カント
カントの理論は
- ヒューム批判
- 哲学一般の批判
の二つに分けると理解しやすい。
ヒューム批判
精神優位の心身二元論には、二つの立場がある。
一つが、観念間の連結は外部にある秩序を反映しているとする、ヒュームの立場である。
もう一つは、その連結を作り出しているのは精神であるとする、カントの立場である。
カントは、「空間」「時間」「原因と結果」「数学」「自然法則」を考察し、それを作り出しているのが精神であることを証明する。
原因と結果
一番核心的なのが、原因と結果の考察だ。
カントは、ヒュームが行き詰まったのは、因果律が外的に存在すると思い込んでいたからだ、とする。このヒュームの行き詰まりこそが、精神が因果律を生み出していることの証拠になるのだ1。
空間、時間
空間論と時間論も有名である。
我々は物質を認識する際、それを空間の内にあるものとして捉える。だが、空間は外的には実在しない、経験以前に獲得しているものである。個々の事物がそれぞれ空間という性質を持ち、それを我々があとで認識するというわけではないのだ。私は、予め唯一の空間表象を持っている。そしてその構成部分として、個々の事物を認識しているのである。空間を作り出しているのは、私の精神なのだ2。
時間についても同じような証明をする。我々は個々の事物の性質として、時間を経験するのではない。予め一つの時間表象を持っており、その中にあるものとして個々の事物を認識するのだ、というように。
カントの空間論、時間論は、我々が当然だと思ったことを根底からひっくり返す内容になっており、刺激的で面白い。だが、この証明に説得され、空間や時間が外的には一切実在しないと確信する人は、それほどはいないだろう。
数学
このあたりから、少し怪しい議論に入ってくる。
カントは言う。7+5=12という式について考えてみよう。「7+5」という概念のうちには、「12」という数字は含まれていないだろう。これはつまり、「7+5」と「12」とを結びつけているのは、経験ではないということだ。ここから、数学は私の精神が生み出したものだ、ということになる3。
自然法則
カントは自然法則についても扱う。
物質の概念には「質量保存の法則」と「作用反作用の法則」が含まれていないことを理由に、これらは精神が生み出したものだと主張する4。
空間論と時間論については、そういう考え方もありだという人がいるかもしれない。だが、数学や自然法則が外的には存在しない、それは精神が生み出したものだと言われて、本気にする人はかなり少ないのではないだろうか。
物自体
とにかく、こうしてカントは物体側から、ありとあらゆるものを削ぎ取ったわけである。そうして残った絞りかすは、「物自体」と呼ばれる。それは、「時間」も「空間」も持たない。「原因と結果」も無ければ、「数学」も「自然法則」も無い。すなわち、もはやそれが何なのかを把握することすら困難なものになってしまったわけだ。いわば、物体の成れの果ての姿が「物自体」なのである。
アプリオリな総合的判断
カントとヒュームは、精神優位の心身二元論を採用していることでは共通している。因果律の議論についても同じ論拠を使っている。ヒュームは矛盾に陥ったが、カントはその矛盾から違う結論に至ったわけだ。空間論、時間論といった考察はヒュームには無いものだが、これが決定的な批判になっているわけではない。
カントがヒュームと決定的に違うのは、その着眼点である。「精神が物質間の連結を作り出している」という可能性に気づけるか、否かが、両者の相違点なのだ。この可能性に気づけなかったヒュームは絶望し、気づいたカントはヒュームの先へ進むことができたわけである。
では、なぜヒュームはこの可能性に気づけなかったのだろうか。それを説明するのが、総合的判断と分析的判断である。
総合的判断と分析的判断
「りんごは美味しい」という文章を考えよう。これには二種類の意味がある。
りんごを食べた経験のある人がこのような発言をした場合、この文章は、りんごについて既に知っている知識を述べただけの意味になる。
今まで一度もりんごを食べたことのない人が、初めてりんごをかじって「りんごは美味しい」と言った場合、「りんご」と「美味しい」との間に新しい結びつきを作った意味になる。
前者は分析的判断、後者は総合的判断と呼ばれる。どちらも同じように「AはBである」と表現されるが、実は違った意味を持つのである5。
