スピノザ『エチカ』第一部
読んだ箇所:『エチカ』第一部定義~定理11まで
議論の方法論
- スピノザが用いるのは総合的方法。議論する相手を限定した上で、相手の言葉と相手の認めている原理のみを用い、同意を奪取する方法。
- 対象者はデカルト、あるいはデカルト主義者。『省察』や『哲学原理』を下敷きにしている。
- 実体、属性、様態といった定義は、デカルトが認めているもの。神の存在証明も同様。これらを議論の共通前提として用いる。
- デカルトの成果を下敷きにした上での議論であり、「公理を認めればその後の定理は絶対に導かれる」ものではない。特定の相手ありきの議論であり、想定外の人間、例えば、実体、属性という用語を理解していなかったり、神の存在証明に躓くようなやつらはアウトオブ眼中。だからまず、デカルトの理論について知る必要がある。
デカルトについて
コギト
懐疑論者を対象に、総合的方法を使う。
- 感覚的事物→時として誤る
- 身体的感覚→夢
- 数学的真理→欺く神
自身が懐疑を実際に行うことで、懐疑とは「それと反対の事例をあげること」であることを示し、それが根底的な原理ではないことを証明する。そうして、
- 明晰判明の規則
- 我の実体性
を導く。
神の存在証明
デカルトはコギトのあと、自己の不完全の意識から、神の存在を証明する。そこで神と呼んでいるのは、自己を取り巻き、自己の原因であり、実体性を持つもの。
普通はそれを、自然全体だとか宇宙だとかいう仕方で表現するのだが、いろいろな理由でそれをデカルトは神と呼んでいる。そしてそれが、精神的実体と物体的実体を作り出したのだ、という主張をする。
定義と公理
実体と様態
普遍的懐疑を経ることで、実体と様態、という2つの区別を持つことになる。普段意識しているのが様態で、それらを全体として捉えたのが実体。
属性
精神と物体を認識するときのプロセスを詳しく見ると、出て来る概念。
我々の意識に現れるものは、2つに分類することができる。一つが、思惟属性によって整理できるもの。思考し、意志し、判断し…など。もう一つが物体属性。形を持ち、長さを持ち…といったように、延長の中に存在するものとして整理されるもの。前者は「思惟作用の一部」という性質を持っていて、後者は「延長の中にあるもの」という性質を持っている。これらの性質を属性と呼ぶ。
そして、それぞれの属性は、別々の実体に帰すと考えられる。前者は人間精神に、後者は自然全体に。
自由
自由が実際に意味するのは、自己の能動性を意識している状態であり、それは必然性と両立する、という主張。
自分にとって利益になると判断した行為を能動的に行っている場合、それが必然的か否かを気にしたり、その行為をしない自由を求めたりはしない。必然性は、自由と矛盾しないのだ。
だが、「自身が全く受動的な存在」で「他者から与えられる選択肢がどれもマイナス」だと思いこんでいる時、選択の自由という、程度の低い自由を求める。そして、「俺はそれを受け入れることも受け入れないこともできる」と頭の中で考え、それを気晴らしにする。そしてそれを、自由の本質だと勘違いする、というだけのこと。
永遠
永遠と時間は関係ないという主張。宇宙が誕生した時からそれが消滅する時点までいちいち観察するなり考えるなりして「これは永遠だ」と主張することは普通ない。必然的なもの、それを否定するような事態を想定できないものを見て、それを永遠と呼んでいるはずだ
定理
スピノザの戦略
デカルトは、神が存在することを証明した後、そこに様々な性質を付与した。産出、複数の実体が併存…というように。そうして、精神的実体と物体的実体が併存し、それらが上位の存在である神によって生じてコントロールされている。自由意志は存在するし決定論など嘘だ、という理論を作り出した。
ならば、神の存在を認めた段階で議論を止めて、あとの過程を否定したらどうなるか。すべてのものは、人間精神を含め神の内に含まれ、その唯一の原理に従う、ということになる。これは、神という語を使ってはいても、唯物論と同じ意味になる。
構成
最初の方の定理は、デカルトが認めている区分を確認しているだけ。ここから、実体は
- 産出しない(定理6)
- 分割しない(定理12)
- 複数存在しない(定理14)
ということを導く。その後、神について考察したとき、ここで一致したことを突きつける。
その他
スピノザがこれらの考察をした理由
- 自由意志の存在を認めるか、認めないかで、倫理学が大きく異なってくるから。認めたら、不一致点のある他者への対応は非常に難しくなる。あるかないかわからない良心にすがるだとか、世の中を嘆くだとかくらいしかやりようがなくなる。だが、認めないのであれば、人間には把握可能な行動原理が存在することになり、対処法も存在することになる。
- スピノザの理論からは「自己と同じ思考、知識を持ったものが多数いたほうがよい」という結論が出て来る。そこで、自分の理論に近いデカルト主義者を、まず説得しようとしたのではないか。
本性は抽象概念
ある人に初めて会ったとして、あとでその人のことを思い出すときには、会ったときの状況をそのまま思い出すことになる。服装、髪型、会ったときの自身の身体状態その他諸々。
その人間に何度も会い、それが記憶に蓄積されると、その人について思い出すときには、過去に会ったときの状況をすべて同時にイメージすることになる。その時、それら個々のイメージの共通点ははっきり、それ以外はぼやけてイメージされる。髪型、服装云々といった、その時々で違うものは曖昧に、その人間がどのような反応をするかといった点は明確に。この、明確にイメージされるものは、環境、自身の身体状態その他と無関係で、そのものがいつもそうであるもの、つまりそのものの本質だ、ということになる。
思考と物体の同一性
同じものの別側面という主張になる。
我々が実際に持っているものは何かというと、個々のイメージ(表象)。現実の表象と、過去に経験した表象が交互に意識にのぼり、それを見ているだけ。で、その表象は、人間身体と外的物体とが接触することで生じるもの。太陽であれば、太陽が実際にどういうものかと、人間身体がどういう性質にあるかによって決まる。
この表象は、現実に生じることと、どのような記憶を形成し、どのような表象同士の結びつきをしているかによって決まる。
このうち、「現実の影響が大きいもの」を物体と呼び、「記憶の影響が大きいもの」を精神と呼んでいる。このように整理される。