デカルトの批判(定理一~一五)

実体の複数性の否定が目的

以上のように、『エチカ』の定義と公理は、デカルトを踏まえたものになっている。これらを基礎にして、定理を連ねていくことで、デカルトを否定するわけだ。
スピノザが否定の対象とするのは、実体の複数性である。デカルトは、神の他に、精神的実体と物体的実体があるとした。ではなぜデカルトは、実体の複数性を認めることができたかというと、論証の過程でズルをしたからである。デカルトは、実体と様態の相違を把握していたにも関わらず、実体概念に曖昧な余地を残しておいた。また、神以外に実体がありうるか否かという問題を、直接取り扱うことを避けた。デカルトは、核心的な問題について曖昧にしたまま、精神的実体と物体的実体の考察に移ることで、実体の複数性を既成事実化したのである。
これを否定するため、スピノザはまず、実体概念の明確化を行う。さらに、神の存在証明のあと、複数の実体がありうるか否かを考察する。こうすることで、実体の複数性を唱える余地を潰すわけだ。

実体概念の整理

スピノザはまず、実体概念について考察する。デカルトの主張を最初に定理一~五でまとめた上で、それをもとにして、実体が他の実体から産出されないこと1、その本性には存在が属すること2、無限であること3を示す。

神の存在証明

ついで、スピノザは神の存在証明を行う。その内容は以下の通りである。

神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七により)その本質は存在を含まない。ところがこれは(定理七により)不条理である。ゆえに神は必然的に存在する。Q・E・D・(定理一一)

この証明は、デカルトがア・プリオリな証明で行ったものと同じである。それは、以下の内容だった。

確かに私は、神の観念を、すなわち最も完全な存在者の観念を、どんな形の観念、あるいはどんな数の観念にも劣らず、私のうちに発見するのである。さらに私は、つねに存在するということが神の本性に属することを、あるいは形もしくは数について私の論証することが、その形もしくはその数の本性に属することを理解する場合に劣らず、明晰にかつ判明に理解するのである。(第五省察)

『エチカ』の対象は、既に神の存在証明について把握しているデカルト主義者である。このため、スピノザは神の存在証明をシンプルに済ませることができる。既に神の存在証明を了解している者に対して、証明を一から行う必要も、言葉を費やす必要もない。デカルトが語った内容をそのまま語れば、それで十分なのだ。
スピノザによる神の存在証明が、デカルトから借りてきたものであることは、備考の叙述からも確認できる4 5 6。そこでは、神の存在は明確であるのに、人間が普段接するのが個々の様態であるため混同が起こり、それに気づくことができない、という内容が語られている。デカルトが『省察』で言っていたことと同じなのだ。

実体の複数性の否定

ついでスピノザは、複数の実体が存在しないことを証明する。そもそも実体が分割される事態を考えることが難しいし7、神が分割する事態もありえない8。それに、神以外の実体が存在すると想定すれば、いろいろな矛盾が生じるだろうと9

まとめ

結論として、神以外の実体は存在しないことになる10。すべてのものは神のうちに含まれるのであり11、そのすべてのもののうちには、当然、我も含まれるのである。デカルトは、自然全体と出会い、我の不完全性を認めながらも、なんとかして我の実体性の余地を残そうと努めた。その試みを、スピノザは根底から否定したのである。


  1. 一の実体は他の実体から産出されることができない。(定理六) 

  2. 実体の本性には存在することが属する。(定理七) 

  3. すべての実体は必然的に無限である。(定理八) 

  4. 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって、定理七の証明を理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからである。この結果として彼らは、自然の事物に始めがあるのを見て実体にも始めがあると思うようになっているのである。(定理八備考二) 

  5. しかし多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解しえないであろう。それというのも彼らは外的諸原因から生ずる物のみを観想することに慣れているからである。(…)ただここでは外的諸原因から生ずる物について語っているのではなく、どんな外的原因からも産出されえない実体(定理六により)についてのみ語っているのであることを注意するだけで十分である。(定理一一備考) 

  6. こんなことになる原因は、私の見るところでは、彼らが哲学的思索の順序を守らなかったことにあるのである。なぜなら、神の本性は認識上から言っても本性上から言っても最初のものであるから何ものよりも先に観想されなければならなかったのに、彼らはこれを認識の秩序の上で最後のものと信じ、そして感覚の対象と呼ばれる物をすべてのものに先立っていると信じたからである。この結果として彼らは、自然物を観想するに際しては神の本性については少しも思考せず、またあとで、神の本性の観想に心を向けた時には、彼らが初め自然物の認識を築くに際して根底としたもろもろの勝手な想像については少しも思考しえなくなったのである。(第二部定理一〇備考) 

  7. ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない。(定理一二) 

  8. 絶対に無限な実体は分割されない。(定理一三) 

  9. 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。(定理一四) 

  10. 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない(定理一四) 

  11. すべてあるものは神のうちにある、そして神なしには何物もありえずまた考えられえない(定理一五) 

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