総合的方法

第一部後半(定理一六~三六)の解説に移る前に、総合的方法について説明しておきたい。

言葉自体は残る

総合的方法では、相手の言葉と理論を利用する。相手の話を聞いた上で、それを「あなたはこの言葉をこういう意味で使ってますよね」「あなたはこれこれの理論に基づいて話してますよね」と言って定義、公理の形にまとめる。その後は、その定義と公理のみを用いて、定理の形で同意を積み上げていく。そうして最終的に、相手が当初に行っていた主張を否定するわけである。
このため、想定相手の用いる言葉は、最後まで保存されることになる。ただ、その言葉が意味するものは、当初とは全く異なったものになるわけだ。デカルトが用いた神という言葉は残ったが、それがデカルトが当初意図したものとは、全く別のものを指すことになったように。

スピノザ解釈に関して

総合的方法は、相手から同意を奪取する上では非常に強力である。だが、第三者がその議論を見ることを全く考慮していない、という特徴を持つ。
相手の言葉と理論にあわせて議論をするということは、前提知識を持たない者はその議論が理解できない、ということだ。スピノザの議論は、「特定の相手に通じればそれでいい」「議論の前提に到達してない者は最初から対象外」というものなのだ。そして、たいていのスピノザ解釈者は、議論の前提に到達しないまま、的はずれな解釈を行っているのである。
議論の前提に到達していない者は、最初に定義された言葉から、スピノザの意図を読み取ろうとするだろう。その言葉が難解である場合は、『エチカ』全体でその言葉がどのように使われているかを調べ、その意味を推測しようとするだろう。だが、『エチカ』はそのような読み方を想定した書物ではないので、当然その試みは失敗する。そして、字面だけで、スピノザの意図とかけ離れた解釈をすることになる。「神という言葉を主語にした定理がある。だからスピノザは神を信じていたんだろう」「スピノザは、神という単語とこれこれの性質をセットにして用いている。従って、スピノザはこれこれを神の性質として認めていたんだろう」というように。
よって、スピノザが総合的方法を使っていること、スピノザが用いているのがデカルトの言葉と理論だと知っておくことが、解釈上重要になる。『エチカ』は、スピノザが独自に思いついた思想を伝えようとして書かれた書物ではない。敵対的な相手に対して、何としてでも自分の主張を飲ませようとして行った議論が『エチカ』なのである。したがって、議論の前提を踏まえなければ、いくら『エチカ』を読み込もうと、個々の語句の使われ方を研究しようと、理解できるわけがないのである。『エチカ』を理解する鍵は、『エチカ』外部にあるのだ。

« デカルトの批判(定理一~一五)
属性 »