スピノザ『エチカ』第五部
第五部レジュメ
定理1
同じものの両面を違う名前で呼んでいるという話。
人間身体が、外的物体と接触して生じるのが観念。だから、どの観念であっても、必ずその両面を含む。太陽の表象は、人間身体に接触した限りでの太陽の表象であり、そこから独立したものなど把握しようがないわけだ。そしてそれは、両方の本質を含む、というように言えるわけである。
ただ、それが自身に属するか、外部に属するかという意識に応じて違う名前で呼ぶわけだ。
感情について
非妥当な限りでは、利益の実現は不可能であり、認識が重要になる。
そしてそれは、感情をいかに抑制するかが問題になる。それについての分析が第五部前半で行われる。
- 感情の認識→定理3
- 分離→定理2~4
- 時間→定理7
- 神→定理9~11
- 秩序→定理12~14
その他の問題
- 精神の不滅
- 神の認識
等の問題についての考察。既存の宗教を否定する意図はない、ということの主張のために書かれた箇所。
現在において、これらの問題についても考察する意味があるか、は微妙なところだと思うが、議論自体はなかなかおもしろい。死の淵に立ったときにはこの箇所を読むといいのかも。
精神の不滅
- 定理21~23
- 永遠と時間的持続は無関係だというのが根拠。例えば我々が「永遠の愛」「永遠の友情」だとかについて語っている時、そこで持続的なことはかんがえてないだろ?それを否定する何者も想起しないことをもって、それを捉えているだろ?という話。これにより、たとえ身体は有限で、精神もそれによって滅びるとしても、それが永遠であることはありうる、という話をしている。
- プルーストが紅茶にマドレーヌを浸して食べたときに永遠を感じてあのクソ長い長編を書いたがそういう感じじゃないかなと個人的に思ってる
神の認識
- 定理24~37
- 第三種の認識、第二種の認識が何を意味するかだが、第二種は自然のうちに必然的な原理を見ること、第三種がそこから世界すべてが必然的な原理に従っているという認識に至ることを意味する
精神の自由
- 定理38~42
- 感情を抑制し、すべてを必然の相のもとに見るようになったときに至る境地の説明
スピノザ『第五部』記録
定理1→その意味することを説明。表象というのはどれであっても同じで身体と外部の接触によるもの。そしてその点では、太陽であろうと自身であろうと同じで、それを違う名で呼んでいるだけ
定理11~19
神の話
表象像の結びつけ、というのの意味について聞かれたのでその例を述べる。
また、それが神と結び付ける伏線ということ
禅問答→当時の宗教状況に合わせていったことだろう
定理21~37
永遠性の話
持続とは無関係
また、精神の永遠性を求めてる時、実際は何を求めてるかをかんがえてもいいか
永遠性について語る理由。生きる意味は何か、というので、人生の究極的な目的の話し。全てについて認識、不安も何もなく、時間的なものも意識しない状況。それが目指すべきもので、持続だとか不死だとかは求めるべきものではない
定理35
神が自己を愛すること。個物の範囲の話
自己というものの定義を考えれば、世界と自己とのあいだにアナロジーが成り立ち、世界の自己愛ということが成りたつ
感想
T:スピノチストを増やしたい。感情に惑わされず自己の利益を追求するひとが増えたら面白いのでは
S:感情と理性のところは、納得した。逆に当たり前。非妥当なのはなくしましょうと言ってるだけ
精神の状態を身体に置き換えるのが一番おもしろかった
当たり前とはいっても、感情がどういうものかを整理したのは面白かった。
H:自分のためのことをするというのが根本的。それについては納得した。最後の神のところはよくわからなかった。また、神という言葉を使ってるが、神という言葉じゃなくてもいいよね。
仏教や道教の達観の部分と、神を積極的に認識しようというのをくっつけているのが面白い。これは悲しみだけを切り捨てているが、喜びを求める。宗教は両方切り捨てるからそれはいいなと思う。理性による喜びはあるという主張。達観しながらなにかを求める姿勢がある
簡単にいうともっと勉強しなさいということ