神のア・ポステリオリな証明

心身二元論

ア・ポステリオリな証明の鍵となるのが、「物体は精神に劣るものであり、精神のような微細なものを生み出すことはありえない」という主張である。これについての明確な証明は行われていない。また、この主張は、誰もが同意するようなものでもないだろう。だが、この主張を受け入れると、我の不完全性の自覚から、自然全体の必然性の認識へと至る過程を歪めることができる。すなわち、

  • 我は不完全である→自然全体のみが存在し、我はその一部である

という過程が、以下のようになるわけだ。

  • 我は不完全である→だが自然全体はその原因ではない→上位の実体である神が存在する

ア・ポステリオリな証明は、この主張を前提になされたものである。

二つのア・ポステリオリな証明

では、ア・ポステリオリな証明の内容を見ていこう。
デカルトは二つのア・ポステリオリな証明を行っているが、それぞれ以下に基づいている。

  • 我と異なる原理で動くものの存在が強力に意識される
  • 我が単独では存在できないこと、他のものを要請することが強力に意識される

第一の証明

我の不完全性と我以外の存在

まずは、「我と異なる原理で動くものの存在が強力に意識される」ことに基づく、第一の証明から考察しよう。
私は、部屋の外に飛び出すことで、私の知らない行動をし、私の意に沿わず、時には私を傷つけさえするものに出会うことになる。これは、部屋の中でつらつらと省察していた時には、決して起こらなかったことだ。暖炉の傍では、過去の知り合いだろうと、小説のキャラクターだろうと、実在しない怪物だろうと、何でも虚構することができたかもしれない。だが、その虚構物は、私が知ってる範囲内のことしか行わず、私の意に背くこともなく、私を傷つけることもなかった。それゆえ、それらについては我が原因だということができた。だが、いまやそれと全く性質の異なるもの、すなわち我の知らない行動をし、我の意に沿わず、時には傷つけさえするものがあらわれているのである1。これらの観念は、外的対象が存在することを指し示しているのではないだろうか。

表現的実在性

デカルトは、外的対象の存在を示す観念の性質を、表現的実在性(realitas objectiva)という言葉で表す。観念にはそれの原因となるものがあり、かつそれにリアリティを感じる、といった意味だ。暖炉の傍にいたときに思い描いた観念には表現的実在性がないが、眼前でしゃべっている人の観念には表現的実在性がある、という言い方になるわけだ。
この表現的実在性があるように思われるものが二つある。一つが物体であり、もう一つが神だ。
まず物体について考察するが、これは私の精神で作り出せるものであり、その存在を認める必要はないとする2。私は考えるものであり、物体との間には大きな相違がある。だが、私が実体である以上、物体を作り出すことも可能だろう、というわけだ。

ついで、神について考察するが、これは私の精神が作り出せるようなものではないとする。よって、我が存在するのが確かであれば、神もまた存在することになるだろう。こうして、神の存在を証明する。

第二の証明

我の不完全性と我を成り立たせるもの

第二の証明は、「我が単独では存在できないこと、他のものを要請することが強力に意識される」ことに基づくものである。
私は外に出ることで、自身の脆弱性を意識させられる。吹き付ける風は体を凍えさせ、時間が経てば空腹を覚えるだろう。自己を維持するには食料、あたたかい住居、身にまとう服、といったものが必要になるわけだ。私は単独では存在できず、なにか別のものを必要とする。そして、それが手に入るか否かを決めるのは、私ではないわけだ3
さらに言えば、そもそも私が現にあることすら、私以外の何かを原因としていることがわかるだろう。私が生じたのは両親がいたからだ。その両親の原因として、そのまた両親がいる。この連鎖は無限にたどることができる。やがて、自然全体の秩序と連結により、私が今あるものとして存在するのだ、という考察に行き着くだろう。私が現に存在することを決めたのは、私ではないわけだ。

我の存在の原因

デカルトは、我の存在の原因になりうるものとして、物体と神についてそれぞれ考察する。物体については、「物体から精神のような微細なものが生じるわけがない」として、我の存在の原因ではないとする4。そして、神のみを我の存在の原因として認める。
不完全な我が存在するからには、我の存在の原因である神も当然存在するだろう。こうして、神の存在を証明する。

デカルトは、我を物体とは全く無関係なものとしてしまったため、ところどころで不明瞭で無理のある説明をする羽目に陥っている。例えば「君がいたのは両親がいたからでは?」という問いには、「両親は傾向性を置いたに過ぎない」というよくわからない返答をする。

むしろ両親はただ、私すなわち精神(いまは精神のみを私と認めている)がそこに内在していると私が判断しているあの質量のなかに、ある傾向を置いたにすぎない。

また、「物体がないと君は持続できないだろ?宇宙がなくなっても君というものがあり続けると思うのか?」という問いには、「我という実体が、神によって連続的に創造されているのだ」という、理解に苦しむ返答をする5


  1. 実際、それらはしばしば、私の意に反してさえ現われる。たとえば、いま私は、欲すると欲しないとにかかわらず、熱を感じる。そしてそのため私は、この感覚すなわち熱の観念は、私とはちがったものから、つまり、私のそばにある火の熱から、私のほうへやってくるのだ、と思う。(第三省察) 

  2. 物体的事物の観念において明晰判明であるもののうちの若干のもの、すなわち実体、持続、数、その他これに類するものは、私自身の観念からとりだされたように思われる。(第三省察) 

  3. ゆえにいまや私は、自分自身に問わねばならぬ。私は現に存在するところのこの私をすぐあとにもまた存在せしめうるような、ある力をもっているかどうか、と。(第三省察) 

  4. しかし、もしかするとその存在者は神ではないのかもしれない。そして私は、両親とか、神ほど完全ではない何か他の原因とかによって、生みだされたのかもしれない。いな、けっしてそうではないのである。すでに前に述べたように、原因のうちには結果のうちにあるのと少なくとも同じだけのものがなければならないことは明らかである。そしてこのゆえに、現に私は考えるものであり、私のうちに神のある観念を有するものであるから、私の原因として結局、どのようなものがわりあてられるとしても、それはまた考えるものであり、私が神に帰するすべての完全性の観念を有するものである、と認めなくてはならないのである。(第三省察) 

  5. なぜなら、人生のすべての時間は無数の部分に分割されることができ、しかもその各部分は、残りの部分にいささかも依存しないので、私が少し前に存在したことから、私がいま存在していなければならないということが帰結するためには、何らかの原因が、この瞬間に私をいわば再び創造する、つまり私を保存するということがなければならないからである。(第三省察) 

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