フォイエルバッハ『キリスト教の本質』
概要
フォイエルバッハと、関係する哲学者の年代については以下の通り。
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 1770年8月27日 - 1831年11月14日
- ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ 1804年7月28日 - 1872年9月13日
- カール・マルクス 1818年5月5日 - 1883年3月14日
- フリードリヒ・エンゲルス 1820年11月28日 - 1895年8月5日
主著は
- 『キリスト教の本質』
- 『将来の哲学の根本命題』
の二つ。今回取り上げるのは『キリスト教の本質』。
『将来の哲学の根本命題』は、『キリスト教の本質』をコンパクトにまとめたような内容である。
フォイエルバッハは、一般にマルクス・エンゲルスとの関係で読まれることが多い。ヘーゲルとマルクスをつなぐ哲学者とされている。
フォイエルバッハは、なんといってもいくつかの点でヘーゲルの哲学とわれわれの見解との中間項となっているのに、このフォイエルバッハにはついぞふたたびたち帰るということがなかった。(エンゲルス『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』)
このような事情のもとで、ヘーゲル哲学とわれわれとの関係について、すなわち、われわれがどのようにしてこの哲学から出発し、どのようにしてそれから離れたかについて、手短かにまとめて叙述することがますます必要になってきているように私には思われた。同じように私には、われわれの疾風怒濤時代にヘーゲル以後の他のすべての哲学者たちにもましてフォイエルバッハがわれわれにあたえた影響をあますところなく承認することが、まだ返済されていない信用借りであるように思われた。(エンゲルス『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』)
今回は、フォイエルバッハがヘーゲルをどのように否定し、唯物論にたどり着いたのかを考察してみたいと思う。
ヘーゲル批判の構造
ヘーゲルの中心的な課題は、個人と社会との関係についてである。我々は、個人としての意識を持つと同時に、社会全体の一員としての意識も持っている。この二つはしばしば対立し、それが疎外として意識される。
これを分析するため、「主人と奴隷」という階級の存在について示したり、疎外労働について語ったり、労働による意識の発展について語ったりするが、その解決法は非常に観念的なものになる。ヘーゲルの世界観では、社会の発展や、個人の意識の発展を含む、すべてのものは、絶対精神の運動として説明される。疎外も、絶対精神がたどる一つの過程に過ぎず、絶対精神が展開することによって解決されるだろう。
フォイエルバッハは、このヘーゲルの絶対精神を批判する。それは、
- 神概念は、個人が民族全体に対して持つ意識が対象化したものである
- キリスト教の神も同様である。この神は疎外を生み、人間を惨めな状況に置く
- 哲学で扱われる神は、キリスト教の神の一種でしかない。ヘーゲルの絶対精神も同様である
という構造になっている。
神概念一般の考察
神は人間の作り出したもの
- 神は人間が作り出したものである
- 神の性質は、民族全体の持つ偉大さを反映したものである
というのがフォイエルバッハの主張だ。
神は万能であるとされる。それは、個では実現できないことであっても、民族全体であれば実現できるからである。例えば、ある個人が獲得することのできる技術は限られている。音楽家であると同時に、医者でもあり、著述家である、というようにすべての技術を網羅していることはまずない。だが、これは一つの民族全体ならばできることだ。
神は永遠であるとされる。これについても、個であれば実現不可能だが、社会全体であれば可能だ。個は有限で死に絶えるが、社会全体としてはそうでないからだ。
