ルソー『社会契約論』第四編

はじめに

  • 第一編 一般意志について
  • 第二編 立法
  • 第三編 執行

というように、ここまでは割とはっきり扱う内容が定まってたが、第四編はこれまでと異なり、雑多な内容を扱っている。

  • 1~3章……第一編~第三編の補遺
  • 4章……ローマ史の考察
  • 5~7章……4章に基づいた、政体を補う個々の機関の考察
  • 8章……4章に基づいた、宗教の考察
  • 9章……結論

中途半端でまとめきれなかったものを、まとめてここに置いたのかな、という印象。この箇所を読むには、ある程度ローマ史について知っておく必要がありそう。僕はBOXにあった塩野七生の文庫版ローマ人の物語を読んで勉強した。

第一章 一般意志は破壊できないこと

第一編の補遺。どれだけ社会が腐敗しようと、一般意志自体がなくなることはなく、ずっと残る。ただ、各人がそれぞれの特殊利益を優先してそれから目を逸らしているだけだ、という内容。

それだからといって、一般意志が破壊あるいは腐敗したということになるであろうか?いな、それはつねに存在し、不変で、純粋である。しかし、一般意志は、それに打ちかつ他の意志に従属せしめられているのだ。各人は、自己の利害を、共同の利害から引きはなしながらも、それをまったく分離してしまうことは、不可能だということは知っている。しかし、彼にとっては、公けの不幸から、彼がうける不幸の分け前は、自分ひとりでわがものにしようと思っている幸福にくらべれば、何でもないように見える。この個人的な幸福を除けば、彼も、自分自身の利益のために、全体の幸福を、他のいかなる人にも劣らず強く欲しているのだ。投票を金銭で売る時でさえ、それによって彼は、自己の心中から一般意志を消滅させたのではなく、一般意志をさけたのである。彼がおかした過ちは、質問の意味を変えて、尋ねられたのとは別のことを答えたという点である。たとえば、投票に際して、「これが国家にとって有利である」と言うかわりに、「かくかくの意見が通過すれば、かくかくの人または党派にとって有利である」と言うふうに。

第二章 投票について

第二編の補遺。立法において、国家の方針を定めるときの具体的方法として、投票について語っている。議題の重要度に応じて、どれだけの割合の賛成票が必要かが変わってくる、としている。
また、ここには多数決についての考察があるので、第一編第五章とあわせて参照のこと。

第三章 選挙について

第三編の補遺。執行部を実際に決める際の方法として、選挙と抽選について考察している。
ここまでの前提から、執行というのはただ各自が負うべき義務であり、かつ誰でもその執行をできるはずだから、抽選が適当だということ。また、それが専門的な技術を必要とする際には、選挙が適当であるということが述べられている。

すべての真の民主政においては、行政官の職は利益ではなくして、重い負担であって、これをある個人にではなく他の個人に課するのは正当なことではありえない。ただ法だけが、クジにあたった人にこの負担を課することができる。

第四章 ローマの民会について

四章以降の内容

ここから、扱う内容が大きく変わってくる。この章でローマの制度について考察し、5~8章ではこれに基いて、「理論的には導けなかったがローマには存在した機関」を、これまで理論的に構築してきた政治体モデルの補完として付け足す、ということをする。

なぜローマなのかというと、「どのような国家にどの政体が適切か」という問題を考察する際のモデルとして、ローマが最適だったからだ。
ローマは国家の規模が大きくなるにつれて、王政→共和政→帝政というように、政体を変えている。ローマは最初、現在のローマ市にあたる狭い領域しか持っていなかった。だが、数百年をかけてイタリア全域、地中海一帯とどんどんと勢力を広げ、それに対応して政体を変化させていったのだ。

ルソーはローマの政体をモデルとして尊重しており、自身の理論モデルがそれと異なっている場合、ローマにあわせようとする。以降の章(5~8)は、そのための修正なのだが、「いやそれってローマでたまたまそうだっただけで普遍性ないだろ」と個人的には感じる箇所が多い。

ローマの歴史

王政(BC753~BC509)→共和政(BC509~AD27)→帝政

王政(BC753~BC509)は、ロムルスに始まり7代で終わる。
王政が打倒された後、共和政へ。任期一年の執政官を二人置く。非常時には任期半年の独裁官を一人置く。

