真の観念

『知性改善論』は未完であり、構想段階で終わってしまっている。基礎にあるのは「適切な順序で教えれば懐疑から解放することができる」という思想であり、具体的には、神の本性から一つずつ段階を追って説明するつもりだったようだ。
なぜ、適切な順序で教えることが、懐疑からの解放につながるのだろうか。これを知るには、懐疑が生じる理由を知る必要がある。まずはこれに先立ち、我々が真の観念を持っていることの確認をしよう。

我々は真の観念を持っている

議論には共通の土台が必要であり、議論をする際にはまず、互いに真と認めることについて一致を取らなければならない。だが懐疑論者は、頑なにこの一致を拒もうとする。こちらが「私はこれについては真だと認めているが、君はどうか」と話を切り出すと「君は何を根拠にそれが真だと主張しているのだ」「それが真だというのは君の思い込みではないか」と一々突っかかってくるわけだ。そして、延々と「こちらが真として提示したことが本当に正しいか否か」の話をする。これにうんざりして「じゃあ、君はどういう立場で何を真だと思っているのだ、それをたたき台にして話そうぜ」と聞くと「私は何が真かなんて知らない」と言って誤魔化すのである。
懐疑論者は真の観念の存在を否定するが、これはデタラメを言っているに過ぎない。スピノザは、これについて二つの根拠を提示する。
一つが、「真の観念を持たないものは、真の基準を形成できない」というものだ。懐疑論者が、こちらが提示したことの真偽を問題にする際には、真の基準の存在を前提としている。その基準があってはじめて、こちらが提示したことについて「これは真だ」「これは偽だ」と判断できるわけだ。懐疑論者がこの基準を持っていないのならば、そもそも議論自体が無意味になってしまうのである。
だが、あらかじめ真の観念を持っていない者が、このような基準を定めることは不可能である。観念の真偽を判別するための、何らかの基準があるとしよう。この基準が真であるためには、その基準自体の真偽を判別するための別の基準が必要になるだろう。そしてさらに、この基準の真偽を判別するための別の基準が…というように、この遡行は無限に続くことになる。これでは、いつまでたっても真の基準を定めることができないわけだ1

あらかじめ真の観念を持たないものは、真の基準を持つことができない。そして、真の基準を持たない以上、真偽について判断をすることもできないのである。懐疑論者が「私は真の観念を持っていない」と言いながら、相手が提示したことの真偽について問題にするのは、矛盾しているのである。本気で「私は真の観念を持っていない」と思っているのであれば、こちらの主張に文句などつけず、黙っていればいいのだ。
もう一つが、「懐疑論者であっても、日常生活において、何が真かを判断したうえで行動している」というものだ。懐疑論者であっても、お腹が空いたら買い物に行き、商品を選んで、レジに並んで会計をする。このときには、我が存在すること、店が存在すること、店員が存在すること、空腹であること、商品が存在すること、会計をする必要があることを真だと認めているのではないだろうか。あるいは、高温に熱したやかんに触れ、慌てて手を離したとしよう。このときには、私の身体が存在すること、やかんが存在すること、手を触れたまま放置していれば火傷することを真だと認めているのではないだろうか。空腹を疑って餓死をし、やかんが高温であることを疑って手を触れ続けるのであれば筋が通っているが、そんな筋金入りの懐疑論者は存在しないのである。懐疑論者は、議論で言い負かされることを恐れて、その時々で都合がいいことを言っているだけの、しょうもない存在に過ぎないのである2


  1. そのためにまず先に考察されるべきなのは、この点にかんする無限に続く探究など生じないだろう、ということである。どういうことかといえば、真なるものを探究する最上の方法を発見するために、真なるものを探究する方法自体を探究するための別の方法が必要とされ、またこの第二の方法を探究するために、さらにまた別の第三の方法が必要とされる、という仕方で無限に続いていく――このようなやり方では決して真なるものの認識に至らないどころか、そもそもいかなる認識にも至らないだろう、ということである。(第30節) 

  2. 結局のところ、彼らとは諸学について語るべきではないのである。というのも、生と社会の慣行にかかわることにかんしては、彼らは必要に迫られて自らが存在することを前提とし、また自らを利するものを求め、申し合わせて多くのことを肯定し否定することを強いられているからである。(第48節) 

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