プラトン『ゴルギアス』

構成

ソクラテスが、ゴルギアス、ポロス、カリクレスの三人の弁論家と順に対話をするという構成になっている。

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::::::::        |  ゴルギアスがやられたようだな… │
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:::::   | フフフ…奴は四天王の中でも最弱
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| ソクラテスごときに負けるとは │
| ソフィストの面汚しよ…      │
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  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡      ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   ( ゚ω゚ )
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  カリクレス       ポロス     ゴルギアス

最初にゴルギアス。いきなりメインのボスが出てくるわけである。だが呆気無くやられる。

次いでその弟子のポロスが、ゴルギアスはこれこれのやり方がまずかった、俺は同じ手は食わないぞと言って登場、だがやはり倒される。

ついで、当初はゴルギアスにソクラテスを紹介するちょい役をしてたカリクレスが突如として名乗りをあげる。ポロスはゴルギアスのようにまずい手はしないと言いながら、やはり同じ過ちに陥っていてそれゆえ負けた。俺にはそのような弱点などない、と。だがやはり倒される。

話されるテーマは、「弁論術は有益なものかどうか」。ソクラテスは無益であるという立場をとり、他の三人の対話者は有益であるという立場をとる。

ゴルギアス編 ― 弁論術の定義

どんな者にでも弁論術を教えることができる、そして弁論術というのは非常に有益な技術だ、と主張するゴルギアスに対し、ソクラテスは、その弁論術の内実を確定しようと試みる。

実際に見てみよう。

ソクラテス「ごもっとも。さあ、それでは、弁論術についてもその調子で答えてください。それは、いったい何に関する技術なのですか。」
ゴルギアス「言論。」

ソクラテス「もしわたしの理解に間違いがなければ、あなたの言われるのはこういう意味でしょう?すなわち、弁論術とは説得を作り出す術のことであって、そのおこなう仕事のすべては、かいつまんで言えば、結局はそこに帰着するのだと。それとも、この、聴衆の心に得心を植えつけるということのほかに、弁論術の効能としてもっと何かあげることがおありですか。」
ゴルギアス「何もない、ソクラテス。君の定義でじゅうぶん言いつくされていると思う。弁論術の主眼とするところは、いかにもその点にあるのだから。」

ソクラテス「してみると、弁論術とは説得をつくりだす術だと言っても、その説得なるものは、どうやら、人にそれと信じこませるだけのことなのであって、正と不正の何たるかを知識として教えるような説得ではないわけですね?」
ゴルギアス「そう。」

ソクラテス「そうすると、弁論家が医者よりも説得力があるというばあい、それは、そのことがらを知らない人が知っている人よりも知らない人々のなかで説得力をもつということになりますね?そういう帰結が出てくるでしょうか、それとも違いますか。」
ゴルギアス「このばあいは、たしかにそういうことになるだろう。」

このように、弁論術とは言論に関するものであり、正義と不正に関するものであり、説得を作り出すものであり…というように、ゴルギアスとの一致点を漸次的に形成していく。

ではなぜソクラテスはこのようなことをしているのかというと、ゴルギアスの主張を

  1. 弁論術とは、知識の無い者が、知識の無い者を説得するための技術である
  2. そのような技術は国家において何の役にも立たないものである

の二段階で否定しようと頭のなかに思い描き、議論しているからである。

このように進めるために、まず第一段階として、弁論術の定義についての一致をはかっているのが先の箇所だ。一致点を少しずつ形成し、かつそのときには、一致点をゴルギアス自身の口で一々語らせるということをしている。こうしておくことで、「弁論術は有益なものかどうか」の議論になったときに、弁論術の定義の曖昧さを根拠にした議論のひっくり返しをあらかじめ防いでいるのである。都合が悪くなってひっくり返そうとしても、ソクラテスに「いや、あなたとはさっきその点で一致したはずですよ、あなた自身おっしゃってたじゃないですか。その言葉繰り返しましょうか?それにここにいる人達全員、そのこと覚えていると思いますよ?」と言われてしまうわけだ。

だが、ゴルギアスは、第一段階で矛盾したことを言ってしまい、本論に入る前に舞台から退いてしまうことになる。

ソクラテス「弁論術の先生としてのあなたは、入門者に対してそうした知識はなにひとつ授けはしないけれども――それはあなたの仕事ではないわけですから――、ただ大勢の人間のなかで、そういったことがらを知らないのに知っていると思われるようにしてやるのでしょうか?あるいはそういった問題に関して真実をまえもって知っていてもらわなければ、入門者に弁論術を教えることはぜんぜん不可能なのでしょうか?」
ゴルギアス「よろしい。わたしの思うに、ソクラテス、もし知っていなければ、そうした知識もあわせて、このわたしから学ぶことになるであろう。」
ソクラテス「これはありがたい、よく言ってくださいました。」

ポロス編 ― 弁論術は有益か?

