ロック『人間知性論』
John Locke 1632年8月29日 - 1704年10月28日
デカルトの三人の弟子
かつて、デカルト(1596年 - 1650年)という偉大な哲学者がいた。彼は、絶対に確実な哲学を導くための方法を築き、それによって実体論(自由意志と決定論のどちらが正しいかを扱う理論)を考察した。そして、決定論を否定し、精神と物体の二元論を打ち立てた。
このデカルトには、三人の弟子がいた(ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』より)。
- 長男:ロック(経験論) 1632年 - 1704年
- 次男:ライプニッツ(弁神論) 1646年 - 1716年
- 三男:スピノザ(唯物論) 1632年 - 1677年
ロックは、デカルト哲学の内実には踏み入らず、二元論という結論だけを借用する。そして、二元論を前提にした認識論を考察する。
ライプニッツは、実体論をデカルトの方向性(決定論の否定)で推し進める。デカルトは、神がいて、それが人間精神と物体という二つの実体を作ったのだ、と主張することで、決定論を回避しようとした。だが、これは理論としてはあまり突き詰めたものではないわけだ。人間精神が実体というのはいいが、人間はたくさん存在するではないか。ならば、それらをすべて実体と認めていいのか?そのとき、それらの相互関係はどうなる?こういう、デカルトが曖昧にごまかしていた箇所を徹底したのがライプニッツである。その結果、モナド論という比喩だらけの意味不明なものを作り上げた。
スピノザは、実体論をデカルトに反する方向性(決定論)で推し進める。デカルトの方法論を利用し、それでデカルトにおいて曖昧だった箇所を否定し、決定論に至った。
認識論と生得観念
デカルトの理論は「我々は精神を通して物体を認識する」という認識論につながる。
これは、生得観念を認めるかどうかで、二つの流派に分かれる。
- 生得観念は存在しない……経験論(ロック、ヒューム)
- 生得観念は存在する……観念論(カント)
経験論者が生得観念を否定するのは「いや、普通に考えてそんなの当たり前だろ?」と思っているからである。「生得観念とか言ったって、そんなのどこで得るんだ?生まれる前に刻印されたとでも言うのか?お前天国とか魂とか本気で信じているのか?そもそも普遍的な観念とか存在しなくないか?」
生得観念を否定すると、すべての観念は、外部からの経験に由来する、という主張になる。そして、「そんなの当然だろ?」という素朴さで、観念がいかにして経験に由来するのかを淡々と叙述していく。
教科書においては、「ロックは人間の心は白紙(タブラ・ラーサ)である、という説を唱えた」云々と説明されているが、これは正確な言い方ではない。ロックには、自分が新しい説を唱えたつもりなど毛頭ないからだ。この理論は、何か複雑な事態を解明するために立てた理論だとか、そういった他の「説」と並べられるようなものではない。「いや、だってそうでしょ?違うならなんだっていうの?」という非常に素朴な思いから書いたのが、『人間知性論』なのである。
カントはロックの兄弟
これと比較すると、生得観念を認める層はもっと意識的である。カントが代表的だ。
何故、観念論者が生得観念の存在を主張するかというと、そうしないと自由意志が否定されてしまってまずいからである。
仮に「すべての観念が経験に由来する」という経験論の主張を認めたらどうなるだろう?自由意志の余地が無くなるのではないか?我々が、自由に観念を創造し、自由に観念を思い浮かべ、自由に観念を拒否し、肯定できる、ということが否定されたならば、我々の自由になるものとして何が残ると言うのか?経験論は、二元論を前提にしているとは言っても、人間精神が介入できる余地を狭めるという点で、唯物論に近いのである。
観念論者であるカントは、「総合的判断と分析的判断の区別」だとか「空間論・時間論」だとかを使い、空間と時間が経験由来ではないことを証明する。時間と空間は人間精神に備わった形式である。我々は、そのフィルターを通してものを認識しているのだ。客観的に存在している物自体というのは、空間と時間を欠いた、イメージすることも難しいような意味不明なものだろう……。このようなことを言って、とにかく時間と空間を精神側に取り戻す。さらに、原因・結果だとか偶然性・必然性とかいったものも、話の勢いで精神側に取り戻してしまう。本当に証明できているのかどうかなんて、野暮なことを聞いてはいけない。