新しい人間はすべていわば人類の新しい述語であり新しい才能である。人間が多ければ多いほど、それだけますます人類は多くの力や多くの特性をもっているのである。どの人間もおそらく万人がもっていると同じ力をもっている。しかしそれにもかかわらずこの力は、各人のなかでかくかくの規定を受け且つかくかくの性質を与えられるので、独特な新しい力として現れるのである。それ故に、神的規定の汲んでもつきない充実の秘密というものは、「無限に多様であり且つ無限に規定されることができるが、しかしまさにそのために感性的である存在者としての人間的な存在者」がもっている秘密以外の何物でもない。無限な存在者・実際に無限な存在者・規定を豊富にもっている存在者は、ただ感性のなかにだけ・ただ空間および時間のなかにだけ存在しているのである。真実にさまざまな述語があるところにはさまざまな時間がある。この人間は卓越した音楽家・卓越した著作家・卓越した医者である。しかしその人間が演奏・著述・治療を同時に行なうということは不可能である。もろもろの対立やもろもろの矛盾を一つの同じ存在者のなかで結合するための手段は、ヘーゲルの弁証法ではなくて時間なのである。
各民族の神は、それぞれの民族において、偉大だと思われることを性質として持つ。その民族の性質を反映することになるわけだ。
人間に単なる自然人という述語が与えられる限りは、人間の神もまた単なる自然神である。人間が家屋のなかにとじこもっているところでは、人間はまた自分の神々をも神殿のなかにとじこめておく。神殿というものは単に人間が美しい建物に認めている価値が現象したものにすぎない。
後期の教養あるギリシァ芸術家が始めて品位・大度・不動の平静さ・快活というような概念を神々の像のなかで具象化した。しかし彼らにとってはなぜにこれらの特性が神の属性・述語であったのか?なぜかといえば彼らにとってはそれらの特性がそれみずからで神性として認められていたからである。彼らはなぜにすべての不快で下劣な激情を排除したのであろうか?なぜかといえば彼らがそれらの激情を礼儀にかなわない或る物・品位をそこなう或る物・非人間的な或る物・したがって非神的な或る物と認めたからこそなのである。ホメロスの神々は食いもすれば飲みもする。すなわち飲食は神的な享受なのである。体力はホメロスの神々の特性である。ゼウスは神々のうちでいちばん力が強い神である。それはなぜであるか?なぜかといえば体力がそれ自身において或る光輝あるもの・或る神的なものと認められていたからである。戦士の徳は昔のドイツ人にとっては最高の徳であった。そのためにまた、昔のドイツ人の最高の神は軍神オーディンであり、[彼らにとっては]戦争が[根本法律または最古の法律]であった。神性がもっている特性ではなくて、特性がもっている神的性質または神性が、第一の真の神的本質(存在者)である。したがって、今まで神学や哲学によって神・絶対者・真実在と認められていたものは神ではない。
類的存在
その根拠として挙げていることの一つが、宗教を持つのが人間のみであることだ。人間と動物との相違点は、社会的な存在か否かである。人間は自己の意識とともに、民族全体という意識も持つ。だが、動物は自身についての意識しか持たない。
したがって、人間しか神を持たないのであれば、それは民族全体についての意識を反映したものだろう、ということになる。
宗教は人間が動物に対してもっている本質的な区別に基づいている。したがって、動物はなんらの宗教をももっていない。昔の無批判的な動物誌家たちはたしかに、象は他の賞賛すべき諸特性と共に、宗教心という徳をもそなえていると考えていた。しかし、象の宗教というようなものは、おとぎ話の世界のものである。最も偉大な動物学者の一人であるキュヴィエは、自分自身の観察に基づいて、象を犬より少しでも精神段階が高いものとみていない。
しかし、このように人間を動物から本質的に区別するものは何であるか?この問いに対する、最も単純であり且つ最も一般的であり、また最も通俗的でもある答えは、それは意識であるという答えである。けれどもここでいう意識は厳密な意味での意識である。なぜかというと、自己感情とか感性的な識別力とかいう意味での意識、さらには外的事物を一定の顕著なめじるしにしたがって判定するという意味での意識さえも、動物に認めないわけにはいかないからである。最も厳密な意味での意識はただ、自己の類・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。動物はたしかに個体としては自己に対象になっている。それだからこそ動物は自己感情をもっているのである。しかし動物は類としては自己に対象になっていない。