ゴルギアスの後を受けて、その弟子のポロスが登場する。

ポロス「なんたることを、ソクラテス!いったいあなたは、弁論術について、ほんとうに、いまあなたが言っているような考えを持っているのですか?それとも、あなたのつもりでは……。いや、そもそもゴルギアスが、弁論術をおさめた人間が正や美や善のことも知らないなどとは、ちょっと気がひけて認めるのをためらい、この人のところへ来る弟子にその知識がなければ自分が教えるだろうと同意したのを幸いに、そして、おそらくこの同意のために、あとで話に矛盾した点が生じたのを幸いに……、そこがまさに、あなたの思うつぼなのだ。自分でわざとそうした質問のほうへ人を誘導しておきながらね。」

ゴルギアスとの対話で、第一段階「弁論術とはなにか」が確定したことを踏まえ、先にできなかった第二段階「弁論術は有益なものか」の議論に入る。やっとここから本題になるわけだ。
ソクラテスは最初に「弁論術とは何の役にも立たないくだらないものだ」と主張する。それに対して、ポロスがパッと頭に浮かんだ反論を次々とぶつけ(例えば「じゃあ君は弁論家が実力者じゃないと思うのかね?」といった問いをする)、ソクラテスがそれに一々答える、という仕方で議論は進められる。

議論の内容は、順に次のようになる。

  1. 弁論家は実力者かどうか
  2. 不正を加えるものと受けるもののどちらがましか
  3. 不正を行って罰を受けないものがもっとも惨めなのかどうか

その1は、弁論術に長けた者が実際に世間で成功している→だからその技術は有益である、というように本題とつながる。

その2とその3は、弁論術で達成することのできる、他者に思い通りに不正を加えることができることや自身が何か悪いことを行ってもそれが罰を受けることを回避できることが、本当に有益なものかどうか、という点で本題とつながっている。

議論の仕方だが、ポロスは自説の根拠として、強烈な印象を持つ弁論術者が実行した事例をいくつも思いつくままあげる、ということをする。

ポロス「これは驚いた!彼らはまるで専制君主のように、殺したいと望む人間であればこれを死刑に追いやるし、また、これと思う者から財産を取り上げたり国から追放したりするではないか。」

ポロス「何を言う!ここに一人の男がいて、王位に対して不正な陰謀をたくらんで捕えられ、捕えられてから拷問を受けたり、局部を切りとられたり、眼を焼かれてえぐられたり、その他ありとあらゆるひどい責め苦を受け、それも自分一人だけではなく、自分の妻子が同じ責め苦にあっているのを目の前に見せつけられ、あげくのはては、はりつけや火あぶりの刑に処せられたとする。いったい、この男は、かりに首尾よく発覚をまぬかれ、王の位についてその国の支配者として生涯をすごすとしたばあいよりも、より幸福だというのか。」

それに対し、ソクラテスは次のように反駁する。

  1. ある者が実力者かどうかということは、その者が自身の目的を達成したかどうかでのみ、はかることができる
  2. だから、その者が手段として何を用い、その成果がどれだけ強烈なものだったとしても、それをもって何かを評価することはできない
  3. 目的が達成されたかどうかという観点で見た時、弁論術というのは役に立っていない

つまりは、君のように印象の強烈さだけを繰り返したところで、それは問題の本質とは関係無いし意味ないよ、思いつきでしゃべってないで問題を整理してから考えようぜ、という議論をするわけである。

ソクラテス「思いどおりにふるまうということは、その人の身のためになることがそれに伴うばあいはたしかに善きことであって、そして、それがつまり、どうやら、大きな実力があるということにほかならない。しかしそうでないばあいは、それは悪しきことであり、とるにたらない力しかないということになるのだ。」

だから、弁論家は実力者ではない。その者が自分にとって有益なことをしているわけではないからだ。
不正を加えるもののほうが、受けるものよりも災厄である。そちらのほうがその者にとってより害悪だからだ。
不正を行って罰を受けない者は最悪の災厄を被っていることになる。罰というのは、人を正しい状態にするためになされることであるからだ。それを避ける行為は、患者が医者にかかるのをいやがっているのと同じことである。