ヒュームの失敗
原因と結果に関する事態は、「AはBである」という文章で表現される。例えば「机を叩くと音がなる」「目を閉じると暗くなる」「薄着で外に出ると風邪をひく」というように。
ヒュームは、これを分析的判断として扱った。そうして、主語のうちに述語が含まれるか否かを、ずっと考察したわけである。「机を叩く」という概念の内に、「音」が含まれているかどうかを確かめるというように。そして、いつまでたってもそれに成功しなかったのだ。
カントにしてみれば、ヒュームが失敗するのは当然である。原因と結果に関する事態は、実際には総合的判断に属するものだからである。ヒュームは、「AはBである」という文章には、分析的判断と総合的判断の二つの意味があることを知らなかった。だから失敗した、というように整理されるわけだ。
ア・プリオリな総合的判断
カントは、原因と結果を結びつけているのは、精神だと主張する。精神がその瞬間瞬間に、その連結を作り出しているのだ。これを、経験によらないという意味で、アプリオリな総合的判断と呼ぶ。
こうして、ヒュームが陥っていた難問は解決した。全体として見たならば、以前に比べ、精神はより大きな領域を獲得したことになるわけだ。それは、外的に存在する原因と結果に縛られるような存在ではないと、カントは示したのである。
批判だけで終わる
カントはヒュームを批判したが、そこから先に行くことができない。批判の結果、認識の基礎にあるのはすべて人間精神ということになったが、そのまま議論を続ければバカバカしいものができることは目に見えているからだ。因果律も自然法則も数学も空間も時間も私の精神が生み出したものらしいが、果たしてそんなことがありうるだろうか?私が望めば、因果律も自然法則も捻じ曲げ、世界を望むように作りかえることができるのか?そんな主張ができない程度には、カントは常識人だったのだ。
そうして出てくるのが、精神は「感性、悟性、理性」の三つにより構成されている、という説である。カントは自説を常識的なものにするために、まず精神から「理性」を分離する。理性とは、私の精神に属しながらも、私の意識に上らず恣意的にならない領域である。そして、自然法則その他を生み出す能力をこれに帰す。そうすれば、自然法則その他が自身の精神に由来し、恣意的になるという主張をしなくても済むようになる。先の主張がすこし穏便なものになったわけだ。ついで、精神から「感性」を分離する。感性は外部に存在するものを把握する役割を持つ。そうすれば外部にあるものがすべて自身の恣意による、という主張をしなくて済む。そうして残ったものに、「悟性(精神のことだが、日本では伝統的にこういう勿体ぶった宗教的な呼び方をする)」という名を与える。結果、カント本来の主張は穏便で骨を抜かれたものになるわけである。
だが、今度はこの三つの関連を考察する必要が出てきてしまった。ああでもないこうでもないとやってるうちに、特に結論はでないまま『純粋理性批判』の紙幅が尽きてしまう。そこから重要な諸観念を導くこともできなければ、諸学問の基礎づけを行うこともできない。カントは、ヒュームを批判しただけで終わってしまうのである。
哲学一般の批判へ拡大
カントを学習したことのある人は、「アプリオリな総合的判断」がカントの重要概念として扱われているのを知っているはずだ。だが、ヒュームの議論に限っては、これはそれほど意味を持つものではない。ヒュームが失敗した理由を分析したものでしかないからだ。これがなくてもヒューム批判は成り立つのである。
「アプリオリな総合的判断」が重要概念になったのは、カントが総合的判断と分析的判断の枠組みを、哲学一般の批判にまで拡大したからである。
カントは次の思いつきをする。ヒュームは、分析的判断と総合的判断とを混同したために、因果律で躓いた。これと同じように、過去に存在した哲学者も、分析的判断と総合的判断を混同していたのではないだろうか。そして、その結果何らかの哲学的難問に陥ったのではないだろうか。もしこのことを示せれば、カントはヒュームを乗り越えるだけではない。既存の哲学史すべてを総括し、すべての哲学者を乗り越えた者として、名乗りを上げることができるだろう。
デカルト批判
既存の哲学の代表者として批判するのが、デカルトである。カントは、デカルトによる神の存在論的証明を、「万能で存在する性質を持っているものを想像すれば、それだけでそれが存在するようになる」証明だと解釈する。
