神のア・プリオリな証明
神を認識できない理由
方法的懐疑の過程を把握し、我の不完全性に同意するのであれば、
- スピノザの理論
- デカルトの理論
のいずれかに行き着くことになるだろう。そして、どちらの立場に立つにしても、自然全体、あるいは神という、「それが存在しない事態を考えることができないもの」の存在を認めることになる。
だが、この事実は一般には共有されていない。それはなぜかと言うと、我々が普段意識するものが、犬、猫、人間、植物、椅子、机といった感覚的事物だからである。それらは、移ろい、複数で、消滅する、という共通点を持ち、それゆえ存在しない状態を考えることができる。普段接し、意識するものがこれら感覚的事物であるゆえ、「その存在を否定できる」ことが普遍的に通用する原理だと思い込んでしまう。そうして、自然全体、あるいは神について考察するときにも、その内実を考えずに「その存在を否定できる」と主張してしまうのである。
では、どうすればこの思い込みを否定できるかというと、適切な順序で考察を行えばいいのである。まず、明晰判明の規則について把握し、ついで「存在しないと考えることが不可能なもの」を認め、それから感覚的事物について考察すればいいのだ。何が真の基準かすら曖昧なまま、すべてをごっちゃにして考える習慣をやめる必要があるのである。そうすれば、「存在しない事態を考えることができないもの」があることは、おのずから明らかになるだろう。つまり、『省察』を最初から読み進めてきて、かつその内容を理解していたのなら、「ア・ポステリオリな証明」をする以前の段階で、神の存在は既に認めているはずなのである。
実体と様態
ここでの問題の核心は、自然全体のような「存在しない事態を想起できないもの」と、我々が普段目にする犬、猫、人間、植物、椅子、机などといった、「存在しない事態を想起できるもの」の混同である。デカルトは、前者を実体(substantia)、後者を様態(modus)と定義することで、この問題をシンプルに表した1。この言葉は、スピノザにも受け継がれることになる。実体と様態という語は、この問題意識に即して使われるものであり、それ以上の意味があるわけではない。
神の存在は自明
これを踏まえた上で、神の存在証明についてあらためて考えてみよう。
『省察』の順序にそって考察を進めてきたのであれば、神という実体の観念は、当然持っているはずである。さて、この「それが存在しない事態を考えることができないもの」について存在証明を求めることは、かなり馬鹿げてはいないだろうか?「人が座れるものを椅子と定義しよう」と言ったあとに「椅子って人が座れますか?」と聞くようなものだ。神の存在は、『省察』を真面目に読み進めてきて、それを理解している者にとっては、自明のことなのだ。本当は、神の存在証明など必要ないのである。
二つのポイント
ア・プリオリな証明は、『省察』を正確に把握している者に対して、神の存在が自明であることを確認する内容になっている。だが、『省察』をきちんと読んでいない者には、この証明は詭弁に映ることになる。
では詳しく見てみよう。以下が、第五省察でなされるア・プリオリな証明である。
確かに私は、神の観念を、すなわち最も完全な存在者の観念を、どんな形の観念、あるいはどんな数の観念にも劣らず、私のうちに発見するのである。さらに私は、つねに存在するということが神の本性に属することを、あるいは形もしくは数について私の論証することが、その形もしくはその数の本性に属することを理解する場合に劣らず、明晰にかつ判明に理解するのである。
ポイントは以下の二つである。
- 神の観念
- 神の本性に存在が属する
神の観念
『省察』を正確に把握している者にとって、神の観念が意味することは明白である。「存在しない事態を考えることができないもの」について、考えればいいわけだ。
だが、『省察』を真面目に読んでいない者は、これを感覚的事物の範疇にある何かとして捉えることになる。当然それは、デカルトが神の観念としているものとは全くの別物になるわけである。
神の本性に存在が属する
神の本性に存在が属することを認めるか否かは、方法的懐疑を理解しているか否かにかかっている。理解していない者は次のように考えるだろう。ある事物が存在するか否かの判断は、任意に行うことができる。「神」が何を意味するかを私は知らないが、それが何であれ、その本性に存在が属するはずがない。よって、「神の本性に存在が属する」は偽だろう、と。
方法的懐疑を理解している者は、「神の本性に存在が属する」は真だと考える。ある事物が存在するか否かの判断は任意ではないことを知っているし、既に明晰判明な神の観念を持ち、かつその本性に存在が属することを知っているからだ。
詭弁とする理由
『省察』を真面目に読んでこなかった者は、神の観念が何なのかもわからないし、「神の本性に存在が属する」が真であることも理解できない。そうして、デカルトの証明とは要は次のようなものだろうと、自分勝手な解釈をすることになる。
- 私が考えている神は、神であるからには万能である
- 万能であるからには、存在する能力も持つ
- よって神は存在する
そうして、ア・プリオリな証明は詭弁である、と主張するわけだ。
感覚的事物との区別
デカルトは、ア・プリオリな証明が詭弁として受け取られがちだということを把握した上で、次のように言う。「頼むから実体と様態の区別をつけてくれ!」「私が『省察』に書いたことを最初から飛ばさず読んでくれ!」2 3
ア・プリオリな証明を理解するポイントは、感覚的事物と「それが存在しない事態を考えることができないもの」を区別することにある。『省察』をきちんと読み、その内容を正確に把握すれば、この区別をつけることができるし、ア・プリオリな証明を自明のものとして受け入れることもできるわけだ。
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実体とは、存在のために他のものを必要としない形で存在するものを意味する。そして、全く何ものも要しない実体として考えられるものは一つしかない。すなわち神である。(『哲学原理』第一部51節) ↩
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もっともこのことは、一見しただけではまったく明白であるわけではなく、むしろある詭弁の相を呈しているかもしれない。というのは、私は他のすべてのものにおいて、存在を本質から区別することに慣れているために、神の存在もまたその本質から分離されることができる、かくして神は存在しないものと考えられる、と容易に私は説得されるからである。(第五省察) ↩
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ところで神に関しては、もし私が先入見にまみれておらず、感覚的事物の像が私の思考をまったく占拠していなかったならば、神よりも先に、またより容易に認識されるものはなかっただろう。なぜなら、最高の存在者が在ること、つまり存在がその本質に属する唯一のものである神が存在すること、このこと以上にそれ自身で明白なものが他にあろうか?(第五省察) ↩