スピノザ『エチカ』第四部定理19~付録

前回(~第四部定理18)までのおさらい

デカルトを総合的方法によって否定することで、スピノザは決定論を証明した。
ここにおいて、これまで曖昧にされていた個々の概念が成り立たなくなる。そして、相手が認めているだろう、自由、感情、理性といったものについて、「それはこれ以外の仕方では説明できないでしょ」と再定義していく。そうして新しい倫理学を構築する、というのがスピノザの試み。

自由と必然は両立する

決定論的世界観では、絶対的な意味での自由は否定される。あらゆるものはそれがそうなる根拠を持つ。そこを外れるものは存在しない。それがあると思うのは、そこにおける個々の事象についての無知によるだけだ。
では、我々が普段意識する自由とは何か?それが実際は自由と必然性とは矛盾するものではない。別の仕方で定義されるものだ、というのがスピノザの主張。
例えば、今、美味しいものを食べている時。だれかと楽しい会話をしているとき。それが別用でなければならないことを求めたりするだろうか?それが起こることが必然だと言われたからといって、それを悲観するだろうか?
必然性を嘆くのは、自分に与えられている状況がどれも最悪のものである場合のみである。状況がどれも自分の利害に矛盾しており、選びたくない。そのとき、俺はそれを選ぶことも選ばないこともできる、と頭のなかで考える。そこで、一時的な気の紛らわしができるわけだ。で、その程度の低い自由を、自由の本質と勘違いしたものが、自由と必然性が矛盾すると主張するのである。
そして自由は、自己を維持しようという衝動が発揮された状態、と定義されることになる。

自由と知識

自己を維持しようという衝動が発揮されるか否かは、自己を取り巻くものに関する知識により規定される。その知識が妥当である時、すなわち、それがどのような本性を持っていて、どのような行動をし、自分がどう働きかければどのように動くかを知っている時。それらに対して、自己の有の維持に適当になるように働きかけ、かつそれを実現することができるだろう。目に映るすべてのものは必然的な仕方で動いており、それが自身を揺さぶることはない。意識するのは、自己が自己の利益を追求する行為をしているという自覚と、自身の内にある衝動のみだ。
その知識が非妥当である時、その行為は、自己にとって不適当なものになりうる。その対象の動作、振る舞いにより、自身の取る行為は一々変わり、一喜一憂することになる。意識は常にそれら外部の個物に惹きつけられ、変動する。かつ、そこでなしている自己の行為が他の個物によって規定され、自己の利益と結びつかないことも同時に意識するだろう。

感情

この図式から、感情を整理する。
感情とは、

  • 非妥当な観念しか持たない個物に依拠している時
  • その観念の変動により、自己の生の維持に関する意識の変動によって生じるもの

である。非妥当な個物の観念と、自己の衝動についての意識。これの結びつきが感情の正体である。
例えば、自分の依拠している人が、傷つくのをイメージする。すると、自分の生存がそれによって危うくなることを同時に意識し、悲しくなる。その人が強大になることをイメージする。成功するとか金持ちになるとか。すると、それと同時に自分が安泰になることをイメージし、うれしくなる。
感情は、常に感情の対象を伴っているのだ。
そして、すべての感情は、

  • 自己の衝動
  • 喜び(自己の生の肯定を意識する状態)
  • 悲しみ(自己の生の否定を意識する状態)

の3つに遡れる。

世界観

必然的世界観においては、自己を維持しようという衝動と、認識の妥当、非妥当のみが残るのだ。
すべてのものは、ただ自己の有の維持に役立つか、そうでないかという基準によってのみ測られる。あとはその認識に従い、淡々と自己にとって有利になるよう行為をするだけ。感情の動揺は、ただその対象についての知識の欠如を示すにすぎない。喜び、悲しみ、その他の感情はそれ自体に意味はなく、すべてを必然として見ながら、最善となる行為をし続ける状態が理想、ということになる。

前回の帰結

存在するのは感情のみで、実際はそれを抑える理性のような能力は存在しない、というのが趣旨。
我々はその時々で、異なった個々の観念を想起し、そのたびに異なった衝動を持ち、行為をする。目の前に何かの食べ物を見ればそれを食べたいという衝動が生じ、欲しかった本があったなと思い出せばそれを手に入れようという衝動が、楽しそうなことをしてる奴らを見ればそれに混ざろうという衝動…というように。
その中において、長期的な利益に関する観念がある。勉強をする、有益な技術をみにつける、いい仕事につく、偉い人になる、などなど。その観念は、他の短期的な観念に混じって想起される。

  • 理性…長期的な利益に関する観念
  • 感情…短期的な利益に関する観念

という点で、本質的にはどちらも同じものなのだ。
だから、理性という能力は本当は存在しない。「理性が働く」という状況が意味するのは、実際には「長期的な利益に関する観念を想起する」ことなのだ。それは他の観念と同じく、より想起しやすい状況を作ることで育まれる。例えば普段、それについて考える。整理をする。目につくようにする。そうすることで、短期的な利益が現れようと、すぐに長期的な利益を想起することができる。身体の維持、技術の習得、などなど。そうして、短期的な利益が想起されてすぐに長期的な利益を想起し、それに則った行為をするのである。この構造を知らず表面だけを見た時、感情を抑える理性が働いた、と説明されるわけである。
理性の正体がこれであることは、それが絶対的なものではないことを意味する。それが想起されるかどうかは、他の観念との相対的な関係による。例えば、自分の長期的な利益がなにかについて時間をかけて考えたり、日々出会うものと結びつけたりしたとしても、眼前にあり、自身を強烈に刺激するものがあれば、それに圧倒され、凌駕されてしまうわけだ。