したがって、動物はただ一重の生活を送るだけであり、人間は二重の生活を送る。すなわち、動物の場合には内的生活が外的生活と合一しているが、人間は内的生活および外的生活を送る。人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことができない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかいう類的機能――なぜかというと考えるとか話すとかは真の類的機能であるからである――をはたすことができる。人間は自己自身にとって私であり君である。人間は自己自身を他人の地位におくことができる。そしてそれはまさに、人間にとってはただ自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象であるからなのである。
動物とは区別された人間の本質は、ただ宗教の根底であるばかりではなくて、また宗教の対象でもある。しかるに宗教とは無限者の意識である。したがって、宗教は人間が自己の本質――そしてもとより有限で制限されている本質ではなくて、無限な本質――についてもっている意識であり、且つそれ以外の何物でもあることができない。実際に有限な存在者は無限な存在者に関してきわめてかすかな予感さえもっていない。
対象は自己の本質を反映する
もう一つの根拠が、何を対象として認識するかは、それを認識する者の本質に規定される、ということだ。
音楽を心地よいと思うためには、それを聞く主体が音楽への感受性を予め備えていなければならない。同様に、神を認識するには、予めそれを認識する者が、神への感受性を持っていなければならない。すなわち、認識する者が予め、神に帰されるような偉大な諸々の性質を知っている必要があるわけだ。ではそれをどこで知るかというと、人間社会において知る以外にないのである。
したがって、もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのときは君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である。もし君が音楽に対する感覚や感情を少しももっていないならば、そのときは君は最も美しい音楽のなかでもまた、君の耳の側を吹き去って行く風や、君の足の側を流れ去っていく小川のなかに聴く以上の何物も聴かないであろう。したがって、音調が君を感動させるときに君を感動させるものは何であるか?君が音調のなかで聴くものは何であるか?それは君自身の心情の声以外の何であるか?
初期のキリスト教
以上の一般的な考察をもとに、フォイエルバッハはキリスト教について分析する。キリスト教の神は、不幸な者が、自らを救う存在としてつくりだしたものである。
宗教の本質的な立場は実践的な立場である。すなわちここでは主観的な立場である。宗教の目的は人間の福祉・救い・浄福であり、神に対する人間の関係は人間の救いに対する人間の関係以外の何物でもない。すなわち、神とは魂の救いが実現されたものであり、または人間の救いや浄福を実現する無制限な威力である。他のどんな宗教もキリスト教ほど語調を強めて人間の救いを強調しなかった。キリスト教はとくにこの点で他の宗教から区別される。このためにキリスト教はまた自己を神の教説とは呼ばないで救いの教説と呼んでいる。しかしこの救いは現世的地上的な幸福や福祉ではない。反対に、最も深遠で最も真実なキリスト教徒は、地上の幸福は人間を神から引き離すが、それに反し現世の不幸や悩みや病気は人間を神のところへつれもどし、そしてそれ故にただこれらのものだけがキリスト教徒にとってふさわしい、といっている。それはなぜか?なぜかといえば不幸なときは人間はもっぱら実践的にまた主観的に考えているからであり、不幸なときは人間はもっぱら必要な一つのことに関係するからであり、不幸なときは神は人間の欲求として感じられるからである。
神は本質的に、もっぱら宗教の対象であって哲学の対象ではなく、心情の対象であって理性の対象ではなく、心情の必要の対象であって思想の自由の対象ではない。かんたんにいえば神は、理論的立場の本質ではなくて実践的立場の本質を表現している対象であり存在者である。
この神は、啓示という仕方で個の前にあらわれる。それが実在するか否かは、啓示を受けたものにとってはどうだっていいことだ。救いのために神は要請されたのであり、それを解決する存在であればそれで十分なのである。
