ヒューム『人性論』
経験論の哲学史的位置
認識論はデカルトから派生した
デカルトは、普遍懐疑や神の存在証明によって、心身が分離していること、精神が物体に影響を受けないことを証明した。
デカルトのこの理論を受けて、そもそもデカルトの言っていることが正しいのかを疑う人(スピノザ)や、デカルトの理論が不徹底であると考え、より突き詰めた考察をした人(ライプニッツ)が出たのだが、デカルトが言っていることを全面的に受け入れる層も登場する。彼らは、二元論を前提とし、その上で精神と物体がどのように関わり、認識が生じているのかを考察する。これが、認識論である。
認識論の二派
それは、生得観念を認めるか否かで二派に別れる。
- 経験論…生得観念を認める
- 観念論…生得観念を認めない
生得観念とは、我々が経験によらず、生まれつき持っている観念のことである。例えば正義であったり、真であったり、神であったりというのがそれだ。それらは我々が経験によって見ることのないものである。誰だって、正義そのもの、あるいは真そのものを見たりはしていないはずだ。だが、それでいてその観念を持っている。そしてそれは、多種多様な国家、民族において共通であるように思える。これはつまり、経験によらず、生まれるまえに魂に刻印された生得観念というものがある証拠だろう。このように考えるわけだ。
ただ、これは真面目に考えると容易に否定されてしまう。生得観念を認めるとして、それはどこで獲得することになるの?魂が生まれた時に刻印されるというのなら、天国の存在でも信じているの?だったらその魂ってのは一体何で、天国というのは何なの?それに、真だとか正義だとか神だとか言っても、一致しないことなんてよくあることだよね?といった議論で否定されてしまうわけである。このように常識的なものの見方をして、生得観念を否定したのが経験論者で、それでもあるんだ、と言おうとするのが観念論者である。
※経験論とは、よって唯物論とはあまり関係がない。心身二元論を前提とする故に精神の存在そのものは否定しないし、それが認識において何らかの作用をすることも認める。ただ、生得観念を認めないものが経験論と言われるだけなのである。
ヒュームの立ち位置
経験論の元祖がロックである。ロックは生得観念という想定がいかに馬鹿げたものであるかを示した後に、我々の持つ個々の観念が、いかにして形成されるかの考察をする。
ヒュームは、そのロックの議論を受け継いだ経験論者である。ただし、ヒュームは生得観念が云々の議論はしない。ロックの議論が正しいという前提のもと(つまり、デカルトとロックの議論が正しいという前提のもとでの議論をしているわけだ)、諸科学の基礎づけを行おうとする。
ヒュームの考えではこうだ。経験論は正しい。ならば、諸科学の正しさや普遍性についても、経験論の手法によって証明することができるだろう。自分はその仕事を行おう、と。
経験論的な議論
諸科学の必然性の議論の準備のため、認識の生じ方を考察する箇所である。基本的にロックをなぞっているだけなので、経験論ならこういうもののとらえかたをするんだな、と流し読みしてくれるとよい。
観念と印象
ヒュームは表象を
- 観念
- 印象
に分ける。観念というのは、我々が何かを思い出すときに持つ表象のことであり、印象とは今、存在するものから得る表象のことである。昨日食べた飯について思い出したりしていたならそれは観念である。目の前に人が歩いているとすれば、その瞬間にはそれらの印象を持っている、ということになるわけだ。
その両者を分析(といってもヒュームが頭の中で考えるだけなのだが)した結果として、
- 両者は活気があるかどうかで区分できる
- 印象が先で観念があとである
- 複雑観念の場合は、印象に対応していない観念が存在するが、単純観念の場合は必ず対応している
といったことをヒュームは発見する。
また、観念同士をつなぎ合わせる引力のようなものとして、「類似、近接、原因と結果」があるということを発見する。
複雑観念
ついで、複雑観念について考察する。複雑観念とは、単純観念によって形成されるものである。例えばりんごというのは複雑観念である。我々は、「りんごそのもの」の観念を受け取るわけではない。我々が受け取るのは、赤さ、匂い、味、その他のそれ以上は分離できない単純観念のみであり、それらを結合することによって、「りんご」という複雑観念を持っている、と考えるわけだ。
その複雑観念は
- 関係
- 様相
- 実体
の3つに分けることができる。
関係というのは、あるものを単体で見て得られるようなものではない。複数の観念を見たあと、それをつなぎ合わせることで、その関係という複雑観念を得るわけだ。
様相の例として、ヒュームはダンスという複雑観念をあげている。それも複数のものがあって初めて成り立つものである。
実体というのは、そこらの個物のことである。例えばAという友人がいるとして、我々は単純観念として、その友人の観念を直接得るわけではない。そいつを見て、そこから得る個々の単純観念を合成して、はじめてそのAという実体の複雑観念を得るわけである。
原因と結果の議論
このうち、関係の複雑観念は、以下の7つに分類できる。
- 類似
- 量あるいは数
- 質の度合い
- 反対
- 同一
- 時間と空間
- 原因と結果
ヒュームは、この内の
- 原因と結果
について考察する。ヒューム本来の、諸科学の位置づけという問題意識からすると、重要なのはこれだけだからだ。
そうすると、単なる観念に依存しない三つの関係のうち、感覚機能を超えてたどることができ、見もせず感じもしない存在や事象について知らせる唯一の関係が因果性であることは確かである
そして、それについての分析を行うのだが、結果として、「因果関係というのはただの習慣の産物でしかない」「諸科学は厳密な基礎を持っているわけではない」という、当初の意図を裏切るどころか、まるでそれが不可能であることが証明されてしまう。
一応そこに至る道筋を追ってみよう(いろいろ試行錯誤して失敗しているだけなので、興味がなければ飛ばしてもいい)。
