デカルト

方法的懐疑

デカルトは、確実なものを見つけるために懐疑を行う。その際、少しでも疑いうるものは偽と判断する、徹底的な態度を取る。
日常的な感覚に基づく判断からはじめ、身体的感覚、数学的真理と順に疑う。これらについては、それぞれ疑う理由を見出すことができた。だが、「我の存在」についてはそれができなかった。こうして「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という境地に至る。『省察』はこのような構成になっている。
これを説得力のある議論だと思う人は少ないはずだ。「デカルトが頭の中で考えてそうなっただけでしょ」「やろうと思えばそれも否定できるんじゃないの」と思うのではないだろうか?だが、それは間違いだ。
デカルトの懐疑の真意を知るためには、デカルトが誰を対象に、どのような方法を用いて議論しているのかを知っておく必要がある。対象は、すべてについて疑うことができると自負する懐疑論者であり、方法は、相手の用いる言葉と、相手の認める原理のみを用いて一致を積み重ねる総合的方法である。デカルトが、懐疑論者と一対一で向き合い、相手から同意を奪取しようとしている場面を想定する必要があるのだ。
この観点で、先の議論を見直してみよう。

デカルト「遠くから見たら四角い塔が、近くにいったら実は丸かったということがあるだろう。したがって感覚的判断は信用できないのだ」
懐疑論者「そのとおりだ」
デカルト「服を着ている、紙を手にしているといった身体的感覚については、確実だと思うかもしれない。だが、夢においてそう思い込んでいるだけの場合がある。したがって身体的感覚も疑わしい」
懐疑論者「そのとおりだ」
デカルト「2+3=5といった数学的真理については、夢でも真だと思うかもしれない。しかし、もしかすると欺く神が存在して、私が計算するたびに一々私の精神に作用し、判断を誤らせているかもしれない。したがって、数学的真理も疑わしいと言える」
懐疑論者「君もなかなかやるね、デカルト君!」

このように、しつこく実例と確認を積み上げたうえで、デカルトは次のように懐疑論者に問いかける。
私達は三つの懐疑を順番に行ってきたが、そこで実際に行っていたことは「提示された主張に対して、それを否定する何かを想定する」ことではなかっただろうか。すなわち、感覚的判断には「過去に誤った事例」を、身体的感覚には「夢」を、数学的真理には「欺く神」を、というように。懐疑は無条件に行えるものではない。提示された主張を否定する何かを頭の中で思い浮かべ、その上で「私はこれについて疑う」と言っていたのである。逆に言えば、否定する何かを想起できないものについては、それが真だと認めていることになるわけだ。

デカルト「さて、今までの例からも分かるように、懐疑という行為が実際に意味しているのは、それを否定する事物を想起する、ということではないか。それとも君は、そうでない懐疑をしたことがあるかね」
懐疑論者「……」
デカルト「ならば、否定する事物を想起できないものについては、君も真だと認めているということではないかね。君の懐疑は、何にでも通用する第一原理では決してない。その使用に際して注意を払っていなかったから、第一原理だと思い込んでいたにすぎない」
懐疑論者「……」

一々例を挙げ、丁寧に懐疑を行ったのは、相手の逃げ道をなくすためだったのである。このような仕方で議論をすると、相手は反論をすることが構造的にできない。先に自分が同意したことと矛盾してしまうからである。導かれた結果が自分にとって不都合なものであったとしても、それに対して不同意を示せば、次のように言われてしまうだろう。

「私達は、懐疑が実際にはどのようなものかを、実例を見ながら丁寧に考察してきたではないか。それについてあなたは一々同意していたではないか。それなのに今更、懐疑が何かについて問題にしようというのか?」「君がもうさっきの議論を忘れたというのなら、私がどのように問いかけ、君がどのように同意したかを再現してあげようか?」「さっきの懐疑のうち、どれを認めて、どれを認めないのか言ってくれるかい?三つしかないんだ、指摘できるだろう?」「否定する事物を想起しない懐疑があるというのなら、その実例を挙げてくれないかな?」「あなたは懐疑の内実について何も考えておらず、口先で懐疑すると言っているだけじゃないか?」

我思う故に我あり

そして最後に、我の存在が確かなものであるという同意を、懐疑論者から奪取する1

デカルト「では、考えている限りにおいての我、について考えてみよう。ここまで一致してきたことからして、もし君が「我の存在」を疑うなら、それを否定する事物を想定しなければならない。君は、そのようなものを挙げることができるだろうか。「過去に誤った事例」でも、「夢」でも、「欺く神」でも、その他何でもいい。もしできるのならば、それが何かを具体的に言ってくれ。できないのならば、「我の存在」は真だと君も認めていることになるね?」