よって、弁論術というのは、何の役にも立たない無益なものであるということになる。

結局ポロスはソクラテスに同意し、やはり議論から退場することになる。

カリクレス編その1 ― そもそも善は存在するのか

ポロスの後を受けて、カリクレスが登場する。ここから少し議論の質が変わる。

カリクレス「ポロスのやり方で感心しないのは、不正を受けるよりも不正を加えるほうが醜いということをあなたに容認したこと、まさにこの点である。なぜなら、この点に同意を与えたばっかりに、こんどは、彼自身が議論のなかであなたのために金縛りにされたあげく、すっかり口を封じられてしまったのだが、それというのも、彼が心に思っているとおりのことをそのまま口に出して言うのを恥たからにほかならない。」

これまでソクラテスの対話者たちは、善というものの存在を認めてしまっていた。それが追求すべき最も重要だということを前提にして話を進め、そのために、弁論術というのは全く無用で役に立たないという結論に至った。だが、実は善などというものは存在しないのではないか?

自分はそれが無価値だと知っている。だから君のする、徳だとか魂のあるべき姿だとかを前提とした哲学者チックな議論など無駄だ、俺には通用しないぞ。俺が認めるのは強者が弱者を支配するという理屈だけだ。重要なのはただの力だ。あいつらは率直さが無いから勝手に自縄自縛に陥ったのだ。君はそれをうまくついて罠を仕掛けただけだ。

このように、これまでの議論のそもそもの前提を疑う議論をする。

カリクレスの主張

カリクレスの主張は、世間一般に通じているような法律、習慣、道徳などというものというのは欺瞞でしかない、というもの。

カリクレス「そもそも法の制定者というのは、思うに、世の大多数を占めるそういう力の弱い人間どもなのだ。だから、彼らが法を制定して、これは賞賛すべきこと、これは非難すべきことなどときめて、誉めたり咎めたりしているのは、要するに、自分たちの身の上を心配し、自分たちの利益をはかろうという目的からにほかならない。」

カリクレス「法律習慣のうえでは、世の大多数者よりも多く持とうと求めるのは不正であり醜いことだと言われていて、またこれをしも人々は「不正行為」と名づけているのであるが、しかしわたしの思うに、自然そのものは、まさに同じそのことこそが正義なのだということを示しているのである。すなわち、すぐれた者は劣った者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多くを持つことこそが正しいのだと。」

カリクレス「その法なるものによって、われわれは自分たちのなかで最もすぐれた者たち、最も力強い者たちを、ちょうど獅子を飼いならすときのように、子供のときから手もとにひきとり、その気性をしつけて型にはめこもうとする。平等をまもらなければならぬ、それが立派で正しいことなのだと言い聞かせながら、その呪文と魔術でたぶらかして、彼らを奴隷化してしまうのだ。
しかしながら、わたしは思う、じゅうぶんな天性を授かった人間がひとたびあらわれるならば、彼はこれらすべての束縛を身からふりはらい、ずたずたに引き裂き、くぐり抜けて、自由の身となり、われわれがきめて書いておいたさまざまの規則も、数々の術策も呪文も、また、いっさいの自然に反する法律も、すべてこれを足下に踏みにじって立ちあがり、われわれの奴隷であった男は、突如、君主となってあらわれる。自然の正義が燦然と輝きでるのは、このときだ。」

ソクラテスの反論

カリクレスの「優秀な者が多く持つべきであり、そうでないものを支配すべきである」という主張は、「快楽以外に追求すべきものなど存在しないのではないか」という問題意識からきている。

快楽をひたすら多く得るというのが人間本来の姿であり、人間の目的だ。だが、これを抑えるものがある。それが社会であり、国家であり、慣習である。それら社会的な圧力によって快楽の追求が抑えられ、そのかわりに善という無意味なものが礼賛されている。だからこのような秩序と既成の価値観をひっくり返したい。ここから先の、優れた者はそうでないものを支配すべきである、という主張につながる。

そこでこれを否定するため、ソクラテスは「君も実際には、快楽とは別に追求すべき善があると認めているだろう」という議論をすることになる。たとえば、カリクレスのいうことをそのまま受け取れば、かゆいところがあるとしてそれをひたすら掻き続ける人間が本来の姿だということになるけどそんなことないだろ?というように。この議論がカリクレス編のメインで割と長い。

