エンゲルス『フォイエルバッハ論』

ヘーゲル

既存の哲学のとらえ方。既存の哲学が失敗していたのは、物事を動的に捉えていなかったからだと整理する。

例えば、世界と自己との関係だとか、精神が自然をどのようにして認識するだとか、どうやって精神が真理を捉えるかだとかいう問題について取り組んできたが、それが成功しなかったのは、そこに固定したものがあると思っていたという、その前提から誤っていたのだと、整理。主観と客観、自己と共同体、といったものを静的な、不動のものとして考えた上で、その両者がどのように関係するのかという問いを出してきたのがまずかった。そこに絶対的な区別が無いのに、それがあるかのように思っていたのが間違っていた。

あるのは、ただの過程のみ。区別を排したら残ったものという程度の意味。動的な、運動そのものが実際にあるものである。個々の対立するものがあるように見えたとしても、それは精神の発展と共に消え去るものでしかない。そうすると、ここで考察されていたような問題というのは、そもそも問題では無かったということになる。

そして、これをヘーゲルはさらに推し進める。個人だとか、自我とか、他者だとかいうレベルにまで。そうすると、これまで確乎としたものだと思っていたものが、その明確な区分を失うことになる。そして、結論として、絶対精神というものが運動しており、それが個々の段階で、特定のまとまりをもったものとして現れ、そしてそれが否定されていくのだ、という理論になる。個が認識する、ということももはや言えないからだ。学問というのは、抽象度を上げ、その絶対精神を認識する過程でしかない。その時々で真だと思ったとしても、それはその時点でそうであるにすぎない。絶対的な真理を一度に獲得できるのではなく、徐々に到達できるものなのだ。

整理すると、ヘーゲルの言葉では、全ては「絶対精神が自己を認識する過程」ということになるが、これは実際的な意味では、「その時々で見いだす真理というのは、その時々で真理であるように見えるだけにすぎない」ということになる。
これは、哲学のあり方として、ただ書斎に引きこもって概念を云々して、真理を探究していても意味が無いということになる。真理というのは、そのものがいる環境だとか、知識の限界に起因している。だから、真理に近づくには。より、今まで真だと思っていたものよりも次元を高めるためには、未知のものについて知り、それによって漸次、今までよりもより真理に近づくという方法が適切だということになる。

ヘーゲル派の分裂

しかし、ヘーゲルは一方で、それを一つの体系としてまとめている。絶対精神を認識する過程は自分で終わったのだと結論づけることで。しかしこれは、ヘーゲル自身の主張と食い違う。

ここから、ヘーゲル左派と右派とに分裂したが、最終的にフォイエルバッハがそれに決着をつける。

フォイエルバッハ

主張は、唯物論。あるのは自然の運動のみであり、それが個々の段階で、ある特定の観念として、真理として人間の認識の内に現れているにすぎない、というもの。ヘーゲルの言う絶対精神が、実は自然であるということ。

哲学が、神学と連続性を持ったものであり、その起源はたたの迷信である。それが、哲学史において、徐々にその神秘的な面が否定されてきたという主張。

その方法は哲学史の研究という、非常に学者チックな方法。デカルトからヘーゲルまでの哲学史を見て、それが徐々に、神学から、観念的な要素を削ぎ取り、自然に純化していく過程だということを見いだす。

例えば次のような仕方。神概念は、一般性を備え、普遍性を備え、万能性を備えている。だがこれは、人間が人間社会において見いだすものと実際は同じである。社会が備えている一般性、普遍性、万能性を反映したものとして、超自然的なものを見ているのだ、というように。

ヘーゲルとの比較

個々の知識を集め、それによって、漸次的に真理に近づくという点では両者とも同じである。ただ、それによって何を認識するのか、という点で、それが絶対精神か、それとも自然なのかという点で異なっている。

フォイエルバッハの場合は、自然による最高の産物が精神であり、観念である。神学に端を発しているもの。それが、徐々に、人間社会が発展することによってそのベールがはがれ、自然そのものを認識できるようになり、そこにおける原理も認識できる過程ということになる。徐々に偏見、先入見が消えていくという過程になる。

哲学から科学へ

ここから、これまで哲学で追ってきたのは、実際は自然において生じた欲求を、観念の内で満たそうとした結果に過ぎないということになる。だが、それはそのための方法論の未熟によってできなかった。かつそれは、神学の残滓によって妨げられていた。そこで、これを実際の自然のなかで満たそう。こうして、組織論などへ行く。

なぜ、神という概念を作り出したのか。それは、人間のもつ、自らの制限性を克服しようという欲求から来ているのだ。それを、抽象的な思考で満たそうとした結果が神だ。悲惨のうちにある人間が、こうありたいという願望を具象化したのが神。そこで、これが虚構だということが明らかになることで、それを実際に満たそうということになる。

そこで、それは類としての人間において達成されるとする。神において見いだしていた、偉大さ、全知、無限性は、類としての人間、つまり人間社会において求められなければならない。今まで抱えていた問題で、思索において乗り越えられると思っていたのは、実は社会において乗り越えるべきものだったのだ。だから、それを実現する方向に行こう、ということ。

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