スピノザ『神学政治論』

立場

決定論を唱える。あるのは自然のみであって、そのなかにおいて人間には自由意志など存在しない。それはただ、そうあるだけにみえる妄想だという主張。ここから、それは無神論ではないか、という批判がでる。それに対して抗弁を行う。

その趣旨。スピノザの理論は、宗教そのもの、神そのものを否定したりはしない。そこにおける本質的なものは残り、さらには既存の理論よりもより、それを純化し、本質的なものにし、支持している、という立場。ただ、これによって批判されるのはそれを歪め、悪用していた宗教家であるだけだ、ということになる。

方法論

相手が絶対に否定できないことを突きつける、という方法をとる。それが、聖書の解釈。原典の記述にまでさかのぼり、ここにはこういうことが書いてある、だから君のいうことは間違っている、と主張すれば、絶対に否定されないだろうという意図。聖書にかかれていること自体を否定したら依るべきものがなくなる。だから完全な論駁になるわけだ。

主張

宗教はただの政治の道具である、という主張。国家ができたとしても、それを成り立たせるために、国家への服従を理論的にといたとしても受け入れられるはずがない。だから、それを宗教というものを利用したのだ、ということ。つまり、国家の命令への服従が宗教の本質だ、ということになる。
ここからいくつかのことが導かれる。

宗教と国家との関係

それがもともと国家の手段であるのだから、宗教が国家に矛盾する場合には、国家が正しいということになる。

宗教の適用範囲

また、宗教の適用範囲について。宗教というのはある特定の国家において、それの命令に服従させるためのものである。だから、そこでかかれているのはその場所、時代、などに規定されるものでしかない。だから、そのような特殊なことについては、従う根拠などない、ということになる。

宗教と真理の関係

また、そこでかかれているものは、自然の真理とは関係ないということがわかる。それはただ、そのときの国家の構成員を従わせるために、そのものたちの認識の程度にあわせてつくられた国家の命令に服従させるためのものであり、真理について語るという位置づけを最初からもっていないからだ。

思想の自由

また、ここから、宗教だとかに重要なのはただの行為のみであり(実際問題従えばそれで国家は動くから)、何を考え、信仰するかというのを規制すべきではないということもでてくる。

宗教家の批判

これは、無知、隷属、謙遜をとく宗教家というのが国家にも、個人の利益にも反している。ただ人民を騙して自己の利益を得ようとしているだけだ、ということを明らかにすることになる。宗教の本質が国家の手段ということから、個人の利益にも、国家の利益にもなりようのないことというのは誤っていることになるのだ。そのようなものが宗教の本質ではないことを示す。徐々に、それの本質だと思いこまされていたのをはぎとられる過程。そうして、宗教によって価値があるとおもいこまされてきた幻想がとられ、単純な世界が現れることになる。

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