ロック『統治論』

概要

専制主義に対抗するための理論書が『統治論』。権力を無制限に駆使し、所有権まで脅かそうとした専制主義に対し、ブルジョワジーの立場から理論闘争を行い、この本を書いたようだ。

内容は

  1. 自然状態から社会状態への移行過程を理論的に考察し
  2. 国家の立法部の権力の限界を示す

という構造になっている。

理論的な核心は、社会起源説。現在の社会がどのような構造の上に成り立っているのかを示した上で、国家の各機構の権力はどの点まで制限されるのかを示し、その制限を踏み越えた場合には国家を転覆してもいいということを導く。

今回は

  • 第七章 政治社会あるいは市民社会について
  • 第八章 政治社会の起源について
  • 第九章 政治社会と統治の諸目的について
  • 第十一章 立法権の範囲について

を世界の名著で読んだ。

自然状態

自然状態においては、各自は自身の所有権を守るため、各自で判断し、自由に行動する。

政治権力を正しく理解し、それがよってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。(第二章4)

だが、これは非常に不安定である。なぜなら、ほかのものも同様に自由に行為するからである。各自が公正に判断し行為することは稀であるため、所有物は維持されにくい。
そこで、所有権を確実に維持するために、国家を形成することになる。

もし、自然の状態にある人間がすでに述べたように自由であり、また、もし自分自身の身体と所有物の絶対的な主人であり、どんな偉大な人とも平等であって、だれにも隷属しないとするならば、彼がその自由を手放すのはなぜだろうか。彼がこの絶対権を放棄し、他人の権力の支配と統制に服するのはなぜだろうか。
この疑問に対してはつぎのように答えればはっきりするであろう。すなわち、自然の状態では人はそのような権利をもっているが、しかしその権利の享受はきわめて不確実で、たえず他からの侵害の危険にさらされているからだ、と。というのは、万人が彼と同じように王であり、ことごとく彼と同等の者であり、しかも大部分の人間が構成と正義を厳格に守ろうとしないので、自然の状態のもとでの財産の享受はきわめて不安定であり、きわめて不確実だからである。(第九章123)

国家状態

国家状態においては、各人は自己の判断と実力を行使する権利とを捨て去り、それを国家に委ねる。そして、判断にしろ行為にしろ、多数派に従うことになる。

政治社会が存在するのは、その成員のだれもが、社会によって樹立された法に保護を求めることを拒否されないかぎり、この自然的な権力を放棄して、その権力を共同社会の手に委ねるという場合、そんな場合だけなのである。このようにして、すべての個々の成員の私的な裁判権はすべて放棄され、共同社会が、すべての当事者にとって公平で同一である一定の常置の規則によって、裁き手となるのである。
また、共同社会は、これらの規則を施行するために、共同社会から権限を授かった人々の手をつうじて、権利問題に関してその社会の成員間に起こりうるあらゆる争いに決着をつけ、そして社会に対して、その成員が犯す犯罪を法が定めた刑罰によって処罰するのである。このことによって、政治社会に入っている者と入っていない者とは、容易に区別される。結合して一つの団体をつくっている人々で、彼らの間の争いを裁定し、犯罪者を処罰する権威をもっている共通の確固たる法や裁判所に訴えることができる人々は、互いに市民社会に入っていることになる。(第七章87)

立法

ここから、国家は、各自の所有権を維持するために権力を委譲されただけにすぎないということになる。だから、これを越えるような権力を国家は持つことができない。これが理論的な結論。ここから、立法部が具体的にどのような制限を受けるかということをみていくことになる。

なるほど、人々は社会に入る場合に、いままで自分が自然の状態でもっていた平等、自由、および執行権を放棄して社会の手に委ね、社会の福祉に役立つよう、この権力の処置を立法部に任せてしまう。しかしそうするのはもっぱら、すべての人が自分自身の自由と所有物をよりよく保全しようという意図でなされるにすぎない。したがって、社会の権力、すなわち社会によって設立された立法部の権力が、共通の福祉以上に拡大されるとは決して考えることができない。(第九章131)

立法部というのは刑罰を司る機関。自然状態においては、各自は自身の所有権を保全するため、所有権を侵すものに対しては各自でそれに対抗した。だが、社会状態においては、この役割を立法部が担う事になる。