宗教的心情は疑わない。宗教的心情は、他のものを見るために感官をもっているのではなくて、単に自分の表象を自分の外部で存在者として認めるために感官をもっているにすぎない。
諸君よ!私はこのことをもう一度諸君にくりかえしていうために叫ぶのであるが、事実とは人びとがその真理性を疑わないような表象なのである。なぜかといえばその表象の対象はなんら理論の事象ではなくて心情の事象だからである。
そしてその心情は自分が願望したり信仰したりするものは存在することを願望しているのである。
キリスト教の変質
キリスト教は時代を経ることで変質し、人間の生活をより惨めなものにする。
物質の軽視と疎外
キリスト教において存在するのは、神と個のみである。それ以外の中間部分は、徹底して軽視されることになる。実際に個へ恩恵を与える隣人の気遣い、他者への思いやり、社会の有用性といったものへの感謝は、神への感謝として現れるわけだ。
この状態が継続するに従い、個の労力がそれだけ神を富まし、より強力にする。逆に、人間はますます貧困になる。そして、強大になった神によって抑圧される。疎外状態が生じるわけだ。
神を富ませるためには人間が貧困にならなければならず、神が全であるためには人間は無でなければならない。しかしまた人間は自分自身は何物でもある必要がない。なぜかといえば、人間が自己から取り去るすべてのものは、神のなかで消えて行くのではなくて、維持されるのだからである。人間は自分の本質を神のなかにもっている。
人間は、生活と人間とに向けられるべきあらゆる心術と、自分の最善のあらゆる力とを、欲求をもたない存在者のために浪費する。実際の原因は自主性をもたない手段になり、単に表象され想像されたにすぎない原因が真実の実際の原因になる。人間は他人が自分で犠牲をはらって提供してくれた恩恵のために神に感謝する。人間が自分の恩人に向って示す感謝は単に外見上の感謝にすぎない。その感謝は恩人に向けられるのではなくて神に向けられるのである。人間は神に対しては感謝の念をささげるが、しかし人間に対しては感謝の念をささげない。こうして宗教においては道徳的心術が没落する!
さらに、キリスト教においては、学問や芸術に対する欲求が生じない。神において、そのような現世的な欲求はすべて満たされてしまうからだ。
このためにまた信心深い人は教養に対する欲求を自分のなかに少しももっていない。ヘブライ人はなぜにギリシァ人と異なって芸術や学問をもたなかったのだろうか?なぜかといえばヘブライ人は芸術や学問に対する欲求を少しももたなかったからである。そしてヘブライ人はなぜに芸術や学問に対する欲求をもたなかったのか?ヘブライ人にとってはエホバが芸術や学問に対する欲求を代替していたのである。
私はわたしの神のなかに、あらゆる財宝と貴重品の総体をもち、知る値うちがあるあらゆるものの総体をもっている。しかるに教養は外部に依存しさまざまな欲求をもっている。なぜかといえば教養は感性的な意識や生命そのものや制限を再び感性的現実的な活動によって克服するのであって、宗教的空想の魔力によって克服するのではないからである。それ故にまたキリスト教は、すでにしばしば注意されたように、それの本質においては、文化や教養やのどんな原理も自己のなかにもっていない。なぜかといえばキリスト教は地上の生活の制限と重荷とをもっぱら空想によって克服し、もっぱら神のなかで・天国のなかで克服するからである。
書物の神
啓示は、時代が下ることでただの言葉にとってかわられる。
初期は、人間は啓示により、五感で神とつながっていた。個人的な苦悩を解決する神が要請されたのだから、それで十分だったのだ。だが、啓示を受けた者はいずれ死ぬ。結果、啓示を受けた者の書いた文書だけが残り、それだけが個と神の唯一の結びつきとなる。それによって感じられる神は、ただの抜け殻でしかないわけだ。啓示の神においては存在した一体感が失われる。さらに、特定の時代に、特定の状況で啓示された言葉を普遍化するため、詭弁、迷信が生じるだろう。
