シェリング『人間的自由の本質』

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775年1月27日 - 1854年8月20日)

シェリングの哲学史的位置

  • カントの意図を受け継いだ人。カントの本質を自由の追求だと考え、それを実現しようとする
  • それを実現するには、すべての事物を、自由の原理から体系的に説明することが必要だと考える
  • カントの意図の把握と、その脆弱性の認識、それを体系によって乗り越えようとしたという点で、フィヒテと同類。ただ、それをスピノザの理論を元に行おうとしたのが特徴。

というわけで、シェリングを理解するにはカントについてある程度まで理解する必要がある。カントを概観した後に、シェリング『人間的自由の本質』を読む。

カント

重要なのは三点

  1. カントは以下の3つで、読者の心を打った哲学者。
  2. 総合的判断と分析的判断の区別
  3. 空間論、時間論
  4. アンチノミー

1→「○○は△△である」という文は、分析的な意味とにも総合的な意味の両方を含んでいる。だが、それが今までごっちゃにされ、見過ごされてきた、と主張することで既存の哲学者を一緒くたに批判する。
2→カントの積極的な主張。以下で解説。
3→同ページの上下(ドイツ語なら左右)で正反対のことを証明する、叙述形式のユニークさで、見るものにインパクトを与える

空間論と時間論が核心

客観的に存在すると一般に思われているものは、実は人間精神の介入があって初めて成り立つものではないか、という主張。
我々が予め、空間あるいは時間がどのようなものかを知っていなければ、その中において生じる個々のものについても認識できない。だからそれらは認識の形式であり、客観的には存在しないものである。
ここから

  • それまで客観的に存在すると思っていたもの→精神と感性の産物
  • 実際に客観的に存在するもの→物自体で認識不可能

と位置づけ直す。

カントは自由を擁護したかった

では、カントがこれで何をしたかったのかというと、自由を擁護したかったのである。
空間も時間も、客観的に存在するものではない。自分の理性が与えたものだ。このように考えると、自分を縛っているように見える因果律も、自然法則も、絶対的で抗えないものではないように見えてくるのだ。「それが必然的に見えても、どうせ俺の精神がそう見ているからそうじゃないか」
このようにして、自然に存在する必然性を否定し、そこに自由意志の余地を求めるのである。

カントの限界とドイツ観念論者による克服

だがカントは、自然における事物がすべて自己の意志に従属する、ということまでは言えなかった。そうすれば荒唐無稽なものになることがわかっていたからである。
そこで、自然に必然的規則を与える力が、精神の内の「理性」に由来するものだ、とする。そして普通我々が感じるする自己、判断し意志し、といったものを「悟性」と呼び、そこから分離する。こうすれば、すべての事物が、すべての自然法則が、自分の恣意に依拠する、ということを防ぐことができる。そこにおける必然性をすべてひっくり返すという無茶を避けることが可能になるわけだ。
そうやって大人の態度でお茶を濁したあと、理性と悟性がどうやって関連するのかといった話をグチャグチャし続ける、というのが純粋理性批判なのである。

だが、それに満足しなかった一派がいた。「それって別に自由意志を擁護したりしてないじゃないか」「事物の必然性を与えるものが、自然法則から理性に変わったというだけじゃないか。前と同じで決定論と同じじゃないか。必然性を与える部署が自然から理性に変わって行政区域が変わっただけだろ」

先の三点に圧倒され、カントスゴイと毎日唱えるカント信者になるようなやつならともかく、真面目にカントを読み、カントをまともに把握できる哲学者なら、こういう発想になるのである。そしてそれが、フィヒテ、シェリングといった、ドイツ観念論者であるわけだ。

『人間的自由の本質』序論

では、『人間的自由の本質』の内容に立ち入っていこう。
シェリングは、哲学の目的を「自由の体系を作ること」にあるとする。

ただ自由を味わった人だけが、すべてを自由に類似したものにしようという欲求、自由を全宇宙にまで拡大しようという欲求を感じる。

この意図を持った哲学はカントによって始められたが、それは不十分なままに終わった。カントは原理を示しただけで、全事物を自由の原理で説明することをしなかった。

体系にまで作り上げられた観念論においては、「活動、生命、そして自由のみが真に現実的なものである」と主張することだけでは決して十分ではない。むしろ、同時に逆に、すべての現実的なものが、活動、生命、自由を根底に持つ、ということを示すことが要求される。

しかしカントが、まず最初、物自体を現象からただ消極的に、時間からの独立性ということを通して区別したのに対し、その後『実践理性批判』の批判的形而上学的な究明において、時間からの独立性と自由とを、実際、相関する概念として取り扱ったにも拘らず、この自体的なものの唯一可能な積極的概念を、諸事物にも移すという思想にまで進んで行かなかったということは、いつまでも奇妙なこととして残り続けるであろう。

そこで、シェリングは体系を作るのだが、そのときに援用するのがスピノザの汎神論。
汎神論は当時、宿命論で好ましくないものだと、世間一般に思われていたらしい。そこで、汎神論の分析をし、それが宿命論ではなく、自由と矛盾しないことを示す。スピノザの体系の問題は、それがあまりにも一般的に事物を扱いすぎていて、平板的な説明しかしていないことにある。そこで、シェリングは事物をもっと生き生きと描き出すことで、それを補完しようとする。

さてそれではここで、スピノザ主義についてのわれわれの明確な見解をはっきりと提示しておきたい。この体系は、諸事物が神のうちに含まれていると主張するのであるが、しかし、それの故に、それは宿命論であるのではない。というのも、すでに示したように、汎神論は、少なくとも形式的な自由を不可能なものとするのではないからである。したがってスピノザが宿命論者であるのは、まったく異なった、それから独立した根拠に基づいてでなければならない。彼の体系の誤りは、けっして、彼が諸事物を神のうちに置いた、という点にあるのではない。そうではなく、それらが、事物である、という点にある。

スピノザ主義のなかに、ちょうど、愛の暖かい息吹きによって魂を与えられなければならなかったピグマリオンの像と同じ硬さを見ることができるかもしれない。しかしこの比較は完全ではない。スピノザの体系というのは、ごく大まかな輪郭が描かれたにすぎない作品に似ているからである。そのような作品のうちには、たとえ魂が与えられたとしても、まだなお欠けている、あるいは十分に仕上げられていない多くの特徴があることに気づかれるのである。むしろスピノザの体系は、最古の神々の像と比較することができるであろう。個性的な、そして生き生きとした特徴が見られなければ見られないほど、これらの像は逆に神秘的に見えたのである。

『人間的自由の本質』本論

本論では、序論で示した意図にもとづいて、諸事物を自由の原理から説明する試みがなされる。章立ては以下。

  1. 実存するものと実存の根底
  2. 悪の可能性
  3. 悪の現実性
  4. 個々の人間における悪の現実化
  5. 人間における悪の現象
  6. 神の自由
  7. 神と悪の問題
  8. 一元論の体系か二元論の体系か
  9. 哲学はいかにあるべきか

本論の論証は失敗しているので、まともに読む必要はない。第一章から、定義もなしに適当な言葉を用いたり、ただの想像を連ねて論証の代わりにしてたりと、理論として成り立っているものではない。これについては、実際に手にとって数ページ読んでいただければわかると思う。哲学よりは神話に属するような文章を、シェリングの持つ詩情とプラトンから得たであろう着想で無理やり成り立たせようとして、冗談のようなものが出来上がっている。例会では、シェリング研究者はこんなのをまともに研究してるのか、と危ぶむ意見が出た。私としては、これはそもそも、不可能な試みを無理矢理にしようとしたことの必然的な結果だと思う。

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