並行論について
定理七に関連して、並行論という有名な解釈について述べておきたい。
並行論とは、観念の秩序および連結が、物体の秩序および連結と並行関係にある、とする解釈である。我々が認識するのは観念のみであり、物体を認識することはできない。だが、観念の秩序および連結は、物体の秩序および連結と並行関係にある。これにより、直接認識することのできない物体についても語ることができるようになる、というのがその内容だ。
だが、並行論は、非常に無理のある解釈である。まず、証明に使われているのは第一部公理四、すなわち因果律の公理であり、並行論とは何の関係もない。また、定理七の備考には以下の記述がある。
同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである。
このように、観念と物体とは同一物であるとスピノザ自身が言っている。観念と物体が、不思議な力によって並行関係にあるために、それらの秩序および連結が一致するわけではない。同一物だから、秩序および連結が同一なのも当然だ、という話をしているのである1。
そして、観念と物体が並行である、という記述はスピノザの著作のどこを探してもない。並行論を取り上げる解釈者でも、これを原典の記述によって正当化することができず、「スピノザは並行論だから」と無批判に扱っている場合が多い。さらに言えば、並行論という言葉自体が、後世の学者が作り出したものである。つまり、「スピノザが並行論を唱えた」という解釈には、一切の根拠がないのだ。
『エチカ』は難解な書物であり、当然的はずれな解釈も多い。だがその中でも、並行論という解釈は全くあり得ないものだと私は思う。この解釈をするには、定理七の証明部分と備考部分を無視し、定理七以外の『エチカ』の叙述を無視し、さらには『エチカ』が論証を意図した書物であることすらも否定しなければならない。並行論という解釈は、『エチカ』を真面目に読もうとする者からは、絶対に出てこないものなのだ。この解釈は、『エチカ』をまともに読んでいない者が、第二部定理七だけを表面的に見て、思い付いた俗論でしかないのである。
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観念と物体は同一物であるという記述は、『エチカ』の他の箇所にもある。
「この定理はこの部の定理七の備考の中で述べたことからはるかに明瞭に理解される。なぜなら、我々はそこで、身体の観念と身体とは、言いかえれば(この部の定理一三により)精神と身体とは同一個体であって、それがある時は思考の属性のもとである時は延長の属性のもとで考えられるのであることを明らかにした。(定理二一備考)」
「このことは第二部定理七の備考で述べたことからいっそう明瞭に理解される。それによれば、精神と身体とは同一物であってそれが時には思考の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである。(第三部定理二備考)」 ↩