スピノザ『エチカ』第三部
能動と受動
世界において全ては必然的に生じる。ある個物の行為の原因が、その個物であるとは、絶対的な意味では言えない。だが、相対的になら言えるのではないか。ある個物の行為が、その個物の持つ「自己の有を維持しよう」という本性のみによってなされた場合。すなわち、他の個物の影響によってなされたものではない場合。その行為の原因を、その個物に帰すことができるのではないか。
これは人間の場合、自身の持つ表象について、妥当な観念を持つか否かと同義になる。現在、自身を取り巻いているものの観念、あるいはしばしば想起される過去の観念が妥当であるならば、その観念に従い生じる行為は、自身にとって適切なものとなるだろう。しかしそれが非妥当ならば、その行為は不適当なものになる。他のものがどう現れ、どう接してくるかが原因になるからである。
以上のことは、スピノザの言葉では「神が認識する限りにおいてではなく云々」となる。
この定義の意義
第四部でなされる倫理学的な考察のために、以上の整理が必要になる。決定論においては、絶対的な意味での自由はありえない。「人間は自由かどうか」という問いは意味をなさなくなるわけだ。
そこでその代わりに、「能動と受動」がクローズアップされる。妥当な観念を持ち、自己の行為が自己の利益を実現していることを意識している状態は、望みうる最高のものだろう。反対に、非妥当な観念を持ち、周囲のものが現れるまにまに、自己の行為が左右され、その行為が自分の利益につながるのかの確信もないまま、動揺を感じ続ける状態というのは、避けるべきものだろう。
衝動
人間の持つ様々な欲求の根底にあるのは、「自己の有を維持しようという衝動」である。これがすべての人間が共通に有する、すべての行為の源泉となるものである。
こう言い切れるのは、決定論の帰結から、これ以外の可能性が消えるからである。すべてが必然であり、万物はその原因を持つ。あるものがどう動こうと、それには原因があり、それにもまた原因があるだろう。そしてそれは永遠につづく。そこにあるのはただの物体だけであり、その法則に従わないものは存在しない。例えば人間をどこまで腑分けしていったとしても、あるのは物体のみである。それは全自然の秩序に従い、動くものであって、それを個体として他から区別するものが見つかることはない。それが同一の個体であっても、それを構成する要素は変化し続けるだろう。精神の実体性を否定したことで、絶対的な基準が無くなるのだ。では、最終的に残るのは何か。それは、「一定のまとまりを持ち、一定の行動をするように見えるものがある」ということだけである。それは、もちろん自然全体の秩序に従うものだということは変わらない。しかし、とにかくそのようなものがある。そして、それを我々は個体として認識しているわけだ。
七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物とみなす。(第二部公理)
この事実を別の視点で見ると、「個物は自己の有を維持しようという本性を持つ」ということになる。世界には様々な個体がある。そこで自己の有を維持できるかどうかは、他との関係性で決まる。そのなかにおいて、自己を保持しようという本性を持ち、他に対して何らかの行動をしているものが、結果として自己の有を維持しているわけである。逆に、もしもそれがこのような本性を持っていないならば、それは一つのまとまりを持つこともなく、自然の秩序によって雲散霧消しているだろう。それが一個の個体として、我々の前に現れているということが既に、それが自己の有を維持しようとする本性を持つ、ということの証明になるのである。
活動能力の増減
人は独力では生きることができず、必ず他のものを必要とする。そして、自己の維持と直接的に結びつくものとして、個々のものを意識する。食べ物等の生活に必要な物資、自分が所属している組織、依拠している他者、などの、それがなければ自己の維持がそもそも成り立たないものだ。そして、それが維持されることを、自己の維持と同様に欲求する。これは、我々が社会関係の中において生存しているということから、必ず生じることである。
このような対象の行動原理について十分に知っていない場合(非妥当な観念を持つ場合と呼ばれる)がある。それが例えば友人であるとして、そいつが常にどのような行動を取るかはわからないわけだ。このとき、その友人について何らかの想起をするなり、伝聞を聞くなり、日頃目にしない行動を見かけたりしたなら、それだけで心が動揺をする。例えば、その対象が自分から離れていくような仕草を見れば悲しくなるだろう。その対象が死ぬことを想像すればそれだけで悲しくなるだろう。逆に、その対象が自分とより緊密に結びつく姿を想像すれば喜ぶだろうし、自分に好意的な姿を見れば嬉しくなるだろう。
これは、その対象の存在が自己の維持と結びついているゆえ、その対象の動向によって、自己の完全性についての意識が変化するからである。自分の依拠している対象が自分から離れる事態は、自己の完全性が失われる事態(活動能力が減少している状態と呼ばれる)を意味する。それだけ、自己の維持が危ういものになるという実感を持つ。逆に、自己が依拠しているものがより自分と緊密になるか、あるいはその対象が力を持つ姿を想像するならば、それだけ自己の完全性が強化される事態(活動能力が増大している状態と呼ばれる)を意識する。
つまり、
- 自己の維持が関係している対象について
- 非妥当な観念しか持っていない場合
- その対象に関する表象によって自己の完全性の意識が動揺する
ということである。
感情の基礎
- 衝動
- 活動能力の増大
- 活動能力の減少
の3つが感情の基礎である。感情の根底にあるのは、人間が人間である限り持つ、自己を維持しようという本能である。これから個々の感情について見ていくことになるが、たとえそれがどれだけ利他的で、抽象的で、自己の利害から離れたものに見えても、すべての感情はここに繋がっているのである。
例会後の感想
- 自分が頭のなかで考えていたことを、形にしてくれたような気分
- 感情の説明が、保健体育でやるような発達心理学に似てるとおもった。新しいとおもったのは、それが人間との関係性の中で語られること。前半部分についてだが、有の保存ですべてを説明していいのか、というのが疑問。本能のレベルで有を維持しない場合があるのでは。ここでは、生きるという衝動を持つ個物という枠組みにすべてを入れ、そこに入り切らないものは、「非妥当」という領域に押し込めているのでは
- この理論で、現象を捉えられていない面もあるのではないか?利他的なものもあるように思う。
- 感情の説明としてはうまくいっている。疑問点だが、例えば芸術家の行為というのは、この衝動からは説明できないのではないか
- 衝動の概念が面白かった。シュティルナーは移ろいゆく自我という議論をしている。
- 読んでて、感情、自由についてシンプルにうまく説明されているなとおもった。ただ、あまりにもうまくいきすぎてるようにも思う。感情をこんなに簡単に説明していいのか。
- 個物の固有性から出発して、人間の感情を説明する点についてはしっくりした。この議論が個体の保有にもとづいており、妥当と非妥当、役に立つものとたたないものを絶対的に規定しているのが気になる。その時々の反応が適切か否かは、絶対的には決めれないのでは
- 3つの基本的な感情から他の感情を説明しているのは面白い。確かにこの説明は一面を言い当てているが、心に響いてこない。