文中に出てくるセルウィウスというのは6代目の王。

民会

クリア民会、トリブス民会、ケントゥリア民会の3つがあったらしい。

  • クリア……都市地区を分割して作ったもの。元々は種族を分割したものだったらしい。
  • トリブス民会……ローマを35の地区(トリブス)に分割して作ったもの。4つが都市地区で、残りが田園地区。
  • ケントゥリア民会……財産別に6つのクラスに区分。各クラスに一定の票が割り振られている。票数は合計で193だが、最上位のクラスがそのうち98を占める。

この3つとも、ローマの初期に作られ、その後も長く維持された。
ローマは、王政→共和政→帝政と移行していったが、同じ国家でありながらそのような移行ができたのは、初期に作られたこの3つの区分のおかげではないかとする。クリア民会は王政に、地区の民会は民主政に、財産区分の民会は貴族制に適していた。初期の制度が混合的であったがゆえに、そののちの政体の柔軟な変化も可能になったのではないか、という分析だ。

保護主(パトローネス)と被保護民(クリンテス)

家同士の親分と子分のような関係が、保護主と被保護民。村一帯のボス的な家みたいなものかな、と思っている。
ローマは、元老院が政治の中心だったが、そこに入れるのは貴族だけで、かつ終身制だった。平民は排除されていたわけだ。
だが、それでいて貴族と平民の対立を深刻にしないようにする仕組みがあった。それが、保護主と被保護民の関係だった。保護主は、自分の保護民を守ろうとするし、被保護民も保護主を守ろうとする。ここでは共通利害が存在するわけだ。だから、そのような保護主が集まって議論をする元老院が中心でも、それが平民と決定的に対立するものにはならなかった、としている。

第五章 護民府について

第四章を受けて、「理論からは出てこないけれどもローマでは存在した機関」を普遍化し、ルソーの理論モデルに付け足すことがなされる。この章の護民府は、ローマの護民官に対応する。これは、平民から選ばれる、貴族に対抗する官職。

国家を構成する諸部分のあいだに、正確な釣合いをうちたてえない場合、または、破壊しえない諸原因が、それらのあいだの関係をたえず変える場合には、特別の官職が設けられる。それは、他の官職と一体にならず、各項をその真の関係に連れもどし、統治者と人民とのあいだ、または、統治者と主権者のあいだ、さらに必要ならば、一度にこの二つの場合において、連絡をつくり出し、または、中間項となるものである。

第六章 独裁について

これも護民官と同様、ローマにあった機関。ローマに危機が起こった時、半年を任期として独裁官を選出する。独裁官は一時的に法律を停止し、集中した権力を持つ。
ここでいう独裁は、共和政の枠内で、極々短期間に必要に応じてなされるもの。現代の独裁国家でイメージするような独裁では無いので注意。

共和国の初期には、きわめてしばしば独裁に助けが求められた。なんとなれば、国家はまだ、その憲法の力だけによって自立しうるほど、しっかりした基礎をもっていなかったからである。
当時は習俗が、ほかの時代なら必要としたであろうような多くの用心を無用としたので、独裁官が自分の権威を乱用するとか、期限以上にそれを保持しようと願うとかのおそれはなかったのである。それとは反対に、こんなに大きな権力は、授かった人には重荷となったらしく、それからまぬがれることを急いだほどである。あたかも、法の代わりとなることは、あまりにも苦痛で危険なつとめであるかのように。

第七章 監察について

これも護民官、独裁官と同様、「ルソーの理論からは出てこないけれどもローマでは存在した機関」だ。監察官といい、国勢調査や風俗の引き締めを行った官職。
出来上がった習俗を維持するのには役立つが、一度破壊された習俗を立て直す力は無い、ということが述べられている。

一般意志の表明が法によってなされるのと同じように、公衆の判決の表明は監察によってなされる。世論は法の一種で、これを担当する官吏は監察官である。彼は、この法を、統治者と同じように、個別的な場合にのみ適用するのである。
そこで、監察官の法廷は、人民の世論の裁き手であるどころか、その表明者にあるにすぎない。そして、もし世論からそれるようなことがあれば、たちまちその決定は空虚な、効力のないものになるのだ。

第八章 市民の宗教について

大前提としてあるのは、「国家の結合を維持する宗教が適切」だというもの。この観点から、既存の宗教を区分してそれぞれ評価していく。

ルソーは3つ挙げている。

  • 人間の宗教
  • 市民の宗教
  • 僧侶の宗教

人間の宗教は、自然に相対した時に感じる素朴な畏れに基づくもの。

神殿もなく、祭壇もなく、儀式もなく、至高なる神の純粋に内的な礼拝と、道徳の永遠の義務とに限られているのであって、純粋にして単純な福音の宗教であり、真の有神論、人々が自然的な神のおきてと呼びうるものである。