考察その1 因果関係の特徴の分析
それは以下の特徴がある。
- 近接という特質がある
- 時間的に先行しているという特質がある
だがこれだけでは不十分であり、これプラス「必然的結合」が認められなければならないよね、ということを確認する。
考察その2 因果関係という語が意味するところを分けて分析
次に、「必然的結合」が意味するところを2つに分割し、それぞれについて考察してみればいいのではないか、と思い付き、それを試す。
それは以下の2つに分離できる。
- すべてのものが必然的に原因を持つと思うのは何が理由か
- 原因が必然的に結果を生むと判断するのは何が理由か
1について。これは、その反対が考えられる。だからそこに理由はないということになる。
2について。これも同様の仕方で、そこに理由はないということを導く。
こうして、この試みは失敗する。
考察その3 因果関係は結局何に根拠を持つか
ついで、因果関係というものは、何に根拠を持つことになるかということを考察する。
そして、例えば「シーザーが元老院で殺された」ということを信じるのはなぜか、と考え、それが最終的には実際の感覚、経験に依存している、ということを示す。
- 推理の基礎は経験である。ここから観念が生まれる
- その観念を生むのは理性ではない
オチ 因果関係とは何かまとめ
因果関係をを生むのは何か?それは活気である。それを受け取った時の勢いから、それを必然的結合と思う。
活気(信念とも言い換えてる)を持つ印象と類似の印象を持つと、その活気が移る。例えば似顔絵を見て本人を想起するように。つまり、原因は現在の印象ということになる。
そして、活気のあるAを見てついでBを見る、ということを続けると、活気すなわち信念が生じる。これを習慣と呼ぶ。
これが因果律の根拠。それはただの感覚に依拠するものでしかない。太陽が東からのぼって西に沈むのを見て、それを普遍的法則だと思い込むように、何度も同じ経験を繰り返すことで形成した、脆弱な基礎を持つものでしかない。このように結論するわけである。
懐疑論へ陥る
ヒュームは、科学を基礎づけようという問題意識から考察を進めたが、結果として、それに成功するどころか、科学が何ら厳密な基礎づけを持っていないということを証明するに至った。
さらにヒュームは、ここから一歩進んで懐疑論に陥ってしまう。そして、自分がなぜ、先の考察から懐疑論に至ったのかの道筋を淡々と語るということをする。
懐疑論の定式化
自分があるものを真とするのは、ただの習慣にすぎない。
そしてその考察は、
- あるものが正しいとして、それが本当に正しいのか
- それを正しいとしている基準は確かなものなのか
と無限に進み、段々とそれを信じる度合いが減少していってしまう。こうして懐疑論に陥る。
懐疑論の個々の段階
対象の実在性について
感覚、想像、理性と分けて考察。
- 対象の実在性を示すのは、感覚器官ではない。それはただ、印象を示すだけだからだ。
- 理性でも示すことはできない。
- それは想像による。それが、実際には自身に示されないものなのに実在すると思うのは、他の機会に経験した恒常性(ずっと存在しているということ)や整合性(いきなり目の前に矛盾するものが出現したりはしない)の考察を、経験していない範囲にまで広げるからである。
理論では、対象の存在について知らせるものはない。だが、自然的傾向によってそれがあると思わされているだけである。
対象の同一性について
中断し、変化しても同一というのは理屈では整理できない。ただ、自然的傾向によって、そう信じさせるものが存在する。そしてそれに屈して、魂だとか自己だとか実体だとかを想定する。
その仕方は以下。
- 気づかれぬくらいの小さな変化が捉えられず、それによっても同一だと判断するから。
- あるいは、共通目的というものを想定し、それによって対象の同一性を把握するから。
人格の同一性について
人格というものを経験することはできない。それは、言ってみれば知覚の束である。
人間の同一性も上の対象の同一性と同じくただの虚構。
そのように思うのは記憶の効果による。それにより、個々の知覚同士が類似したものだと知られ、そしてそれによって自身の行動や思考に因果性が見いだされるからだ。
ヒュームの結論
必然性というのはただの習慣である。
また、対象の実在や同一性というのもただ、自然的傾向として知られるだけであり、理性によって確定できるものではない。
ここから、それらに依拠している既存の学問というのは極めて不安定な立場しか無いということになる。
したがって、残された選択肢は、偽りの理性か、まったく理性がないか、それ以外になにもないのである。
その他
空間論と時間論
経験論的な証明をしている。「空間や時間の無限性とか存在とか、そういうのは経験から来てるのではないのではないか。生得観念ではないか」という主張に対して、それらが経験(単純観念)から生じる様を考察することで反駁するというやつだ。
空間については次のように証明する。
- 観念と対象とは一致している
- 観念において無限分割は不可能である
- 従って対象においても無限分割は不可能である
時間についても同様。それは個々の観念の生起から生じたものである。
ついで、存在についても、個々から抽象された観念だということを言っている。
こうして、観念あるいは印象と種類の違うものは形成し得ないという結論を出し、経験論の正当性を示している。
デカルトの宇宙論的証明の批判(第三部14節)
神の観念は印象に起因するものであり、デカルトが認めたような力を認めることはできない、とする。
ヒューム後
カントがヒュームを批判。ヒュームを経験論者の代表として批判し、それによって生得観念が存在するという立場を擁護するという流れ。こうすることによって、ロックが提示してたような批判に答えずに済む。
哲学史的な立ち位置としては本来的には大した業績はないが、カントによって有名になっただけの人という感じか。