しかし啓示に対する信仰はただ道徳的な感覚および趣味――すなわち徳の美学――を腐敗させるだけではない。啓示に対する信仰はまた人間のなかにある最も神的な感覚――真理に対する感覚・真理に対する感情――をも毒する、そうだ殺してしまう。神の啓示は一定の一時的な啓示である。神は紀元何年かにたった一度だけ自分を啓示した。そしてそれはもとより、あらゆる時代や場所やに――すなわち理性や類に――対してではなくて、一定の制限された個人に対してである。啓示は、場所的にまた時間的に限定されたものであって、他の人びとに対してもまたその享受がそこなわれないでめぐまれるためには、文書によって保存されなければならない。それ故に、啓示に対する信仰は同時に――少なくとも後世の人びとにとっては――書かれた啓示に対する信仰である。しかし、必然的に時間性と有限性とのあらゆる条件のもとで編まれた歴史的な書物に、絶対的普遍的に妥当する永遠な言葉の意義をもたせる信仰の必然的な帰結および働きは、迷信と詭弁である。
命令としての神
神と個のみが存在する世界観においては、神の言葉は命令となる。
ここでは、神を信じるか、信じないかが最も重要になる。他のことに寛容であっても、ここでは例外はない。異教徒を容認する余地は存在しないのだ。それは、キリスト教が本来的に持っていた、愛と矛盾することになる。普遍的な愛は消え、異教徒の弾圧が容認されることになるわけだ。
信仰は本質的に、限定された信仰である。ただこの限定性における神だけが真の神である。このイエスがキリストであり、真実な唯一の予言者であり、神のひとり子である。そして、もし君が君の浄福をとり逃がしたくないと思うならば、この限定されたものを信じなければならない。信仰は命令的である。それ故に、信仰が教義として固定されることは必然的であり、信仰の本質のなかに含まれている。
信仰はたしかに食物、および信仰に無関係なその他の事物においては寛容であるが、しかし信仰の対象に対する関係においては決してそうではない。キリストに賛成しない人はキリストに反対する人であり、キリスト教的でないものは反キリスト教的である。
思弁哲学
キリスト教に由来する、人間の惨めな状況はプロテスタンティズムによって克服はされた。だが、理論的にはいまだ継続している。
そして、哲学もキリスト教の枠内にとどまっている。それは宗教の残滓にすぎない、というのがフォイエルバッハの立場だ。
宗教にとって彼岸的であり対象的でない神を合理的あるいは理論的に加工し解明したものが、思弁哲学である。(『将来の哲学の根本命題』4)
思弁哲学の本質は、合理化され、実現され、現在化された神の本質以外の何ものでもない。思弁哲学は、真の、首尾一貫した、理性的な神学である。(『将来の哲学の根本命題』5)
哲学の神は宗教の神の一種
宗教における神とは、自身にとって最も本質的、神的であると思われる性質を反映させたものである。そしてそれは、民族の持つ全能さだとか、自己の困窮を救う性質だとかを反映させたものになっていた。
哲学における神は、哲学者が最も重大だと考える、「思考」という自己の本質を反映させたものである。
当然、それは本来の宗教において考えられた神の性質と矛盾することになる。哲学者の神は、人間的な要素、心情的な要素を含まないからだ。こうして、「擬人化」「三位一体」「奇跡」「啓示」などの、本来の宗教では当然で証明不要なものが謎となり、課題として取り組むことになる。結果、無意味で、複雑で、詭弁にまみれたものができあがることになる。こうして、宗教自体が意味不明なものになってしまうのだ。
神としての神――すなわち、有限でない存在者・人間的でない存在者・物質的でなく規定された存在者・感性的でない存在者としての神――は、単に思惟の対象にすぎない。このような神は非感性的な存在者・形態をもたない存在者・とらえ難い存在者・形象をもたない存在者であり、抽象的で否定的な存在者である。このような神はただ抽象と否定とによって認識される――すなわち対象になる――だけである。それはなぜか?なぜかといえば、そのような神は思惟力――一般に、人びとはそれを勝手な名でよんでいいが、人間に理性や精神や知性を意識させるところの力または活動――の対象的本質以外の何物でもないからである。
神そのものについては人びとはどんな心象(形象)も作ることができない。しかし君は、悟性や知性について心象(形象)を作ることができるか?悟性や知性は形態をもっているか?悟性や知性の活動は最もとらえ難い活動・最も表現し難い活動ではないか?神は不可解である。しかし君は知性の本質を知っているか?君は秘密をたくさんもっている思惟操作や、自己意識のかくれた本質を探求したか?自己意識は謎のなかの謎ではないか?