明晰判明の規則

また、この過程により「否定する事物を想起できないものは真である」が第一原理の座を得ることになる。これは、明晰判明の規則と呼ばれる2。これまで、懐疑論者が「すべては疑いうる」を第一の原理としていたのは、懐疑の内容について真面目に考察しなかったことに由来する勘違いでしかない。懐疑論者は、懐疑が実際に何を意味するかも知らず、口先で「私は疑う」と言っていただけだったのである。

我を否定するもの

これで終われば話はきれいにまとまるのだが、そうはいかない。なぜなら、我の存在は実は脆弱で、すぐに否定されてしまうものだからだ。
デカルトは、一室に閉じこもり、数日を通して暖炉の前に座って省察をして、我の存在を証明した。たしかに上の議論は、外的なものに煩わされない環境ならば、通用するかもしれない。だが、一歩外に出ればどうだろう。冷たい外気が体を震わせ、体調の悪化が意識させられる。生活の糧を稼ぐために他者や組織と接する必要があり、そこで従属を強いられる。自己を否定しうる、自己と異なる原理に従うものの総体、すなわち自然全体に出会うのである。
先の過程で導かれた我は、それが存在しない事態を想起することができないものだった。自然全体についても同様に、それが存在しない事態を想起することができないだろう。私を取り巻く自然全体が一挙に失われる事態を想定してみよ、できるというのならそれを否定するものとして何をイメージしているのか言ってみよ、と言われても答えられないはずだ。
さらにこれは、我と自然全体の相互関係の考察に至るだろう。このとき、我は、自然全体の内部にあり、それに従属するものとして整理されるだろう。我について考えたとき、それを否定するものを想起できなかったのは、外界から隔絶された部屋で考え込む、特殊な環境下にいたからに過ぎない。これは不当な普遍化であり、ただの勘違いである。こうした考察に至るのである。
あるのは自然全体のみだ。思考、判断、意志といった精神の運動も、結局は自然全体に還元される。独自の原理で動く精神があると今まで思っていたのは、この構造についての無知に起因する。方法的懐疑の考察をそのまま進めれば、それは我の否定に至るのである。

神の存在証明の目的

我を否定したくないデカルトは、これを捻じ曲げようとする。そこで出てくるのが、神の存在証明だ。
我と自然全体の上位に、同じく独自の原理で動く神が存在すると仮定しよう。それが我と自然全体を産出し、そのあとも両者の併存を可能にしている、と考えてみよう。こうすると、先に意識された自然全体の必然性は薄れ、我の存在を否定しなくても済む(ような気がする)わけだ。
神の存在証明を一度してしまえば、たとえ暖炉の側を離れ、外に飛び出し、自然全体に出会ったとしても、我を否定しなくて済む。「確かに私はそこに含まれるように見えるかもしれないし、それに否定されえるように見えるかもしれない。でもね、それはそう見えるだけなんだよ」と言って合理化できるわけだ。

神の存在証明

この神の存在証明の鍵になるのが、物体は精神とは全く異なり、かつ劣るものであるという主張、すなわち心身二元論である。
例えば、物体に認められる性質は、すべて精神のみで作り出せると主張する3。さらに、精神の微細な作用を物体は生み出すことができないと主張する4

こうした主張を強力に繰り返すことで、心身二元論を認めさせる。すると、我の不完全性の自覚から、自然全体の必然性の認識へと至る過程が歪められ、

  • 我は不完全である→自然全体のみが存在し、我はその一部である

が、

  • 我は不完全である→だが自然全体はその原因ではない→上位の実体である神が存在する

となるわけだ。こうして、神の存在が証明されるわけである。


  1. 最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。(第二省察) 

  2. 私がこのように明晰に判明に認知する事がらが偽である、というようなことが一度でも起こりうるとするなら、もちろんそういう認知は私に真理を確信させるには十分でないことになるであろう。それゆえ、いまや私は、私がきわめて明晰に判明に認知するところのものはすべて真であるということを、一般的な規則として確立することができるように思われる。(第三省察) 

  3. しかし物体的な事物の観念に関しては、私自身に由来しえたとは思われないほど大きなものは何もそのうちにはない。(第三省察) 

  4. そして私は、両親とか、神ほど完全ではない何か他の原因によって、生み出されたのかもしれない。いな、けっしてそうではないのである。(…)私の原因として結局、どのようなものがわりあてられるとしても、それはまた考えるものであり、私が神に帰するすべての完全性を有するものである、と認めなくてはならないのである。(第三省察) 

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