バークリー『人知原理論』
基本情報
- ジョージ・バークリー(George Berkeley、1685年3月12日 - 1753年1月14日)
- アイルランドの哲学者、聖職者
- 「存在することは知覚されることである」(羅: Esse est percipi、英: To be is to be perceived )という基本原則を提唱したとされている
- イギリス経験論の一人とされている(ロック→バークリー→ヒューム)
- 『人知原理論』(A treatise concerning the principles of human knowledge)は1710年発表
人知原理論の構成
- 序
- 1-5 執筆の目的
- 6-25 抽象概念の分析
- 第一部
- 1-24 本論
- 25-33 神が観念の原因だという話
- 34-85 想定される個々の反論への反論
- 86-96 懐疑論や無神論の批判
- 97-100 抽象概念の批判
- 101-133 ニュートンの批判
- 134-156 精神や神についての話
バークリーの目的
懐疑論や無神論を否定したい、というのがバークリーの目的。それを、物体の実在性を否定することで実現しようとする。
懐疑論が生じるのは、物体の存在を前提としているからだ。その時、それが我々の持つ観念と本当に一致しているのか、という認識論的な問題が生じる。そして、その一致を示すことは不可能だから、それは結局懐疑論に行き着く。このようにバークリーは分析する。
ならば、物体という想定それ自体を否定すれば、そのような問題自体が生じなくなるのではないか。そして、懐疑論も否定されるのではないか。このように考えるわけだ。
なぜなら、真実の事物は心の外に存立し、それについての知識は、真実の事物と合致するかぎりにおいてのみ真実である、かように人々が考えるかぎり、人々は、かりそめにも真実の知識を有すると確信できない道理になるからである。けだし、知覚される事物が、知覚されない・換言すれば心の外に存在する・事物に合致するとは、いかにして知ることができるか、できるはずがないのである。(86)
一方、無神論であるが、これは物質の想定に基礎を持っている。あるのは物体のみであり、何が起こるかは物体によって決まっている。そのような決定論的な世界観であれば、神を想定する必要もなくなるだろう。そうして無神論に陥るだろう。このように分析する。だから、物質の存在を否定すれば、やはり無神論も否定されることになるわけだ。
およそ物質的実体があらゆる時代の無神論者にとっていかに親しい友であったか、これを語るには及ばないであろう。無神論者の奇怪な体型はすべて眼に見えてかつ必然的に物資的実体に依存している。それゆえ、この隅石にしてひとたび除去されれば、建物全体は崩壊せざるをえないのである。(92)
存在することは知覚されることである
物質は存在しない、というのがバークリーの主張。
我々が認識するのは個々の観念のみであり、物体それ自体を認識することが決して無いから、というのがその根拠。
およそ天の群れと地の備えとの一切は、一言でいえば世界の巨大な仕組みを構成するすべての物体は、心の外に少しも存立しなく、物体の在ることは知覚されること、すなわち知られること、であり、従って、物体が私によって現実に知覚されないとき、換言すれば私の心に存在しないとき、或いはまた、他のなんらかの被造的な精神の心に存在しないとき、それら物体は全く存在しないか、もしくは在る永遠な精神の心のうちに存立するか、そのいずれかでなければならないのである。(6)
基本的に、バークリーの根拠は、「観念以外の形で物体とか認識できないだろ?」「外的に存在する物体だとかいったって、それも観念だろ?」ということをひたすら繰り返すだけである。これ以外に何かを提示したり、ということはない。バークリーが想定した個々の反論に答えたり、ニュートンの批判をしたりしているが、理屈は全て同じである。この主張に出くわしたら、後は同じことを言ってるだけだから、うんざりしたらそこで本を閉じても特に問題はない。バークリー自体、俺は同じことしか言ってないんだが、みたいなことを本文中で言ってるくらいだ。
一たい、私は外的実体というこの主題を扱うに当って不必要に冗漫だと考えられる理由を与えてしまわなかったか。この点を恐れる。なぜなら、少しでも内省できる者に向かってなら一二行でこの上なく明証的に論証できることを、なんの目的のためにくどく述べるのか。一二行で論証できること、それはただ、物質の存在を主張する諸君が自分自身の思想を覗き込んで、音や形状や運動や色彩が心のうちに、すなわち知覚されずに、存在すると想うことができるかどうか、試して見るだけのことなのである。(22)
神
このあと、現実の知覚についてはどう説明するのか、という話に移る。例えば我々が太陽を見ているとして、その観念は自分自身の意志によって否定するようなことができない。これらは外的物体の実在を示すものではないか、それはどのように説明できるのか、といった問いだ。
しかしながら、私がどれほど自分自身の思惟については力量をもっているにせよ、私は見出すが、感官によって現実に知覚される概念は、私の意志に同じように依存してはいない。真昼に眼を開けば、見るか見ないかの選択や視界に現れる特定対象の決定は、私の力能のうちにない。聴覚その他の感官についても同様で、これらの感官に印銘される観念は私の意志の創造物でない。(29)
バークリーは、それは神によって刻印されたものだ、というように説明する。
一たい、感官の観念は想像の観念より強く、生気に富み、判明である。同様に、前者は定常性と秩序と整合性とを有し、人間の意志の結果である観念がしばしば乱雑に喚起されるようには乱雑に喚起されなく、規則正しい系列ないし序列において喚起される。こうした系列ないし序列の賛嘆すべき結合は、その造り主の智慧と仁愛を十分に誇示するものである。(30)
提起者の個人的な感想
普通、外的物体の実在性の話をするときには、現実に知覚する観念が問題になる。我々が認識するのは観念のみか否かが問題になることなどない。だから、バークリーの論証は的外れなように思える。
また、現実の知覚の話になったとき、それが神から来ているのだという主張をいきなりしているが、雑ではないか。例えばデカルトは、精神と物体ががどう異なっていて、物体が精神の原因になることなど絶対にない、という論述をしてから、それが神に起因するのだ、と主張する。
あと、イギリス経験論の系譜によく含まれるが、あまり適切ではないように思われる。ロックやヒュームのように、生得観念について問題にしているわけでもなく、人間の認識過程の分析に重点を置いているわけでもないからだ。当時問題になっていたこと(懐疑論と無神論)を解決するために、一見突飛な主張をした哲学者、という程度の哲学史的位置づけが妥当ではないだろうか。
例会参加者の感想
- K:読んで「そうやな」とは思わない。聖職者ならついていけるのかもしれないが、現在の我々からしたら同意する気にはなれない。
- S:「物体自体を見たことはないだろう」というのは、たしかにそうかもしれないが、そこからさらに物質的世界の否定まではいけないのではないか。結論ありきの議論
- T:物体が実在しないという証明にはなっていない。神ありきの議論