ヘーゲル
絶対精神は神の一種である。絶対精神ははるか昔から存在し、宗教、社会全体の意志、個々人の意志において、個々の段階において限定された姿で自己をあらわすとされる。しかしこれは、実際には民族全体、あるいは社会全体に対して持つ意識の反映に過ぎない。
こうして、ヘーゲルの絶対精神は否定されることになる。
神の人格性とはこうして、人間が自分自身の本質の規定と表象とを、他の本質(存在者)――人間自身以外の本質(存在者)――の規定と表象とにするために用いる手段である。神の人格性はそれ自身、人間の人格性が疎外され対象化されたもの以外の何物でもない。
人間が神についてもっている意識を神の自己意識にするヘーゲルの思弁的教説もまた、右のような自己疎外の過程に基づいている。神はわれわれによって考えられ知られる。このように神が考えられるということは思弁哲学にしたがえば神が自己を考えるということなのである。
さてしかし、ヘーゲルの教説のなかでいわれているように、もし神に関する人間の意識が神の自己意識であるならば、そのときそうだ人間的意識はそれ自体においてすでに神的意識である。したがって君はなぜに、人間から人間の意識を疎外し、そしてそれを人間から区別された或る存在者――或る客体――の自己意識にするのか?なぜに君は、本質を神に帰属させ、人間にはただ意識だけを帰属させるのか?神は自己の意識を人間のなかにもち、人間は自己の本質を神のなかにもっているのか?神に関してもっている人間の知は神が自己自身に関してもっている知か?それはなんという分裂であり矛盾であろう!それを転倒せよ!そうすれば君は真理をもつことになるのである。すなわち、人間が神に関してもっている知は、人間が自分に関して――自分自身の本質に関して――もっている知である。
現状の分析
ヘーゲルに至っても、宗教は克服されていない。神が生き残っていることにより生じる害悪が、諸々の歪みを現在も生じさせている。
神に感謝が捧げられる横では、隣人への感謝、社会的な道徳、愛といったものが犠牲にされている。他者や社会との真のつながりは失われ、神からの命令によってでしか他者とはつながることができない。真理は貶められ、感性的な欲求は、来世への欲求により抑えつけられている。このような、欺瞞的で惨めな状況に人間は陥っているわけだ。この状況を覆そう、というのがフォイエルバッハの結論となる。
私は信仰と愛との間の矛盾を展開した。そしてわれわれはこの矛盾のなかに、キリスト教――宗教一般に特有な本質――を超克する必要があるということの、実際的で手に取るように明らかな根拠をもっている。われわれは、宗教の内容と対象とが徹頭徹尾人間的なものであることを証明し、神学の秘密は人間学であり神の本質の秘密は人間の本質であるということを証明した。
それ故に次のような公然たる告白および白状は歴史の必然的な転回点である。すなわち、神の意識は類(人類)の意識以外の何物でもないという告白および白状、人間はただ自分の個体性または人格性の制限を超克することができまた超克すべきであって自分の類の本性や本質規定やを超克することができずまた超克すべきではないという告白および白状、人間は人間的本質(存在者)以外のどんな本質(存在者)をも絶対的神的な本質(存在者)として思惟し感知し表象し情感し信仰し意欲し愛し尊敬することができないという告白および白状は、歴史の必然的な転回点である。