経験論を否定した以上、経験論者が投げかけていた「生得観念とか言ったって、そんなのどこで得るんだ?生まれる前に刻印されたとでも(ry」という疑念は当然出てくるだろう。カントもロックは当然読んでいるから、このような批判は重々承知のはずだ。だが、カントはこれを黙殺する。答えられっこないんだから当然である。迂闊なことを言えば、自説が破綻してしまうのだ。それが大人の態度というやつである。
悟性と理性
このようにしてカントは、経験論を否定し、空間と時間を人間精神側に取り戻した。だが、さすがにカントも、それを我々が自由意志によって恣意的にコントロールできる、とまでは言わない。そんなことを言えば、『純粋理性批判』が能力者バトル物のラノベになってしまう。だが、とにかくそれらは経験には由来しないんだ、とは言えた。カントはそれで満足する。
ちなみに、空間や時間といった形式を作り出す「恣意的にならない能力」を、カントは「理性」と呼ぶ。そして、我々が日常、思索したり判断したり意志したりするときに用いる「恣意的になる能力」を、「悟性」と呼ぶ。
普通の用例で言えば、「悟性(Verstand)」とは精神である。時間や空間といった「恣意にならないけど精神に属するもの」をカントが新たに発見し、それを精神と区別する必要が生じた。そこで、それを「理性(Vernunft)」と名付けた。そのように理解するのがわかりやすいだろう。もっと言うと、最初に「悟性」という訳語をつけたやつは、あまりよくわかってないくせにそれっぽいのを禅だか仏教用語だかから拾ってきてドヤ顔で付けただけなのだ。
カントの弟子がドイツ観念論
さて、ここで元々の話が何だったのかを思い出そう。すると、次のような疑問が生じるだろう。「これって自由意志を擁護したことになるのか?」
時間と空間を精神側に持ってきたと言っても、それって意味あるのか?我々の恣意的にならないのなら、精神に属しようと物体に属しようとどっちでもいいことじゃないか?書類上の行政区域が変更されたようなもので、実質的には同じだろ?これって決定論を克服したことになるのか?
自由意志を擁護しようとして始めた議論のわりには、成果がないのである。「空間と時間は形式なんだ!」という理論はセンセーショナルで気持ちが昂ぶるかもしれないが、ただ昂ぶっただけで終わってしまう。観念論者一般としては、あまり納得の行く話ではないのである。
そして、こういう疑問を抱き、それを解消しようとしたやつらが、ドイツ観念論者となる。そいつらが、「悟性」と「理性」とが実は一致しているのだ、ということを示そうとして、なんかいろいろ頑張るわけである。
大陸合理論とイギリス経験論の統一というのは嘘
大陸合理論(デカルト、ライプニッツ、スピノザ)とイギリス経験論という二つの潮流があり、それをカントが統合した、と教科書には書かれているが、これは哲学史的には誤りである。そもそも、その二つの潮流が独立に形成されていたわけではない。経験論は大陸合理論を前提としているからである。あと、カントが統合したというのも怪しい。その二つが取り扱っている領域は、全然別物だからである。それに、一方が一方を前提とする関係にあるのに、その二つを統合するなんて意味不明だ。
じゃあなんでこんな意味不明な言説が流布してるかというと、カントが『純粋理性批判』でそう言っているからである。カントはやったのはただの経験論批判なのだが、カントは自分の立ち位置をあまりよく理解していなかった。彼は不勉強のため、大陸合理論についてはあまり理解できていなかったのだ。カントは、自分の業績を偉大に見せるため、俺はこれまでの哲学をすべて統合したのだと適当にホラを吹いたのである。そしてそれ以来、このホラがずっと信じられ、現代の教科書にもそう載っているというわけである。
ロックの哲学史的位置
ロックは精神そのものは否定しない。精神と物体の二元論は認めるし、精神が色々な能力を持つことも認める。そういう意味で唯物論とは明確に区別される。ただ、精神を認める理論の枠内で、生得観念を否定し、それが経験に由来する、としているだけなのである。
ロックは、「二元論を前提にした認識論をやった人」で「生得観念を否定した人」なのだ。
『人間知性論』の構造
- 二元論を前提とした上で
