点では有用かもしれないが、最初に一致された定義と公理について理解していない第三者が議論を見ても、全く意味がわからないということを意味する。分析的方法で書かれた書物のように、何度も読み返すだとか、使われている語を分析するだとかをいくらしても、理解することができない。特定の相手の同意を絶対に奪取できる、ということと引き替えに、その相手以外は全て対象外になるのである。最初に出される定義と公理について理解できないものは、そもそも議論の対象として認めていないし、そのような者の理解ははじめから望まれてもいない。総合的方法はわかりやすさを犠牲にするのだ。

正しさの根拠は相手自身の内にある

この方法は、何が正しいかについての根拠は最初から相手が持っていることを前提にしている。あることが真かどうか判断するというのは、自分がそれを否定する根拠を持っているか、どうかなのである。反対する根拠が無ければ、それで真だと認めていることになる。あるものが真かどうかを判断するにおいて、一般性だとかは本質ではないのだ。適当な筋道だった思想を述べ、それについて受け手には信じるかどうかの余地がある、という想定は、思想、理論の本質ではないのである。思想、理論の基本は、「俺は正しい、おまえは間違っている。文句があるなら反論を出してみろよ」という論争だとかオルグだとかの状態なのだ。

« 北一輝『国体論及び純正社会主義』
ヘーゲルの弁証法 »