ただ、この議論は、「実際には認めているけれども認めたくない相手を説得するための理詰め議論を色々な角度でしてみる」という、ややこしくてあまり有意義ではないものになっている。理屈としてだけみると何をしてるか分かりづらいし、ややこしいのだが、あまりまじめに考察しなくてもいいところだと思われる。

カリクレス編その2 ― 実際問題不利益を被るではないか

君が例えそういう綺麗事を言っても、結局それでも実際問題として、不利益を被ることがあるじゃないか。裁判で殺されたりするじゃないか。そういう不利益を防ぐためにも、弁論術は必要ではないか、という議論が最後になされる。

これに対して、ソクラテスは2種類の回答をしている。

不正を加えるよりはまし

自分が不正を加えられることを防ぐためには、それは支配者になるか、あるいは支配者層に取り込まれるかするしか方法はない。だが、それをしてかつ、不正を加える側に回らないのは不可能である。だからそれはできない、というもの。

ソクラテス「そこで、この国に一人の青年がいて、心中このように考えたとしたらどうだろう?いったい、どうしたら自分は大きな権力を手に入れて、だれからも不正を受けないようになれるだろうか、とね。どうやら、彼に残された途はと言えば、若いときからすぐに、その君主と同じようなものを喜んだり嫌ったりするように自分を習慣づけて、できるだけその君主とあい似た性格になろうと工夫する以外にはないだろう。そうではないかね?」

弁論術は技術としても程度が低い

弁論術は技術として学ぶ価値の低いものである。
まず、それは航海術や砲術といったものと同じ種類の技術でしかない。人間の目的である、よく生きるということ自体には関係の無い技術であって、それ自体として学ぶ価値のあるようなものではない。
また、弁論術というのは、人を以前よりもより優れたものにするような種類の技術でもない。ただ迎合に使われるような種類の技術であって、技術のなかでは下等なものである。だから、なおさら学ぶ価値は低い。

つまり

不利益を受けるということ自体は否定はしない。だが、それについては別に気にしても仕方ないようなことだ、というのがソクラテスの結論になる。

ソクラテス「いや、君、よく考えてみたまえ。気高いとか、すぐれているとかいうことは、安全に救うとか、救われるとか、そんなこととは別のことがらではないだろうか。どれだけの期間生きながらえるかというようなことをくよくよ考えて、いたずらに生命を惜しんだりするのは、いやしくも真の男子たる者のなすべきところではないだろうからね。いや、そうした点については、いっさいを神にまかせ、女たちの言うとおり、何人も定められた死の運命をまぬがれることはできぬと信じて、考えるべきはそのつぎに来る問題、すなわち、いかにすればその定められた生の期間をできるだけ善く生きることができるかという問題なのだ。人は自分の住む国の政治形態に自己を同化させながら生きてゆくのがいったい、最上の生き方なのであろうか。すなわち、いまの君のばあいなら、君がアテナイの民衆に好かれて、この国の有力者になろうとするなら、君はできるだけ、アテナイの民衆に似た性格の人間にならなければならないのだろうか……。」

議論という観点で

内容が云々というよりは、敵対した、思想の異なるもの同士がリアルな議論をしているというのがこの本の特色。読み物として非常におもしろい。

ソクラテスの対話者は、基本的にはソクラテスの思想に真っ向から反した者である。それが敵対的な議論をしてくる、という構造になっている。

ポロス「これは、なんと、さすがに論破しがたいことをおっしゃるね、ソクラテス!いやさ、三歳の童子でもそれがほんとうでないことぐらい、ちゃんと証明してみせることだろう。」「これはまた、ソクラテス、珍説を吐くものだね!」「もうすっかり反駁されてしまったとは思わないのか、ソクラテス?あなたの言っていることは、およそこの世に、だれ一人として賛成する者はいないようなことなのに。」

カリクレス「哲学というものは、たしかに、ソクラテス、若い年ごろにほどよく触れておくだけなら、けっして悪いものではない。しかし必要以上にそれに打ち込んで時間をつぶすならば、人間をだめにしてしまうものだ。」「人間がすっかりいい年になっていながらまだ哲学を続けているとなると、これは、ソクラテス、どうも滑稽なことになると言わざるをえない。」「いい年をしてまだ哲学にうつつを抜かしていて、いっこうにそこから足をあらわぬような男を見ると、もうそんな男は、ソクラテス、ぶんなぐってやらなければと思うのだ。」「そういう人間は、どれほど生まれつきの素質がすぐれていても、もはや一個の男子たる値打ちがなくなっているからだ。一個の中央から逃れ、詩人が男子の栄誉を輝かすべき場所としてあげている広場を避けて、社会の片隅にもぐりこみ、三、四人の若造を相手にぼそぼそとつぶやきながら余生をおくり、自由に大声で思うぞんぶん力づよい発言をすることもないとすればね。」「しかし、親愛なるソクラテス、どうかわたしの言うことに気を悪くしないでいただきたい。こんなことを言おうとするのも、あなたに好意をもっていればこそなのだから――あなたは、そんな状態でいることを恥ずかしいとは思わないのだろうか。」

