神の存在証明の目的
我の不完全性
これで終われば話はきれいにまとまるのだが、そうはいかない。なぜなら、我の存在は実は脆弱で、すぐに否定されてしまうものだからだ。
デカルトは、一室に閉じこもり、数日を通して暖炉の前に座って省察をして、我の存在を証明した。たしかに上の議論は、外的なものに煩わされない環境ならば、通用するかもしれない。だが、一歩外に出ればどうだろう。冷たい外気が体を震わせ、体調の悪化が意識させられる。生活の糧を稼ぐために他者や組織と接する必要があり、そこで従属を強いられる。自己を否定しうる、自己と異なる原理に従うものの総体、すなわち自然全体に出会うのである。
我の否定
先の過程で導かれた我は、それが存在しない事態を想起することができないものだった。自然全体についても同様に、それが存在しない事態を想起することができないだろう。私を取り巻く自然全体が一挙に失われる事態を想定してみよ、できるというのならそれを否定するものとして何をイメージしているのか言ってみよ、と言われても答えられないはずだ。
さらにこれは、我と自然全体の相互関係の考察に至るだろう。このとき、我は、自然全体の内部にあり、それに従属するものとして整理されるだろう。我について考えたとき、それを否定するものを想起できなかったのは、外界から隔絶された部屋で考え込む、特殊な環境下にいたからに過ぎない。これは不当な普遍化であり、ただの勘違いである。こうした考察に至るのである。
あるのは自然全体のみだ。思考、判断、意志といった精神の運動も、結局は自然全体に還元される。独自の原理で動く精神があると今まで思っていたのは、この構造についての無知に起因する。方法的懐疑の考察をそのまま進めれば、それは我の否定に至るのである。スピノザはこの立場を取る。
神のア・ポステリオリな証明の意味
我を否定したくないデカルトは、これを捻じ曲げようとする。そこで出てくるのが、神のア・ポステリオリな証明だ。
我と自然全体の上位に、同じく独自の原理で動く神が存在すると仮定しよう。それが我と自然全体を産出し、そのあとも両者の併存を可能にしている、と考えてみよう。こうすると、先に意識された自然全体の必然性は薄れ、我の存在を否定しなくても済む(ような気がする)わけだ。
神の存在証明を一度してしまえば、たとえ暖炉の側を離れ、外に飛び出し、自然全体に出会ったとしても、我を否定しなくて済む。「確かに私はそこに含まれるように見えるかもしれないし、それに否定されえるように見えるかもしれない。でもね、それはそう見えるだけなんだよ」と言って合理化できるわけだ。