因果律
公理としての因果律
スピノザは、因果律の公理もデカルトから引き継いでいる。
デカルトは、コギトの過程によって明晰判明の規則を見出した。これにより、それが真としてしか意識できないものは、共通概念、あるいは公理とされることになった。因果律も、その公理の一つである1。
デカルトは、この因果律を観念にも適用する2。ある観念が存在するためには、必ずその原因がなければならない。従って、もしも私には作り出せないような観念があるとすれば、それを作り出したものとして、私以外のものの存在を認めなければならないのである。
第三省察での神のア・ポステリオリな証明を例に取ると、我の存在の原因を辿る証明で使ったのが前者の公理で、表現的実在性による証明で使ったのが後者の公理だ。
スピノザ
スピノザも、デカルトと同様に因果律を公理としている3。観念の因果律を、因果律の公理から分けている点も同様である4。
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それがなぜ存在するかの原因が、どういうものであるかをたずねることができないようなものは、何も存在しない。なぜなら、このことは神そのものについてたずねることができるが、それは、神が存在するためには何らかの原因が必要であるということではなく、むしろ神の本性の広大さそのものが、神が存在するためにはどんな原因も必要としないことの、原因あるいは根拠だからである。(省察第二答弁「幾何学的な様式で配列された諸根拠」公理一) ↩
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またここから、われわれの観念の表現的実在性は、それと同じ実在性が、そこでは単に表象的にではなく、形相的(formaliter)にあるいは優越的(eminenter)に、含まれている原因を要求する、ということが帰結する。(「諸根拠」公理五) ↩
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与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。(公理三) ↩
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結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。(公理四) ↩