神の精神

概要

第二部では、神に精神と観念を認め、それを人間精神と関わらせて語る表現が頻出する。一見すると難解であるが、これまでの『エチカ』の内容を正確に踏まえていれば、その意味を理解することができる。

個物の範囲

まずは、個物について考察したことを思い出してみよう。個物は、次のように定義されていた。

個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体〈あるいは個物〉がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。(定義七)

個物とは、一定のまとまりを持ち、一定の運動をするものである。そこに絶対的な基準は存在せず、そう見えるからそうだ、という以上のことを言うことはできない。
したがって、個物の範囲は非常に広い。そのように私の前に現れれば、それを個物だと言えてしまうからだ。だから、家族でも、民族でも、国家でも、それを個物としてもいいことになる。これをさらに進めれば、自然全体、すなわち神も一つの個物だということになるわけである1

精神の範囲

次に、観念について考察したことを思い出してみよう。
観念とは、外部の物体が人間身体に接触することで生じるものである。そして、人間の精神を構成するのは観念であり、他の精神の様態は全てこれを元にして形成される。
これを認めるならば、人間以外のものが観念や精神を有すると主張してもいいことになる。複数の物体同士が接触する事態は、人間身体を離れた場所でも起こりうるからだ。したがって、動物や植物が精神を持つと言ってもいいし、国家が精神を持つと言ってもいい。さらには自然全体、すなわち神が精神を持つと言ってもいいわけである2

神の精神

以上を踏まえた上で、神の精神を人間精神と比較してみよう。
人間においては、外的な物体が人間身体に接触することで観念が生じる。このため、接触しない限りにおいて、外的な物体がどのような本性を持つかは分からない。つまり、その観念は非妥当なものとなるのだ3。人間は、同じ外的な物体に何度も出会い、その観念を整理するといった漸次的な仕方で、妥当な観念を形成するのである。
一方神においては、全ての個物が互いに接触することで観念が生じる。このため、人間のように、接触しない限りにおいてその個物の本性が分からない、という事態はありえない。よって、神の持つ観念は全て妥当であることになる。また、神とは自然全体であり、すべてをそのうちに含む。したがって、神の一部分において観念が生じる、ということもできるし、神の一部である人間が、神の精神の一部である、ということもできるわけだ4


  1. もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろう。(補助定理七備考) 

  2. なぜなら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。(定理一三備考) 

  3. ゆえに外部の物体の妥当な認識は、神が人間身体の変状の観念を有する限りにおいては神の中にない。すなわち人間身体の変状の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。(定理二五) 

  4. したがって人間身体を組織するおのおのの部分の認識は、神が単に人間身体の観念、言いかえれば(この部の定理一三により)人間精神の本性を構成する観念を有する限りにおいてではなく、神がきわめて多くの事物の観念に変状した限りにおいて、神の中に在る。(定理二四) 

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