スピノザの目的
スピノザの著作である『知性改善論』について、『エチカ』を理解している前提で説明する。本論文を読む前に、「スピノザ『エチカ』の考察」に目を通してほしい。
『知性改善論』の目的
『知性改善論』の目的は、真の善を他の人々とともに実現することである。
しかし、人間の非力さは、この秩序を自らの思考によって捉えられないが、それでもとにかく、人間は自らよりはるかに強いある人間本性を考えるし、また同時に、そのような本性を獲得することをさまたげるものがないことを見てとるがゆえに、自分をそのような完全性に導く方法の探究に促される。そして、そこに至る方法となりうるすべてのものが、真の善と呼ばれるのである。そして、最高の善とは、できれば他の個人と、そのような本性を享受することである。(第13節)
かくて私が目指す目的は、このような本性を獲得し、かつ多くの人々が私とともにこのような本性を獲得するよう努めることである。すなわち、他の多くの人々が私が理解するのと同じものを理解し、そうして彼らの知性と欲望とが、私の知性と欲望とすっかり一致するようにすることがまた、私の幸せなのである。(第14節)
真の善が意味することを、『知性改善論』の叙述だけで理解することは難しいだろう。だが、『エチカ』を読んだ者であれば、その意味を理解することができる。
善と悪
まずは、善と悪が意味することについて確認しよう。
人間は、様々な経験を積むことで、理想の人間像を形成する。すると、それに近づく手段として適切かどうかで、個々の行為を分類するようになる。そして形成されるのが、善悪という観念だ。善という言葉は、理想的な人間に近づく手段を意味し、悪という言葉は、その反対を意味する。
『知性改善論』の例で言えば、富を求めるものは、金持ちになって羽振りの良くなった自分を理想としており、名誉を求める者は、多くの人々から称賛される自分を理想としているわけだ。そして、その理想に近づくために、富を求めたり、人々がやらないことを敢えて行ったりするのである。
だが、それが虚しい結果に終わることは多い。自らの富が不幸を招いた者、名誉のために辛酸を嘗めた者、快楽のために身を持ち崩した者は無数に存在すると、スピノザは言う。なぜ、このようなことになるのだろうか。それは、彼らが追い求めていたものが、真の善ではないからである。
真の善
では、真の善とは何だろうか。スピノザが『エチカ』で行った分析を簡単に振り返ってみよう。
すべての人間は、自己保存の衝動を持っている。この自己保存を実現するには、他の個物との交渉が必要となる。例えば、身体を維持するには、水や食料が必要になるわけだ。そして、この交渉が常に成功するとは限らない。我々は他の個物を自由に利用することができるが、他の個物も同じことをこちらにしてくるからである。自然において、他を絶対的に圧倒できる個物は存在しない。対峙する個物に適切な対応を取り続けたものが、結果として自己保存を実現するのだ。
人間は、これを妥当な観念によって実現する。我々が、初見のものに対して適切な対応をできることは稀だ。だが、同じ対象に何度も接することで、対象の本性を把握し、適切な対応を取れるようになる。さらに何度もその対象に会えば、その対象の観念はより妥当なものとなり、その対象への対応もより適切なものとなるだろう。我々は、多くの対象について、漸次的に妥当な観念を形成することで、自己保存を実現しているのである。そして、妥当な観念の追求を突き進めた先にあるのが、自然全体、すなわち神の認識だ。この神の認識が、真の善であり、我々が求めるべきものなのである。
富、名誉、快楽を追求している者は、このことを知らない。そして、非妥当な観念を持ったまま、周囲の個物にいいように振り回されている。富を求めるものには富が、名誉を求める者には自分を称賛してくれるだろう人々一般が、快楽を求める者には特定の快楽が、常に意識に浮かんでいる。そして、行為はそれに規定されたものとなり、自らに不利益をもたらすわけだ。
他者
ただし、真の善の追求は、一人でできることではない。このことは、自然の内に一人で放り込まれた状況を想定すればわかりやすいだろう。このとき、自身の身を守ることは難しい。また、これまで相互扶助によって得てきたものも調達できなくなる。こうなると、妥当な観念の形成どころではないわけだ。我々が真の善を追求するには、他者と結びつき、国家状態を形成することが必要なのである。
では、我々は特にどのような者と結びつくべきだろうか。スピノザは、自分と同じ本性を持つ者、すなわち自分と同じ考え方をして同じ欲求を持つ者と結びつくべきである、とする。
我々の周囲にいる者の大多数は、非妥当な観念を持ち、感情に隷属して生きている者である。このような者と持続的な関係を築くことは難しい。感情は、その時々で変化するからである。一時的に特定の感情で一致できても、相手の感情が変化すれば、その一致は失われるだろう。
だが、スピノザと同じ本性を持つ者とは、強固な関係性を築くことができる。このような者は、自己の利益を追求する者であり、またその実現には他者が必要であることを理解している。よって、互いに互いを、自己保存に必要な者として認め合うことができるわけだ。そして、自己の利益の追求という本性が、時間経過で失われることもないのである。このような者が多数いる国家で、ともに真の善を追求することを、スピノザは理想としているわけだ。
『知性改善論』の特徴
『エチカ』とは異なり、『知性改善論』では、真の善を実現するための具体的な方法に踏み込んでいる。スピノザがあげているものは以下だ。
- 自然についての理解
- できるだけ多くの人が、できるだけ容易に、かつ安心してそこに至るために望ましい社会の形成
- 道徳哲学ならびにこどもの教育の理説
- 医学の全面的な整備
- 機械技術論
スピノザが、国家レベルの試みを考えていたことが、以上からわかる。真の善を獲得するには、それにふさわしい国家を構築する必要があるわけだ。国家は、真の善の追求が安全にできるものでなければならない。また、技術論の振興も必要である。それにより、我々は雑事から解放され、真の善の追求に力を注ぐことが可能になるからだ。そして当然、一般的な教育にも力を入れなければならないのである。
懐疑論者の知性の改善
そのうえで、我々が最初に取り掛からなければならないのは、知性を治療し、浄化する方法であると、スピノザは主張する。
とはいえ、何よりも先に考え出されるべきなのは、知性がものどもを首尾よく、誤たずに、そしてできるだけ最良の仕方で理解できるよう、知性を治療し、またできるだけ早くそれを浄化する方法である。(第16節)
知性を治療し、浄化する方法が必要なのは、懐疑論が存在するからである。懐疑論がはびこった状態では、スピノザの試みが無駄になってしまうのだ。上のような国家を作り上げようとしても、懐疑論者はその試みに疑いを投げ、一々噛みついてくるだろう。また、せっかく皆で積み上げた知識に、ケチを付けてくるだろう。それに、懐疑論が蔓延した状態であれば、真の善を積極的に追求しようという者がいなくなってしまうだろう。それが真面目な理論に基づいてなされるのならともかく、懐疑のための懐疑をしている者によってなされるのは、さすがに「ふざけるなよ」となるわけだ。