ヒューム
ロックはデカルトを前提とした議論をしていた。ロック自身は、自分は心の物性的考察に立ち入らないといってるが、それは言葉だけなのだ。だが、この事情を知らず、ロックの言葉を鵜呑みにした哲学者がいる。それがヒュームだ。
ロックとの比較
ヒュームはロックと同じ仕方で叙述をする。最初は単純観念からはじめて、そこから複雑観念へ進むというように。
相違点の一つ目は、心に浮かぶ観念以外を認めないことだ。観念は静的なものと勢いよく入り込むものとの二つに分けられ、後者によって外的対象の存在が意識されるとする1。
相違点の二つ目は、証明において実験の手法を採用していることである。ある命題が真か否かを考えるとき、頭の中でそれが成り立つか否かを色々と考え、確かめるということをしている2。
ヒュームの目的と挫折
以上の前提のもと、精神に現れる諸々の観念がどのように動き、どのような仕方で複雑な観念が生じるかを観察しよう。そうすれば、諸々の学問が使っている観念が、何を基礎としたものかもわかるだろう。これにより、諸々の観念を無批判に使っている諸学問の基礎づけが実現できるだろう。これがヒュームの意図である。
だが、因果律でヒュームは躓く。何十ページも使って考察しても、切り込み方を何度もかえて取り組んでも、どうしても因果律を導くことができない。しかし、因果律を使わない学問など存在しない。ヒュームの試みは挫折したどころか、学問は全く何の基礎も持たないことが明らかになってしまった。結局ヒュームは「世の中には楽しいことがたくさんあるんだし、こんなこと気にしないでおこうぜ」と言い出して、議論を放り出してしまう3。
ロックの誤読
ヒュームが失敗したのは、ロックを誤読したからである。ヒュームには哲学史的知識がないため、ロックがデカルトを前提にした議論をしていることに気づかず、精神優位の心身二元論と、実験的手法とを、無批判に持ち込んでしまったのだ。
ロックの意図を正確に把握したなら、そもそも諸科学を、精神の働きから基礎づけようなどという発想は生じなかっただろう。精神が実体であることも、それが物体に優位することも自明ではない。外的刺激のない場所にとどまるならばこの立場は成り立つのかもしれないが、そこから一歩外に踏み出せば、それを否定する経験はいくらでもあるわけだ。だからデカルトは神の存在証明を行った。スピノザ、ライプニッツも同じ問題意識を持ち、この問題に取り組んだ。ロックもこの事情を知った上で、デカルトに乗っかって認識論に取り組んだのである。
しかし、ヒュームは「精神が先でしょ」という素朴な意識しか持ち合わせていない。外部の物体が存在するのか、それと我の精神はどう関係するか、という問題に取り組む段階に至っていないのだ。
また、ロックは真偽の基準を実験にもとめているわけではない。デカルトが明晰判明の規則を発見したのだから、そのようなものは不要なのである。ヒュームが実験的手法を採用したのは自然科学からの流用であるが、哲学でそれが成り立つかは不明だ。そもそも、心の中において行う実験にどれだけの客観性があるのか、という話になるだろう。
ヒュームは哲学の素人である。それゆえ、ロックを読んでもその核心を理解できない。そこで、自分の理解力にあわせ、わからない箇所を、「精神の方が先でしょう」という素朴な思いこみや、自分の慣れ親しんでいる実験的手法で勝手に読み替えたのだ。哲学書を読むには、最低限の哲学史の知識が必要になる。残念ながら、ヒュームはそれを持ち合わせていなかったのだ。こうして、「精神優位の心身二元論」と「実験的手法」という、本来的には議論が必要となる非常に曖昧なものを無意識に持ち込んでしまい、ヒュームは行き詰まったのである。
ヒュームの限界
ヒュームは、デカルトらの遥か後方にいる。デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロックは暖炉の前から立ち上がり、外に出て考察を行った。ヒュームは未だ、部屋の中にこもったままだ。暖炉の側で微睡みながら、自分の頭の中だけで諸学問を構築できると思い込み、それを試みた。そして勝手に躓いたのである。ロックは退屈だったが、筋が通ってなくはなかった。ヒュームは、ロックから退屈さを受け継いでいるだけではなく、思い上がりと独断を付け加えている。読むのにはかなりの忍耐を要するだろう。
しかし、ヒュームは哲学史に残ることになった。カントがヒュームに「独断の微睡み」を破られ、『純粋理性批判』を書いたからである。
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人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なった種類にわかれる。私はその一方を「印象」、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう。これら二つの間の相違は、それらが心に働きかけ、思考もしくは意識の内容となるときの勢いと生気との程度の違いにある。(『人間本性論』第一部第一節) ↩
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ところで、人間の学がほかの諸学問にとっての唯一しっかりした基礎であるのと同様に、この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。実験的方法を用いる哲学が、自然についての問題に適用されてから、一世紀以上もおくれて精神上の問題に適用されるようになったことに思い及んでも、それはべつに気にかけねばならぬほど意外なことではない。(『人間本性論』序論) ↩
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私は友人たちと食事をともにし、バックギャモンで遊び、会話を交わして楽しむ。こうして三、四時間楽しんだあとで、さきほどの考察にもどろうとすると、これらの考察はきわめて冷たく、無理のある、馬鹿らしいものに見えるので、これ以上その考察を続ける気になれないのである。(『人間本性論』第四部第七節) ↩