市民の宗教は、それぞれの国家で、国民を一つの一般意志の元に行動させる手段としての宗教。

ある特定の一国で定められ、その国にその神々、すなわちそれぞれ固有の守護神を与える。この宗教は、その教義、儀式、法によって規定された外的な礼拝をもっている。これを信奉している唯一の国民を除けば、すべての者が、この宗教にとっては、不信の徒、異邦人、野蛮人である。

僧侶の宗教は、国家の利害とは無関係なもの。それゆえ国家の一般意志の元での行動の阻害につながる。キリスト教が当てはまる。

人間に、二つの立法、二つのかしら、二つの祖国を与えて、人間を矛盾した教義に服従させ、彼らが、信心をしながら同時に市民ではありえないようにする。

この3つの評価だが、第三のものは最悪。第二は国家外の人間に対して残忍になりうるのがデメリット。第一は政治体とは特に関係を持たず、むしろのめり込むと国家についての興味から引き離すのがデメリット。

第三の宗教は、あまりにも明らかに悪いものだから、それを論証してよろこぶのは、時間の浪費というものだ。社会的統一を破るものは、すべて何の価値もない。人間を人間自身と矛盾させる制度はすべて無価値である。第二の宗教は、それが神の礼拝と法への愛とを結びつけ、また、祖国を市民たちの熱愛の対象として、国家に奉仕することが、とりも直さず守護神に奉仕することだと教えている点で、よい宗教である。それは一種の神政であって、そこでは統治者のほかには教主を決してもつことを許さず、行政官以外には僧侶をもつことを許さない。そうなれば、祖国のために死ぬことは殉教におもむくこととなり、法をやぶることは不敬である。また罪人を公共の非難の対象とすることは、その人を神の怒りにささげることである。Saceresto(神にささげられ、のろわれてあれ)。しかし、この第二の宗教は、あやまりといつわりの上に基礎づけられているので、それが人々をあざむき、彼らを軽信的、迷信的にし、また神の真の礼拝を空しい儀式の中におぼらせる点で、悪い宗教である。それは、排他的、圧制的になって、人民を残忍かつ不寛容にする時もまた、悪いものとなる。そうなれば人々は殺人と虐殺のみを熱望し、彼らの神々をみとめない人々をだれかれとなく殺しながら、神聖な行動をしていると思いこむ。このことが、このような人民を、他のあらゆる人民と戦争するような自然状態におくが、その状態は彼ら自身の安全にも、いちじるしく有害なものである。そこで、人間の宗教すなわち、キリスト教が残る。しかしそれは今日のキリスト教ではなく、福音書のキリスト教であり、それは今日のとはまったく異なったものである。この神聖、至高にして真なる宗教によって、同一の神の子である人間たちは、すべて互いに兄弟とみとめあうのであり、人間たちを結合する社会は死に至っても解消しないのである。しかし、この宗教は、政治体となんら特別の関係をもっていないので、法にたいしては、法がそれ自体から引き出す力のみを認めておき、法になんら他の力をつけ加えるようなことはしない。それで、そのような事情によって、特殊社会の偉大なきずなの一つが効果を生まぬままに放置される。それだけではない。市民たちの心を国家に結びつけるどころか、この宗教は、彼らの心を地上のすべての事がらからと同じように、国家からも切りはなす。これ以上、社会的精神に反するものを、わたしは知らない。

なぜルソーはわざわざ宗教について扱ってるのか。理論的にはただの手段の一つに過ぎないはずじゃないか。と思うのだが、この前までの章と同じく、ローマに宗教がずっと存在したことを元にして、国家には宗教が必須だと考えたのではないかと思われる。
ここでルソーが具体的に想定した宗教というのは、市民が市民として、その組織を尊重する気持ちを持つ、ということらしい。それを宗教のカテゴリーにはめる理由というのは別に無いんじゃないかと私は思う。

