北一輝『国体論及び純正社会主義』
略歴
- 1883年(明治16年)- 1937年(昭和12年)
- 主著:『国体論及び純正社会主義』『日本改造法案大綱』
- 二・二六事件で銃殺
国体論及び純正社会主義
『国体論及び純正社会主義』は1906年(明治39年)、北が23歳のとき書いたもの。
基本的に共産主義的な思想が説かれている。二・二六事件で理論的指導者として銃殺された云々、と日本史の教科書には載っているから、勝手に右翼思想だと思ってたけどぜんぜん違うようだ。
では内容について見ていこう。大きく2つ、社会主義の擁護と国体論の批判に分けることができる。第一篇~第三編が社会主義の擁護。第四編~第五編が国体論批判。
第一篇~第三編
共産主義に対してありがちな批判を個々想定し、それに対して反駁を行っている。
たとえば、共産主義になったら皆労働をしなくなるのではないかだとか、戦争がなくなって人口が増えすぎたりしないかだとか、生存競争がなくなって成長しなくなるのではないかだとかだ。具体的にどのようにして反駁してるか、いくつか例をあげてみる。
労働→それは支配者が労働を奴隷のものだと卑下する価値観を持っていてそれが普遍的になってるから。だからそれが打倒されればその価値観も意味を失う。労働をしなくなるのでは、というのはだから問として意味をなさない
生存競争→それは時代によって意味を変える。例えば昔であればそれは武力、力の大きさを意味していたが現在では違うように。だから共産主義になったから失われるというものではない
人口→戦争がなくなれば人口が増え続けるのではないか、というのへの反論。人口はその時々の社会の要請によって定まるもの。今人口が増えているのは戦争でそれだけ死んでおり、社会がそれを要請しているから。
第一篇~第三編は、あまり北一輝独自の思想を語っている、という箇所ではない。このような個々の反駁のどれかに興味がある、という場合でなければ別に読まなくてもいいと思う。マルクスなどが言っていることと大差はないしそういう文献を読むほうが早い。
第四編~第五編
こちらのほうが北の独自の思想が現れており、読むとしたらこっちから読むのがいい。ただ、手に入りやすい中公クラシックスではこの箇所はほとんど入ってないので、全集など別の文献を手に入れる必要がある。
特に第四編14章がまとまっており、例会ではここを読んだ。
維新革命をどう見るか、というのが問題意識である。それを王政復古と見るか、それとも民主主義革命と見るか。もし前者だったら、現状の政体を乱すな、平民の権利など知るかとなる。もし後者なら、現状はまだ革命過程で不十分な状態であり、社会主義革命はさらに押し進められるべきだということになる。北は後者の立場に立つ。
北によると、歴史というのは平等思想の拡大の過程である。維新革命は、平等意識、国民意識に目覚めた国民が、国民の利益ではなく、その一部のものの利益を追求しているにすぎなかった貴族主義を打倒したものである。天皇は、革命勢力が自己を正当化する理論を自力で作り出せなかったため、一時的に借りてきて利用したものにすぎない。王政復古というのはただの見せかけで、その本質は民主主義革命なのである。
だが、打倒したまではよかったが、革命勢力は腐敗し、元の貴族の立場に成り代わろうとはかった。その結果として革命は中途半端に終わった。法律の上では平等は認められているけれども、経済的には以前のまま不平等が続いている状態にある。だから革命を継続し、平等を真に実現しなければならない。
だから、維新を王政復古と解して国体論を唱えているものはただの反動にすぎない。この国体論を理論的に批判するため、北はいろいろな根拠を持ち出している。歴史的にみて国体論というのはただの捏造だということなどなど。国体論者が言っているのは遙か昔の家父長制の理屈で天皇をあがめよということであり時代錯誤だ。それが多神教であるというのもどの民族もたどってきた道のりであり、万世一系というのも日本の特色ではない、などなど
後は、国家という枠組み自体は否定しないというのが北の特徴だろうか。
また、クーデターによる政権転覆というのは北の思想に合致しているのかという質問が例会であったが、国民が意識に目覚める、というような抽象的な言い方しか北はしてないから、その実現のために労働運動を拡大とかいう発想にはならないだろうし、目覚めた一部の者達がクーデターを起こすという発想も妥当かなと思う。
また、北は具体的方針としては、普通選挙の実施や土地の国有化を唱えている。