ガザーリー『誤りから救うもの』

概要

  • 1058年 - 1111年12月18日
  • ペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者

『誤りから救うもの』はガザーリーの自伝。ガザーリーは、哲学を極めたのちに、スーフィズムに行った人。理論が非常に明晰で文章もわかりやすい。またアリストテレスやプラトンに相当通じていることがわかる。デカルトやヒュームを先取りしたような理論も主張している。

確実な知識の探求から懐疑論へ

幼少期より、ガザーリーには事物の本質を知りたいという欲求があった。そして、宗教その他について深く知ろうとするのだが、そのたびに幻滅する。ユダヤ教を教わったらそれを信じ、キリスト教を教わったらキリスト教になるというように、ただ小さい頃に何を教わったかで決まってるだけじゃないかと。
やがて、ガザーリーは確実な知識の探求を始める。「一点の疑念も残らず、誤謬や妄念の可能性もなく、それらを想定する余地すら残さないような形で、知の対象を明らかにする知だということである。」

確実な知識である可能性のあるものは、

  • 感覚的知識
  • 必然的知識

の2つである。
まず感覚的知識だが、それを否定する。デカルトのようなやり方で退ける(ガザーリーの方が先なのだが)。

こう自問した。「感覚的知識への信頼はどこからくるのか」と。感覚のうち最も強力なものは視覚であるが、それはものの影をみて、動かず静止していると考え、それが動いていることを否定する。ところが、一時間後の経験と観察によって、それは動いていること、だが急激にではなく、少しずつ徐々に動いているのであって、けっして一瞬たりとも静止することはない、と知る。
次に、星を眺めて、それをディーナール金貨の大きさ位に小さいものと考える。ところが、天文学的説明によれば、それは地球よりも大きいことがわかる。これらの感覚の対象については、感覚という判定者がその判断を下す。ところが、理性という判定者がそれを詐りとし、しかも反論の余地のないほどその信頼性を否定する。

ついで必然的な知識についてだが、それも否定する。感覚的知識を否定したのは、理性的な認識を持つようになってからだ。ならば、理性より上位のものがあることを否定出来ないのではないか。ならばそれも確実とは言えないのではないか、というように。やはりデカルトに似ている。

そこで私はこう言うだろう。「感覚的対象への信頼はいまや不可能となった。となれば、信頼できるのはア・プリオリな知識からなる理性的知識だけとなるかもしれない。例えば、10は3より大きい。否定と肯定は同一のものについては結合できない、といったことである。同一のものが生成するものであり、かつ永遠なものではあり得ない。また存在者であり、かつ非存在者ではあり得ないし、必然的であり、かつ同時に不可能的ではあり得ない」と。
すると感覚的知識は言うだろう。「理性的知識に対する君の信頼は、感覚的知識に対する以前の君の信頼とは違う。とどうして安んじていられるのか。君は以前、私を信頼していたが、理性という判定者がやってきて、私を偽りとした。もし理性という判定者がいなければ、君は依然として私を真実としていたであろう。理性的認識の背後におそらく別の判定者がいるかもしれない。それが現れれば、以前に理性という判定者が現れて感覚の判断を誤りとしたように、理性の判断を誤りとするだろう。そのような認識がまだ現れていないということは、それがあり得ないということの証明にはならない。」と。

感覚は夢のことをもち出して、その問題をさらに追及してこう言った。「君は夢の中でさまざまなことを信じ、さまざまな状態を想像することがあるだろう。そして君は、それらが確実で普遍のものと信じ、そのような常態の中でそれらを疑うことすらしない。ところが目が覚めて、君の想像していたことや信じていたことが、すべて根拠のない、効力もないものであったことを知る。では、君が覚めているときに、感覚や理性によって信じていることのすべてが、状態においては真実であるが、しかし君が別の状態に移行し、それと君の覚醒状態の関係が君の覚醒と夢の関係と同じであり、それとの関係では君の覚醒が夢にすぎない、ということがあり得ないとどうして安んじていられるのか。君がそのような状態に達すると、君が理性によって考えていたことのすべてが、何の実体もない妄想であったことを確信することになる。たぶんそのような状態こそ、スーフィーたちがそうだと主張しているものかもしれない。なぜなら、自己に沈滞し、その諸感覚から離れたときに経験する状態の中で、彼らはこれら理性的知識とは調和しない諸状態を体験するからである。あるいは、おそらくその状態こそ死であろう。なぜなら、神の使徒は、『人々は眠っているのであり、死んでからはじめて目覚めるのである』と言っておられるからである。現世は来世との関係では夢なのであろう。人は死ぬと今見ていることとは異なる事物を目にする。その時、人はこう告げられる。『われらは汝から目の被いを取り去った。今日こそ汝の目は曇りなく見通すことであろう』と。

こうしてガザーリーは懐疑論に陥ったが、その後、事物の真実性は神によって保証されているのだ、という認識に達し、やっと懐疑論から解放される。

真理の探求者4グループ

その後ガザーリーは、真理の探求者を以下の4つに分け、それぞれについて学ぶことで確実な知識を得ようと努める。

  • 神学者
  • 哲学者
  • シーア派
  • スーフィー

ガザーリーは、どのような学問であってもそれを究めない限り何もわからないという立場で、どれも相当のレベルまで究めている。

神学者

まず神学者だが、それの主目的は、異端との理論闘争を行うことであり、ガザーリーの求めるようなものはない、とする。

哲学

哲学はいくつかのグループに分かれていて、広範な範囲の内容を扱うものである。そのうちには信仰と矛盾するものもあれば、しないものもあり、有益なものも含まれている。だから、それについて詳しく踏み入った上で利用すべきという立場。悪いのは、哲学者が言っていることだからという理由だけで盲目的に信じたり、あるいは盲目的に否定したりすることだ、というのが結論。

ガザーリーは、神学の仕事の傍ら独学で学び、2年間でマスターしたらしい。アリストテレスの解釈本なども書いたりしている。すごい。

二年足らずで、哲学者たちの諸学に精通することができた。次に私は、約一年の間、哲学を理解した後、それについての思索をたゆみなく続け、さまざまな面からそれを考察し、その危険と陥穽を精査し、ついにはそれがもつ虚偽と欺瞞、真実と虚構について、一点の疑念もないほどに理解した。

シーア派

シーア派の理論に踏み入った上での批判をしている。割愛。

スーフィズム

最終的にガザーリーはスーフィズムに至る。
シリア、ダマスクス、エルサレム、ヒジャーズといった聖地で、モスクにこもって瞑想にふける生活を十年ほどしたらしい。そしてその結果、これこそが真実だという確信に至る。

その理論は次のようなもの。感覚で真だと思っていたことが理性によって否定されたように、理性の上位には啓示という段階がある。それに到達したのが預言者やスーフィーである。
だから、礼拝の作法のように理性的には意味がわからないものであっても、従うべきであると主張する。

提起者の感想

真理を探求する姿勢がすばらしい。それを極めずに表面だけ見て批判するのは浅はかだ、それを極めてから批判すべきだというのは正しい態度だと思う。そこからスーフィズムに至ったというのも面白い。
叙述は非常に明晰でわかりやすい。今まで中世のイスラーム哲学に通じてなかったが、他にも探せば相当おもしろい人がいるのではないかと思っている。

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