宗教は人間の最初の自己意識である。宗教が神聖であるのは、それがまさに最初の意識の伝承であるからである。しかし、宗教にとって最初のもの――神――は、すでに私が証明したように、それ自体においては――真理にしたがえば――第二のものである。なぜかといえば神は単に人間の本質が人間自身にとっての対象的になったものにすぎないからである。そしてそれ故に、宗教にとって第二のもの――人間――は第一のものとして認められ且ついいあらわされなければならない。人間に対する愛は決して派生的な愛であってはならない。人間に対する愛は根源的な愛にならなければならない。ただそのときだけ愛は真実で神聖な信頼すべき威力になるのである。もし人間の本質が人間の最高の本質であるならば、そのときは実践的にもまた最高且つ第一のおきては人間に対する人間の愛でなければならない。人間は人間にとって神である――これは最上の実践的根本命題であり、世界歴史の転換点である。
唯物論へ
マルクス・エンゲルス
ヘーゲルの絶対精神が否定された結果として、絶対精神を介さず、物質の運動のみによって、人間の意志の運動、社会の変化が説明されることになる。こうして、唯物論に至るわけだ。
フォイエルバッハがすすんだ道は、一人の――もちろんすっかり正統派であったためしはない――ヘーゲル主義者が唯物論へすすんだ発展の道である。この発展は、一定の段階に達すると、彼の先行者の観念的体系との完全な決裂をひきおこすことになる。抵抗しようのない力で押しまくられて、ついにフォイエルバッハは次のような認識に到達しないわけにはいかなかった。ヘーゲルの「絶対的理念」の先世界的存在とか世界の存在以前の「論理的諸カテゴリーの先在」とかいうようなものは、世界外の創造主への信仰の空想的な残りものにすぎない。われわれ自身がその一部である、感覚的に知覚できるこの物質的世界が、唯一の現実的なものである。われわれの意識と思考は、どんなに超感覚的に見えようとも、ある物質的な肉体的な器官、つまり脳髄、の所産である。物質は精神の所産ではなくて、精神がそれ自身物質の最高の産物にすぎないのである。(エンゲルス『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』)
ここから導かれることが二点ある。
一つが、疎外の問題だ。ヘーゲルの理論であれば、それは絶対精神に至ることで解決できるが、それが無効になってしまった。これにどう対処するか、という問題が再び提起されるわけである。
もう一つが、歴史を展開する原動力についてだ。ヘーゲル哲学においては、歴史の発展は絶対精神による自己展開という、一種の目的論で説明された。だがいまや、絶対精神は否定され、人間社会のみが残っている。必然的に、人間社会のうちにその原動力を求めることになるわけだ。
こういった課題に、マルクス・エンゲルスが取り組むことになる。
フォイエルバッハの限界
ただ、フォイエルバッハはこのような考察には踏み込んでいない。将来の人間が到達するだろう輝かしい未来に思いを馳せ、現状はどうにもならないと嘆く態度にとどまっている。
私がこれを『将来の哲学の根本命題』と名づけたわけは、現代は一般に洗練された幻想と、意地わるい偏見の時代であるために、単純な真理を――この根本命題はこれらの真理から抽象されたものである――まさにその単純さのために、理解することができず、ましてその価値をみとめることはできないからである。
将来の哲学は、哲学を「死んだ魂」の国から、肉体をもった、生きた魂の国へふたたび導き入れるという課題を、つまり、哲学を神々しい、何の欲求もない思想の法悦から、人間的悲惨の中へ引きおろすという課題をもっている。この目的のためには、それは、人間の知性と人間の言葉以上の何ものも必要としない。純粋にそして真に人間的に思考し、誤り、行為することは、しかし、来るべき世代にはじめて許されている。目下の急務は、まだ人間を描くことではなく、かれをその落ちこんだ泥沼から引きだすことである。(『将来の哲学の根本命題』)