ルソー『社会契約論』第一編

目的

社会には不平等が存在する。自分の利害とは関係のない不合理なものが強制され、その根拠も曖昧だ。これはなぜか。それを理論的に突き止められないか。このような問題意識が根底にある。

人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか。わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。

方法論

自然状態から国家形態への移行がどのようにしてなされたのかを考察することで、国家の本質を突き止める。そうした上で、そこから不平等が生じる過程を考察する。このような段階を踏む。

国家ができる過程

国家が出来る前の状態を自然状態と呼ぶ。そこでは、各自が各自の利益を追求している。皆、万物に対する無限の自由を持ち、何をしてもいい。自己の判断により、自己の利益を追求するため、他のものを手段として扱う。だが、これはすぐに限界に行き着く。というのは、自己が何かを欲し、行動したとして、それが実現するかどうかは、他のものとの関係によって決まるからである。自然においては、自己の力を凌駕するものが無数に存在する。全てを自己の判断で行う自由があるといっても、それは、自己の持つ身体的限界により、実質的には無なのだ。

それを突破する方法に、数の力がある。自己と同じ本性と利害関係を持つ者同士で集まり、一つの方針のもと、各自の労力を統合する。一人なら、たとえどれだけ力が強くとも、眠り、疲労するというという理由で自己の身を完全に守ることはできない。だが数人で交代で見張りをすればそれはカバーできるだろう。あるいは、その構成員の一人が攻撃されれば、その他の構成員全てが反撃するという状況を作れば、容易に襲われたりしなくなるだろう。労力の総量としてはかわってないし、個人として持つ力量が変化したわけでもない。だが、組織形態を作ることにより、個人では達成できなかった利益を構成員全員が実現することが可能になるのである。

国家の条件

だが、自己の判断を手放し、自己の労力を好きに使えなくなるというのは危険なことではないか。その組織が信頼できるものであり、自己の利益を常に実現してくれる保証はどこにあるのか。むしろそれによってより不都合な状況に陥るのではないか。これが解決しない限り、絶対に組織形態は成立しない。

これを成立させる条件が平等性である。全員が得る成果が同じであり、その実現のために被る労力も同じならば、他者を欺き自己の利益を実現することがそもそも不可能になる。他人を欺いても全体の仕事がダメになるだけで、それは自己の不利益に直結する。自己の利益を実現しようとすれば、組織の利益を考えざるを得ない条件下でのみ、国家は成立するのだ。

まとめ

国家形態を作っているものは、それがどのような目的を持つものであろうと、必ず以下の条件を満たしている。

  • 共通の利害の実現
  • 平等性

これが人間同士の紐帯の根拠であり、各人の精神の深い箇所に刻みつけられているものだ。そして、これ自体を否定することはできない。実際問題として、人間が自己の利益を実現することは、何らかの組織に所属する以外不可能だからである。

位置づけとか

ルソーがやりたいのは、国家形態の分析である。だが、現実の国家は、本来のあり方から既に変質してしまっている。いくらそれを分析したところで、その本質を見極められない。そこで、自然状態というものを想定し、それが国家形態に移行する過程を分析することで、国家の本性を探るのである。

国家状態自体は悪いものではない。それは必ず自己の利益に合致する。個人で何かをなそうとしても、それは必ず失敗するだろう。だから、自己の利益を実現するには、組織を介して実現するしか無い。だが、普段腐敗した国家のみしか経験していないため、国家自体、人間自体に絶望している。そして、それに対して適切な対処をすることもできないのである。

例会で出てきた意見とか

ルソーと全体主義は関係あるのか

ルソーがやりたいのは、国家形態の分析。既存の国家や組織をただ見たところで、それは変質し、腐敗しきっているため、その根底に共通の利害や平等性があるといった本質は見えにくい。そこで言われることは、ただ俺をだますための詭弁にしか見えないだろう。そこで、それを離れて考察する必要があったわけだ。

