スピノザ『エチカ』第四部序言~定理18

定義

善と悪

  • 善と悪が意味するものは何か
  • それはどのように意識されるか

善と悪は、自己の有の維持にとって有益か否かのみが基準となる。それは長期的な視点を含むもの。
そしてそれは、感情(活動能力の増減を含む観念)という形でのみ意識される。
我々は普段の生活において、感情を揺さぶるような多くのものに囲まれて暮らしている。短期的な衝動。特定の人物、ものと結びついた衝動。それらによって揺り動かされながら行動するが、時たま、善あるいは悪の観念が浮かぶ。そしてそれにより短期的な感情よりも長期的な感情が優勢になり、自身にとって有益な行動を取るようになる。これは美味しそうだけど体に悪そうだなとか、眠いけど他の人との関係を考えて起きるか、などなど

偶然、必然、可能

これが意味するのは、特定の観念が浮かんでいるときに、他の観念に移るか否か、の状態。
ある人と待ち合わせをしている場合、その人がこれまで常に定刻通りにいた経験しかなければ、その人物を想起しても、それが遅れず到着している表象しか想起することができない。そしてそれを必然だと思う。逆にしばしば遅刻していたなら、その人が定刻通りにそこにいる、という表象は動揺する。そして偶然的と思う。

未来、過去、現在

未来の表象であっても過去のものであっても、現在それを実際に意識しているという点では変わりがない。
過去に経験したことを想起している状態というのは、過去に経験した記憶が現在の刺激をきっかけにして再び現れている状態、と説明される。それが過去のものであろうと、現実のものであろうと、眼前にあらわれているという点では同じこと。
未来について考える状態とは、過去に経験した「時間に関係する表象」を想起している状態である。
例えば、朝に出会った人がこちらに挨拶をしてきたとする。すると、その挨拶をしてきた人と、朝の情景とを結びつけた表象を持ち、それが記憶されることになる。
その人と毎朝出会い、そのたびに挨拶をされる経験を繰り返したならば、「挨拶の人」と結びつく朝の情景は、そこから特殊なもの(その時に通りすがった人、細かなものの配置、着ているもの等)が削ぎ落とされ、どの朝の情景にも共通している一般的なもの(太陽の位置、冷えきった空気、閑散とした雰囲気等)のみが残ることになる。そうして、「挨拶の人」を思い浮かべれば、同時にその一般概念と化した朝の情景を想起するようになる。このような仕方で、我々は時間に関係した表象を持つようになる。
「挨拶する人」を思い浮かべ、その人とまた明日の朝出会うだろうな、と未来について考えるのなら、そこで実際に行っているのは、その朝の情景の想起である。未来のイメージとして思い浮かべているのは、実際には過去のイメージなのだ。

徳と能力

世界において全ては必然的に生じる。ある個物の行為の原因が、その個物であるとは、絶対的な意味では言えない。だが、相対的になら言える。
ある個物の行為が、その個物の持つ「自己の有を維持しよう」という本性のみによってなされた場合。すなわち、他の個物の影響によってなされたものではない場合。その行為の原因を、その個物に帰すことができる。
これは人間の場合、自身の持つ表象について、妥当な観念を持つか否かと同義になる。現在、自身を取り巻いているものの観念、あるいはしばしば想起される過去の観念が妥当であるならば、その観念に従い生じる行為は、自身にとって適切なものとなるだろう。しかしそれが非妥当ならば、その行為は不適当なものになる。他のものがどう現れ、どう接してくるかが原因になるからである。

定理

定理1-4 理性は感情の一種

理性というのは、善の観念を想起している状態。感情というのは、それが想起出来ず、周囲の感情を揺さぶるもの、あるいは記憶によってコントロールされる状態。
理性的という特殊な能力があるのではなく、それを想起できるか否かは他の感情と同じ条件による。繰り返しそれを想起する、しばしば出会いうるものとその観念を結び付ける、といったことによって、別の感情に囚われたときでもそれを想起し、自身にとって適切な行動を取る、ということ。そしてそれは、他の感情と同条件ゆえ、圧倒されうる。
定理1→だから「これこれするといいよ」といったとして、それが真であったとしてもあまり意味がない。その言葉が記憶として残り、後に想起され、衝動を呼び起こして初めて意味がある
定理2-3→凌駕の話。人間には理性という能力はなく、自身にとって利益となる行為をし続けることができない、ということ

受動と能動

自身を取り巻き、自身の活動能力を増減させるもの、かつその対象について非妥当な観念しか持たないものがある。人でも物でも。このとき、その対象の振る舞いいかんによって自身の活動能力も増減する。これが受動の状態。これに属する感情は多数ある。幸不幸、希望、絶望、嫉妬、安堵、その他
自身を取り巻くものすべてについて必然と認識している場合、このことは起こらない。その時は、ただ自身の生の衝動のみを意識している。これが能動の状態。すべてが必然だと意識したまま、淡々とそれらについて対処する。これが人間の求める最上の状況

エチカについて

理性という能力は本当は存在しない。それの正体は長期的な自己の利益。でそれも一つの観念に過ぎず、それが強いかどうかは他のものとの相対的な関係による。例えば、自分の長期的な利益がなにかについて時間をかけて考えたり、日々出会うものと結びつけたりしたとしても、自身を圧倒する他のものによって凌駕されてしまう。
人間は自己の判断のもと行為し続けることも、自己の利益を追求し続けることもできない。ある場面において特定の表象、特定の観念、特定の感情、特定の結びつきが生じるか否かは他のものとの相対的な関係性によるからである。
これを認めた上で、ではどうすべきかを考えましょうというのがスピノザのエチカ(倫理学)で、それが新しい点。
一見すれば割りと救いがなさ気に見えるかもしれないが、認めてしまえば色々とメリットがある。例えば他者と一致する方法の研究が可能になる。精神だとか理性だとかいったブラックボックスを前提としている限り、そいつがどういう原理で動いているかはわからなかった。しかし今後は、人間というのは要は自己の利益を求めて動くもので、かつその時々の表象によって動く、そいつの持っている記憶、個々のものについて持つ感情によってその利益を求める仕方が異なる、ということがわかるわけだ。
また、社会的に称揚される感情の中にも、従うべきではないものが多いことがわかる。例えば反省だとか希望だとか同情だとかそういったもの。それらは自己の役に立つ限りでのみ利用すればいい、という割り切りが可能になり、行動範囲を広げられる。
また、自身が何をすればいいかがわかる。要は必要なのは、自身の出会いうる脅威への準備であり、学習能力。他のことより優先してそれだけをやっていればいい。
目的を明確化した上で、自己以外のものをすべて利用するという立場に立つ。あとはひたすら、自己を脅かすものに対しての準備をし続ければいいわけだ。

感想

S:今まで最初から出席してたが、倫理学っぽい話にやっと入った。理性がないという話はそれだけ聞くとなんじゃそらだが、感情に勝つための能力がないという話。言ってること自体は現実主義者で受け入れられそう。無理なことではなく当然のこと。
T:この考え方を修得したら立ち回りのいい人間になれそう。何に対しても感情をコントロールしていく。アドラー心理学で他人にとらわれないというのがある。他者の承認を気にするのは自由ではないという話がある。それを思い出した。

« スピノザ『エチカ』第四部定理19~付録
ライプニッツ『モナドロジー』 »