ちなみに『国家』など後の著作になると、ソクラテスの対話者はただのソクラテスの取り巻きのイエスマンに成り下がり、読み物としてつまらない、これ対話篇でやる意味あるのか、というものになる。

ソクラテスの取り巻き「そうです、ソクラテス」「おっしゃるとおりです」「そのとおりです」「たしかにそうです」「当然そうあってよいことです」「それはもう、きっとそうであるはずです」「ゼウスに誓って」「まさしくそのとおりです」「ええ、たしかに」「ええ、間違いなく」「ほんとうに、おっしゃるとおりです」

登場人物の特徴

ソクラテスは非常に議論慣れをしていて、議論をする際に相手に有耶無耶にされないための技術を心得ている。
対話者は議論に勝つために、様々な術策をこらしてくる。だが、ソクラテスはあらかじめそれらの可能性を全部周到につぶした上での議論をしている。そこに注目してもいいかもしれない。

  • あらかじめ互いの共通前提を確かめてから議論を進める
  • 相手が議論を放棄すれば、その時点で俺も議論やめるよということを言う
  • 長い議論をあらかじめ念を押して封じておく
  • 相手に語らせて、段階を踏んで話を進める
  • その場にいる大衆を意識させながら議論する

などなど。

対する三人は、議論の習熟度が低く、勝手に転んでしまったという印象。

ゴルギアスは、そもそも反論されること自体に慣れてなさそうだ。自分の権威に服して自分のいうことを聞く弟子としか会話する機会のない大学教授、という印象。

ポロスは、上辺での反論の仕方については心得ているが、そこを流されて、内容に踏み込んだまじめな議論になるとまったく何もできなくなる。とりあえずこういう言い方をすれば相手はひるんで黙るんじゃないか、という言い回しを経験則からいくつか心得ていて、それを繰り返して議論を制圧しようという種類の人間。現代だと、大学の権威にすがって生きようと試みている学生が近い。研究室にとどまっていると、「つっこみどころはたくさんありますがw」「私は全くこの議論には納得できないということはわかってますよねw」みたいに表面的なハッタリが上達するのだ。ほかには2chで煽り方を身につけて調子にのってるやつが近いかもしれない。

カリクレスはある程度議論慣れはしてるし、内容の議論に入っても、認めたらまずい箇所については抵抗したり話をごまかす程度の駆け引きはできる。ただ、自分の持つ主張について真っ向から反対されたという経験はなさそうで、その点でソクラテスに遅れをとった印象。

どうすればソクラテスに対抗できたか

三人とも議論のレベル自体は高くなく、弁論術を使うのでも、もう少しはうまくやる仕方があったように思う。こうした弁論術をもっと悪辣にするとどうなるかというと、相手に語らせ、自分の主張は何も言わずに腐すだとか、自分の知識のひけらかしや権威によって相手が平伏し、こちらの言うことをすべて万歳して受け入れるまでは内容の議論をしないだとか、状況が悪くなれば権威なりなんなりを用いて話を打ち切るだとかそういう方法をとることになる。
そのうえで、ソクラテスなら、最初から大衆の面前ではなすだとか、相手がまじめに議論をする気ないならすぐにやめるよという立場をずっととってるとか、いちいち相手自身の言葉で確認をさせて議論を進めるだとか、そういういろいろな予防線を張ってるので、やはり弁論術で突破するのは難しそう。

ソクラテスの内容的な弱点は、国家が常に自分の利益と合致したものだということを、疑ってない点では無いか、というのが私の思うところ。
この前提が正しければ、ソクラテスのいうことは常に正しく反論の余地がない。裁判所の判決というのは常に正しく、それは誤った自分を正してくれるものなのだから積極的に従うべきである。そこにおいては弁論術でごまかしたりする必要などない。それはそうなるだろう。だが、実際には国家が変質することもあるだろうし裁判所の判断が不適切なものになることもありうるだろう。国家が常に正しい根拠というのを君は何かもっているのか。あるんだったら言ってみろよ、みたいな議論を俺だったらする。

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