第四部定理19~レジュメ

前回のおさらい

  • 理性は存在しない。それは感情の一部
  • それを踏まえた上で、感情、行動をコントロールする方法

定理19以降の大枠

第四部の構成は、

  • 物理的なことについての確認。身体の維持や国家について(定理19~28)
  • どの感情が有益か
  • 受動がまずい理由。そして、能動を貫けない理由
  • あるべき姿についての心得
    というもの。定理という形を取っているため、多少歪んた仕方になっている。例えば心得だが、「いざというときにこれを覚えておくといい」という形にはどうしてもならず、「能動的な人は○○するはずだ」みたいなよくわからない言い方になっている。

定理19~28

大きくは

  1. よく生きる、ということが実際に何を意味しているかの明確化。それは、妥当な観念を持ち行為する、ということに帰着する
  2. 一般的な通念、常識に関する批判。悲しみや隷属を美徳とするのが嘘だという話
  3. 認識の重要性。妥当な認識以外による行為は、全て受動によるものであり、自己の衝動を不完全に実現しているだけだ、ということ

神の認識

  1. 要は、自然全体についての理解をするのが我々の求めるものだ、ということ。自己の有の維持には知識が関係する。それは、すべてのものの把握が究極目標であり、それは神の認識と同義だ、という主張につながってくる(求めるのはそうかもしれないが、実現することはないからこの主張にあまり意味は無いように私は思う)
  2. もう一つのポイントが、スピノザが無神論呼ばわりされることに対しての弁明。この理論は既存の宗教を否定するものではない、ただそこで利益を得ている一部のものが批判されるだけだ、という意識がベースにある。スピノザの理論でも、宗教の重大な部分は残されるという主張。

定理29~37

  1. 国家についての話。それの起源が各人の利益であり、それの協同が核心であるという主張。国家というのは、実際はその構成員を利するものでしかないはずだ
  2. ならば、そこにおける不合理、不利益はどこにあるのか、という話になる。それが、各人の持つ感情に起因するのだというのがスピノザの主張
  3. そこから、その感情をどうやって抑制するか、どうやってうまく付き合い、利益を得るか、という話になる。

私の思うところ

  • スピノザ自体には、例えばルソーのような、組織が変質して物理的に不利益をもたらす可能性、個々人の利害が対立する可能性、階級対立、というものはかんがえられていない。国家は固定的で、常に利益をもたらすものというのが前提。ほかの本でも統治者的な立場でかんがえている。支配者的な立場の思想だよなと俺は思う
  • 動物とかその他のものは自由に利用してもいい、というのは面白いか。あと、自己の利益に反するものについても自分の手段として扱っていい、という思想も導けそう

定理38~45

  1. 自己の有の維持に役立つもの、快楽を追求せよ、という話
  2. ただ、それが自己の維持に反する場合がある。長期的でないもの、一部のみのもの、というのがあるから。そういう分析
  3. 基本的に人間讃歌的な思想。自己の利益をいかに追求するかが重要で、それ以外のものには一切意味がない、という考え方。それは、不完全な認識に基づき、衝動が不適当な仕方で現れているだけだから。ひとに隷属、反省、後悔を強いるような思想、宗教に対する批判が基礎にある

定理47~59

  1. ここからは、定理という形は取るが、教訓的な話に。どの感情が有用でどれが無用かを覚えておけば、生きていく上で有益でしょ、というもの
  2. 一般的な通念、常識に反するものを多く含む。たとえば、希望、憐憫、同情その他は一切不要
  3. 必要ならその見せかけだけ持ってればいいよということ

定理60~66

  • ここからは、どうやって生きるべきかという話
  • 諸事物に対しては、ただ「どう対応するか」「どう無力化、利用するか」という観点でのみ付き合え。すべてのものは、自己の維持という観点で整理せよ。そしてそれは、そのものの妥当な認識を持つことで可能になる
  • 希望も絶望も持つな
  • 状況を把握した上で、淡々と、どれが自身の利益になるかを計算しそれを実行せよ。それをずっと続けるだけだ
  • 無知なひととの関わりは避けよ
  • 死、善悪、危機への対処、どのような人々と付き合うべきか、ひととはどう付き合うか、国家とどう関係するか、についての考察

付録

  • わかりやすく箇条書きにしたもの。定理という形よりもこちらのほうがわかりやすい

スピノザ『エチカ』第四部定理19~50

感想

S:スピノザの前提はわかったから、納得しながら読んだ。気になったのは、人間が理性的に認識したら一致するということ。
H:今回の内容はしっくりきた。誤解されやすいというのはわかった。
俺:希望とか憐憫を重視するひとと読んだら面白いかも。支配者側が読むべき本。明確に区別している。ルソーとは根本的に違う。訴える対象の狭さ

スピノザ『エチカ』第四部定理51~付録

感想

  • しっくりくる。特に、能動的か受動的感情で善悪に分かれるというのが、しっくりくる。理にかなっている。
  • 何が正しく、何が悪いかを理性的に分析。憐憫がなんだとか。どこから来ているかがわかった。
  • 宗教とかはきれいごといってるが、それがどこから来ているかがないからただのきれいごと。
  • こうやって一から分析すると、自分の存在のためというのがわかる
  • 今の一般の道徳観だと偽善が多い?
  • 感情に基準を置くと一致がしにくい。
  • この理論を広めたい。議論のときの一致点として使える
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