ここで問題になっているのは、ある事物が存在するか否かについてであり、総合的判断に属する話である。しかし、「万能な神」という主語の内に「存在」という述語が含まれるか否かという分析的判断の話にすり替えている。デカルトは、分析的判断と総合的判断の区別がつかなかったから、このような誤りをした。このように批判する。
こうして、カントはヒュームのみならず、既存のすべての哲学を乗り越えた。すべての哲学的難問は、総合的判断と分析的判断の区別により解決する。したがって、カント哲学はすべての哲学を総括したものだ、と言えるわけだ。
哲学一般の批判は失敗
既存の哲学を、総合的判断と分析的判断の枠組みで批判しようとする発想は、野心的でなかなか面白いが、残念ながら失敗している。
まず、カントのデカルト理解は誤りである。神の存在論的証明を詭弁とするカント的な解釈は、言ってみればよくある解釈であり、デカルトの同時代人が既に行っている。それに対してデカルトは、そのような解釈は『省察』の内容をきちんと把握してないことに基づく誤解だと述べている。
それに、カントはデカルト以外の哲学者を個々に取り上げ、批判するということができていない。過去の形而上学が取り組んでいた課題として、「神」「自由」「魂の不死」に言及しているが、これで既存の哲学がどれだけ汲み取られたことになるのか、この主張をしたのはどの哲学者なのか、その哲学者がどれだけ哲学史において重要な位置を占めているのかは不明である。
カントが持つ哲学史の知識は非常に射程が狭い。カントが十分に研究をしているのは、ヒュームくらいのものである。デカルトについては、せいぜい大学学部生が一般教養で学ぶ程度の知識しか持っていない。哲学史一般を批判する仕事は、カントの手に余るのだ。
哲学史についてある程度の知識を持つ者ならば、カントの批判が的外れであることに気づいただろう。カントが使う抽象的な言葉やそれっぽい断言が、生半可な知識を取り繕うためのものであることを容易に見抜いただろう。しかし、カントの嘘が見破られることはなかった。これ以降の哲学は、カントに大きく影響されたものになる。デカルトにはじまった近世哲学は、ここで一つの大きな区切りをむかえるわけだ。
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この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この規則が厳密に普遍的なものであるという概念が、明らかに含まれているのである。ヒュームのようにこれを、習慣から導こうとすると、この概念はまったく失われてしまうことになるだろう。 ↩
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空間は、すべての外的直感の根底に存するアプリオリな必然的表象である。たとえいかなる対象も空間のうちに見いだされないということはたぶん考えられるにしても、いかなる空間も存在しないと考えることは決してできない。 ↩
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12の概念は、私が単に7と5のあの結合を考えているということによってすでに考えられたのでは決してないし、また私がそのような可能な総和についての私の概念をいくら分解しても、そのことのうちには私は12という数を見出さないであろう。 ↩
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たとえば「物体の世界では、あらゆる変化をつうじて、物質の量はいつまでも不変である」という法則と、「運動のあらゆる伝達をつうじて、作用と反作用はつねに同じでなければならない」という法則をあげておこう。いずれの命題も必然的なものであり、これらがアプリオリに作られた命題であることは明らかであり、しかもこれらの命題が総合的な命題であることもまた、明らかなのである。 ↩
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述語Bが主語Aに、この概念Aに含まれている有るものとして属するか、そうでなければ、BはAと結びついているけれどもBはまったく概念Aの外にあるかである。前者の場合には、私は判断を分析的と呼び、後者の場合には総合的と呼ぶ。 ↩