- 生得観念を否定し、経験論を取る理由を述べて
- 観念が形成される様を考察し、それがどう抽象的な観念に行き着くのかを中心に
- 淡々と観察し、叙述していく
という形式になる。何か、一つの主題があってそれを証明する、という叙述形式にはなってない。
- 第一巻 生得思念について
- 第二巻 観念について
- 第三巻 言葉について
- 第四巻 真知と臆見について
生得観念の批判
いったい、知性にはいくつかの生得原理、ある原生思念、共通心念、いわば人間の心に捺印された文字があって、霊魂はそもそも生まれる初めにこれを受け取ってこの世に携えてくるというのは、ある人々の間で確立された説である。が、もし私が、人々は本来自然のいろいろな機能を使うだけで、すこしも生得の印銘(インプレッション)の助けを借りずに、人々の持ついっさいの真知へ到達でき、そういった本源的な思念ないし原理がなくとも絶対確実性へ到達できることを明示さえすれば、先入見にとらわれない読者は、そうした想定が虚偽であることを十分に納得するだろう。
人間の内には、普遍的で誰にも共通するような観念が存在するように見える。だから生得観念が存在するのではないか、というのが、生得観念を支持する人たちの主張である。
これに対しての批判は
- そもそも普遍的な観念なんてないだろ
- 君の言っている普遍的な観念なんて、経験からも作れる
の二通りがある。「第一巻 生得思念について」でやってるのは前者で、第二巻以降で後者の批判をする、という形になる。まずは前者から見ていこう。
ロックは、全人類が普遍的に同意するような原理なんて、一つもないだろ、と批判する。
私は理論的原理から始めて、およそあるものはあると同じ事物があってあらぬことはできないというあの堂々とした論証原理を例にとろう。これらの原理は、とりわけて生得の資格を最も許されると私は考える。しかも私は率直に言うが、これらの命題は普遍的に同意されるどころでなく、人類の多くの部分には知られさえしないのである。
なぜなら、第一、子どもや白痴は、明らかに、みんなこれらの原理をいささかも認知しないし、考えない。そして、認知されず考えられないことは、いっさいの生得原理に必ず伴わなければならない普遍的同意をまったくなくしてしまうものである。
これに対して生得観念論者が出す弁明として、
- ある程度の年になって理性を使えるようになると身につく
- 理性の助けで思い出す
の2つがあるが、どちらも不十分である。
まず1についてだが、「いや、そんなわけないだろ」と批判。
なぜなら、理知を使いだすそんな早いときには、明らかに、これらの公準はまだ心になく、したがって、理知を使うようになるのを公準発見の時期とするのは虚偽だからである。
2については、それだと「公準とそれから演繹する定理との間に相違はなくなる」から虚偽だ、と批判する。
また、実践原理(道徳)については
- 悪いやつなんてそこらにいるし、正義や信義といったものが普遍的であるわけがない
- そもそも、それらが普遍的ならば、それが存在するかどうかが問題になるわけがない
から生得観念なんてないんだ、とロックは主張する。
他には、神の概念すら民族によっては認められない場合があるのだから、生得観念なんてあるわけない、という議論をする。
内省と感官の二つが基礎
第二巻から、経験論の具体的な内容に入る。
どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。
我々の経験は、感官と内省(心的作用)の二つのどちらかに必ず由来する、と主張する。
第一、私たちの感官は個々の可感的事物にかかわって、それら事物が感官を感触するさまざまな仕方に応じて物ごとのいろいろ別個な知覚を心へ伝える。こうして、私たちは黄や城や熱いや冷たいや柔らかいや硬いや煮貝や甘いや、すべて可感的性質と呼ばれるものについて私たちの持つ観念を得る。私たちの持つ観念の大部分のこの大きな源泉はまったく感官に依存し、感官によって知性へもたらされるので、私はこの源泉を感覚と呼ぶ。
第二に、経験が知性に観念を備える別のみなもとは、知性がすでに得てある観念について働くとき、私たちの内の私たち自身の心のいろいろな作用についての感覚である。それらは知覚、考えること、疑うこと、信ずること、推理すること、知ること、意志することであり、私たち自身の心のいっさいのさまざまな働きである。