だから、新しく組織を作るための方法論を探ったり、理想の社会状態を作るための条件を探ったりするような、一つの主義や思想としてルソーを捉えるのは誤っている。よって、ルソーを全体主義と結びつける解釈も間違いである。解釈としてありうるのは、ルソーの分析が正しいか否かのみだ

自然状態と国家状態はどちらがいいのか

『人間不平等起源論』では、自然状態が理想的なものとして描かれている。森の中で人間は暮らしており、果物は周りに無数にある。外敵に出会ったとしても容易に森の中に逃れることができる。それに対して、国家状態が優る点は何なのか、という意見。国家形態をとることによって失うのは、万物に対しての無限の権利。組織に所属したならば、全体の方針に従属しなければならないし、ほかの構成員を傷付けることもできなくなる。このような点で制限される。

では、これが本当に自然状態と比べて得なのか?

状況によって異なるというのが答えになりそう。組織に依拠しなくても、一人で何でもできる。自己の利益を実現できるのであれば、それは損になる。だが、そうでない場合は、いくら全てのものに対する無限の権利を持っていたとしても、何も無いのとおなじであり、国家状態に移行する方が得である。

法人実在説をルソーは取ってるのか

ルソーの場合は実際問題として考えてるから、どういう立場を取ってるのかというのはあまり重要ではないのではという話をした。何かの行為をする中で、組織というものを認め、実在するものとして考え、動いた方が適切な場合がある。誰かを攻撃したとき、もしそれによってそいつのバックにある組織が全体として反撃してくるという可能性があるならば、観念的に「いやそんなのは俺が観念の内に作り出したものでしかない」みたいなことをいくら思っても仕方ない。

というかどういう問題意識からの質問なのかがよくわからない。ルソーの場合、法律というのは、「組織の目的に取って利益か、害悪か」のみが基準となる。そういった利害関係を離れたものなど存在しないし、全くそれらから離れた普遍的な善悪というのも存在しない。立法、執行に対立するものとしての司法などありえないし三権分立など戯言だ、となるので、こういう法律の運用とかで問題になりそうなことについて一々考えても意味なさそうな気がする。

全人類で社会契約を結ぶことはできないのか

国家が巨大なものになればなるほど、国家に所属することによる恩恵が個々の労力の結果によるものだと意識できなくなる。そうして、国家から要請があったとしても労力を提供しなくなりがちになる、という限界がある。一つの判断の元、労力を統合する、という国家の本質と矛盾するのだ。何が自分の利益かを常に把握しており、日常生活において雑事を行っていようとぶれず、いつも自己の利益となる行為を選択できるような人間ばかりで構成されているのなら可能だが、まず無理。

国家の実在を常に意識させるための技術を追求し、構成員が国家無しでは生きていくことが不可能な状況を維持し続ければ、もしかしたら可能になる?それはそれでどこかに限界が来そうな気がしなくもない。

国家の命じる死について

国家が命じれば死ななければならない、という理論だが、理屈としては分かるがあまり納得出来ない、そういう状況になれば逃げたほうが得策ではないかという意見。

社会契約は、契約当事者の保存を目的とする。目的を欲するものはまた手段をも欲する。そしてこれらの手段はいくらかの危険、さらには若干の損害と切りはなしえない。他人の犠牲において自分の生命を保存しようとする人は、必要な場合には、また他人のためにその生命を投げ出さねばならない。(中略)この条件によってのみ彼は今日まで生きて来たのであり、また彼の生命は単に自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから。(第二編第五章)

国家の利害と自己の利害をどれだけ結びつけて意識しているか、という点と、構成員間の平等性に立脚して命じられたものかどうかという点がポイントになるのかなと思う。「本当に俺が命投げ出すだけの価値があるのか」あるいは「何で俺だけが」といった疑念を打ち消すくらいの一致をしていなければ無理そう。実際に国家のために死ぬ人間というのは多数存在するわけだから、そのあたりへの準備をすれば可能になることなんだろうとは思う。

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