人々が社会に入る大きな目的は、彼らの所有物を平和かつ安全に享有することであり、そのための主要な方策と手段はその社会で確立された法である。したがって、すべての国家が立てるべき第一の基本的な実体法は、立法権を確立することである。(十一章134)

立法権は、次のような制限を受ける。

  1. 権力は無制限ではない
  2. 公に宣言されたものしか効力がない
  3. 所有権を奪うことはできない
  4. 委譲することはできない

国家の目的は所有権の維持で、そのために各人がその労力を提供するという仕組みになっている。だから、それがふるうことのできる権力の総量というのはその労力を足したもの以上にはならず、またその目的というのも限定されるわけである。

第一に、立法部は公布され確立された法によって支配すべきであり、個々の命令に応じて異なった支配をすべきでなく、金持にも貧乏人にも、また宮廷の寵臣にも農耕に従事する田舎の者にも、同一の支配を行うべきである。

第二に、これらの法はまた、究極的には国民の福祉以外のいかなる他の目的のためにも立案されてはならない。

第三に、立法部は、国民が、彼ら自身あるいはその代表者をつうじて同意を与えるのでなければ、国民の所有物の上に税を課してはならない。そして、この課税の問題は、立法部が常時存在する場合の、あるいは少なくとも、国民が立法部の一部を、ときどき彼らによって選出される代表者のために保留しておかなかった場合の統治にのみ、とくに関係のあることである。

第四に、立法部は法を作成する権力を他のいかなる者にも委譲してはならないし、また委譲することもできない。すなわち、国民が置いた以外のどんなところにもそれを設置してはならないし、また設置することもできないのである。(第十一章142)

その他

ここまでが本論。あとは、現実のその他の機構との関係について理論的な整合性を得るための議論をいくつかしている。

立法部が執行部によって召集されるということについて。これだけ見たら、立法部は執行部に従属しているのではないか、となるわけだ。その説明。立法部はその性質から常にある必要はないが、最高権力で他の機関はそれに従属しているのだ、執行部が召集するのは便宜的なものであって、それを必要な場合にしない場合には不正を行っていることになる、という議論をしてる。

また国王大権について。これは、公共の福祉のために、法ではカバーできない領域をカバーするために必要であるということ、そしてそれゆえ、それはそれ以上の権限をもちえないということなどなど。

あとは、他国を征服して国家を作ることは可能かという議論や、国家を簒奪することは可能かという議論をしたりしている。

また、所有権がどのような根拠を持つかの考察をしているので興味があるひとはそこを読んでもいいかもしれない。自然物に労働が加えられることによって、それへの所有権が生まれる。だが後に、貨幣が登場することによってこのあり方が少しずつ変化していく、といった議論をしている。

特徴とか

所有権に強いこだわりがあるのが特徴。どのような場合であっても所有権については絶対に侵されてはならないという強い意志が個々の文章で感じられ、非常に清々しい。

軍曹は兵士に、敵の砲口に向かって前進するように命じたり、九分どおり戦死することに決まっているような危険に立つように命じたりすることはできるけれども、その兵士にその持金をびた一文でもよこせと命令することはできない。また、将軍は、兵士が任務を放棄したとき、あるいは、ほとんど生還の見込みのない命令でもこれに服従しないときには、この兵士を死刑に処することはできるけれども、彼はこのような生殺与奪の絶対権力のすべてを用いても、その兵士の資産からはびた一文、勝手に処分できないし、その財産のひとかけらでも奪い取ることはできないのである。(第十一章139)

例え死のうと金だけは渡さん!というのは突き抜けていて、ブルジョアのあるべき姿じゃないかと思う。

後は、自然状態においても正義は存在する、というように思っているようである。これもルソーなどとは異なる点。多数派に少数派は従うべきだということについても無前提に認めており、ルソーがしたような考察はしていない。

また、政治体制自体を否定するようなことはしない。国王の存在なり個々の機関の存在なり自体は認める、ただ、それがあまりに逸脱した時にはそれに反抗してもいい、という理論であり、そのような意味である程度まで現状肯定的で、体制的である。

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