ライプニッツ『人間知性新論』
Gottfried Wilhelm Leibniz、1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日
前回のおさらい
ロックは、デカルト哲学の内実には踏み込まず、二元論という結論だけを借用した。そして、心身が分離していることを前提に、精神がどうやって物体を認識するのか、という認識論を考察した。だから、ロックは精神の存在を否定しているわけではない。
認識論は、生得観念を認めるかどうかで派閥がわかれる。ロックは、生得観念を否定した。ロックは、「二元論を前提にした認識論をやった人」で「生得観念を否定した人」なのだ。
ロックの主張
生得観念を否定する根拠としてあげていたのは、以下。
- 例えば「有るものはすべて、有る」「或る事物が同時に有りかつ有らぬことは不可能である」といった、当然と思われる真理についても一致してない人がいる。これは、生得観念が存在しない根拠だ
- それが生得観念であれば、生まれたばかりの子どもや未開の民族に強く刻まれているはずである。しかし、そのようなものは普遍的な真理について認識していない
- 実践的な道徳の原理については、生得観念を認めるのがさらに怪しい。そのようなものを認めない人なんて多数いるではないか
私は理論的原理から始めて、およそあるものはあると同じ事物があってあらぬことはできないというあの堂々とした論証原理を例にとろう。これらの原理は、とりわけて生得の資格を最も許されると私は考える。しかも私は率直に言うが、これらの命題は普遍的に同意されるどころでなく、人類の多くの部分には知られさえしないのである。
なぜなら、第一、子どもや白痴は、明らかに、みんなこれらの原理をいささかも認知しないし、考えない。そして、認知されず考えられないことは、いっさいの生得原理に必ず伴わなければならない普遍的同意をまったくなくしてしまうものである。
ライプニッツの主張
ライプニッツは、『人間知性新論』でロックを否定し、生得観念(本有的な観念という言い方がされる)を肯定する立場を取る。そして、先にあげた個々の批判に対しての反駁を行う。
なぜ生得観念を肯定するかというと、そうしないと我々の生きる意味だとか、価値だとか、そういうものが否定されてしまいうるからである。例えば、経験論者の主張を認めるのなら、自分の個性だとかいったものが非常に曖昧になる。すべてが経験によるのなら、人間はどこで生まれてどういう経験をしたかで全ては決まることになる。ならば、俺の性質だとか個性とか、そういったものはただの経験の産物になるのか。俺が違うところで生まれても、俺が俺である証となるようなものはどこにもないということか。では、俺というのは一体何なんだ、となる。
数学などで見出されるような必然的真理は、経験によっては導くことができない。それは、「太陽が東から昇る」といった、それが未来否定され得るような事実的真理と異なるものである、というのがライプニッツが生得観念を信じる根拠らしい。
全体の論証方法
基本的に、
- 一般的に同意されているかどうかは本有的かどうかとは無関係である
- 本有的な観念は、心に傾向として刻まれている。そして、各自が思索することによってそれを見出すことができる
- 気付かれないこともあるが、我々はそれを頼りにして判断をしている
というもの。
個々の証明方法
これにより、基本的にライプニッツはすべての問題に答えている。
- 「有るものはすべて、有る」「或る事物が同時に有りかつ有らぬことは不可能である」といった真理について一致してない人もいるではないか→もちろんそのような人はいる。しかし本有的な観念は存在する
- 本有的観念が明確に刻まれているはずの子供に、それが認められないのはおかしくないか→本有的観念は、子供においてすぐに認められるようなものではない。しかし本有的観念は存在する
- 実践的な本有的観念はどうなるのか。盗賊などが道徳法則を持っているとは思えない→そいつらは本有的観念を持っているが、常にそれを意識しているわけではない
ライプニッツの回答は官僚答弁じみていると私は思う。
根拠
当然ここで疑問になるのは、その根拠はどこにあるのか、ということである。いや、本有的観念があるとお前が主張するのはわかるけど、その根拠を示してみろよ、と。
それに対しての回答は以下。
フィラレート「でももしそんな反論が正しいとしたら、それは普遍的同意に基づいた証明というものを無にしてしまいますよ。多くの人々の推論は次のようになってしまいます。即ち、良識を持った人々が容認する原理は本有的である、私たちと私たちの味方は良識を持った人々である、それ故私たちの原理は本有的である、と。馬鹿げた推論の仕方ですよねえ。無謬性へと直結してしまいます。」
テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を主要な論拠にはせず、確認のために用いています。――中略――それに、教養のある人々は野蛮人たちに比べて良識をより良く用いていると言われるだけの理由があるように私には思えます。なぜって、教養のある人々は野蛮人をまるで獣のように簡単に征服してしまうことによって十分にその優越性を示しているのです。必ずしもそれに成功し得ないとすれば、それは、また獣同様、彼らが深い森の中に逃げ込んでいて追いつめることができず、無駄骨を折ってしまう時です。」
つまり、「本有的観念の存在を主張する俺らは、その気になればそれ以外を叩き伏せることができるんだ。だから俺らは正しいんだ」と言っているわけである。
微小表象
我々の目には見えない微小な物質があり、それによって物理現象が説明されるのと同様、我々には普段気づかれない微小な表象というものがあるのではないか。そしてそれによって、諸々の精神に関する問題も解消できるのではないか。こういう発想から導入されたものらしい。具体的な問題に答えようとして案出した、というのではなさ気だ。
ただ、この概念の導入によって、ライプニッツが思ったように問題が解決できたのか、というとかなり怪しいと私は思う。