そこで、主権者がその項目をきめるべき、純粋に市民的な信仰告白がある。それは厳密に宗教の理としてではなく、それなくしてはよき市民、忠実な臣民たりえぬ、社交性の感情としてである。それを信じることを何びとにも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。主権者は、彼らを、不信心な人間としてでなく、非社交的な人間として、法と正義を誠実に愛することのできぬものとして、また必要にさいしてその生命を自己の義務にききげることのできぬものとして、追放することができるのである。もし、この教理を公けに受けいれたあとで、これを信ぜぬかのように行動するものがあれは、死をもって罪せらるべきである。彼は、最大の罪をおかしたのだ、法の前にいつわったのである。

例会(3/19、3/26)で出た意見等

第一編第六、七章

一般意志についての解説をするため、19日の例会では最初にこの箇所を読んだ。
憲法というのはどう位置づけられるかという質問が出る。ルソーの場合、組織の構成員全員が集まれば変えられないものはないから、憲法を基礎にして国家を形成するという発想は出てこないのではないか。仮に憲法を認めたとしても、法律を新しく作るときの参考に使う程度の役割しか与えられなさそうだ、と答える。

第7章での臣民と主権者の違いがわかりづらかったので、その解説をする。一般意志に基づいた行動は、何をするかを全体で決める段階と、決めたことに従い各々が何かの行為をする段階の二つに分けられる。前者をするのが主権者で、後者が臣民だ。ただし、この両者は別々の人間ではなく、同じ人間が段階に応じて主権者になったり、臣民になったりするのだ。

なぜなら、政治体の本質は、服従と自由の合致にあり、「臣民」と「主権者」という言葉は、盾の両面であって、この言葉の意味は、「市民」という一語のもとに結合しているからだ。(第三編第十三章)

第四編第一章 一般意志は破壊できないこと

一般意志が否定できない、の意味について話に。どこまで腐敗しても、建前として組織の共通利害は残るし、立法過程でもその建前上で議論がなされる、ということを話す。

第二章 投票について

もしわたしの個人的意見が、一般意志に勝ったとすれば、わたしの望んでいたのとは、別のことをしたことになろう。その場合には、わたしは自由でなかったのである。

の意味がよくわからない、という意見が出る。自由というのは、自分の利益を実現する、という意味でいっているのではないか。たとえば弁論を駆使して自分の意見を無理やり通したとしても、それは組織が不適当な行為をすることにつながり、そしてそれは結局そいつの利益に反することになる、と答える。

第三章 選挙について

ここでの前提では、構成員全員が執行の能力を持っている。そうでないなら、そいつを組織に入れたりしないからだ。そうである以上、執行というのは誰に任せてもいい。また、執行というのはただの負担になるから抽選になるだろう、という話をする。

第四章 ローマの民会について

一読しても内容がよくわからないといわれたので、ローマの民会の仕組みについて解説した。

また、この箇所が全体とどう関係するのかという疑問が出る。ローマは最初は王政だったが、勢力を拡大する中で共和政、帝政と変化していった。だから、「国家に適切な政体とはなにか」という問題に答えをだすためのモデルとして、ルソーが取り上げたのではないかという話をする。
また、パトロネースとクリオネースの説明。貴族と平民という二つの区分があったのだが、その両者をつなぐ仕組みがあったので、そこまで対立的にならなかったということを話す。

あと、悪い人民には悪い法が適当だという文章があるが、ルソーの立場では、そのような国家は捨てろということになるのではないか、と聞かれる。それは、立場によって変わってくるのではないか。その組織を維持すべき立場に立ってる人なら、こういうことを考えることになるのでは、と返答。

第五章 護民府について

護民府は本当に必要なのか。ルソーの理論からは出てこないのではないか、という意見が出る。俺もそう思う、ルソーはローマをモデルにしてたから、この機関が普遍的に必須なものだと思ったんじゃないか、と返答。

第七章 監察について

一般意志の理論と、法の腐敗を防ぐ監察との関係性について議論。ルソーの本来の主張なら、組織が腐敗するのは防げない、腐敗したならそれを抜けて、勝手に組織を作る方向性に行くのではないか。この監察というのは対処療法にすぎないのではないか、という意見が出た。

第八章 市民の宗教について

ルソーがここで取り上げた理由がわからないということを俺が話す。ルソーは、宗教という枠組みだけは残そうとする。そしてそこに、その組織を否定するような奴は追い出してもいい、という原理を据えたということなのだろうか。だがそこまでして宗教を残す理由とかあったのか、ということを話す。

例会後の感想

ルソーの理論はこの時代では適用したかもしれないが、今もそうなのか。戦争の形態も対テロとかで変わってるし、ルソーの時代には国民国家とかなかったし・・・という意見が出た。

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