総合的方法
序
はじめに
総合的方法とは、デカルトが発見し、スピノザが意識的に用いた手法である。
これは、「何が正しいかを一意的に決めることはできるのか。感情も思想も異なる人間が一致することはできるのか」という問題への答えである。それは、基本的に一対一の議論を想定しており、以下の過程をたどる。
- 相手との一致点を確認し、それを定義と公理としてまとめる
- その定義と公理のみを利用して、一致点を形成する
- その一致点を元に、また一致点を形成する
こうすれば、敵対的な相手からでも同意を奪取できる、とされる。
デカルトによる総合的方法
といっても、具体例をみないと意味がわからないはずだ。実際にデカルトが総合的方法を使った例を見てみよう。
デカルトが想定している対象は、懐疑論者である。「すべてについて疑いうる」と信じていて、かつ「自分が最も徹底的な立場にいる」と思っている者だ。この懐疑論者に対して、懐疑論者が用いる言葉と、懐疑論者が認めている原理のみを用いて議論を行い、相手の主張を否定する。
その過程を今から見ていくが、この議論は、「自身の立場を曖昧にして意見を拝聴する」「意見を受け入れるかどうかの自由は自分に残されている」という立場で、過程を飛ばして結論だけを見ても、絶対に理解できない。ここからは、自分が懐疑論者になったつもりで、一々の段階で「認める」「否定する」という立場を表明しながら読んでいってほしい。
デカルトは、明晰で否定できないものを見出すために、少しでも疑わしいと思われるものはすべて拒否しよう、それで何か残るものがないかを見ていこう、と宣言したあと、懐疑を行っていく。
まず、感覚的事物について考察する。「例えば、遠くから見て四角いと思ったものが、近づいたら実は丸い形状をしていた、というように、感覚的事物において真だと思ったことが、実は真ではないことがあった」「したがって、感覚的事物は真ではない」→ここまではあなたは同意するだろうか?
次に、身体的感覚について考えてみよう。「先の議論で感覚的事物について疑った。だが、自分が手や足を持っていることや、今実際にあるものに手を触れている、ということについては疑えないのではないか」「しかし、君は夢を見ることがないか。身体的感覚を意識しながら、それが実は夢の中で意識していただけだった、ということがあるのではないか」「したがって、身体的感覚は疑いうる」→これについて、あなたは同意するだろうか?
次に、数学的真理を考えてみよう。「上の話を認めるとしても、数学的真理については疑えないのではないか。1+1=2であることは、夢の中であろうと真であるはずだ」「だが、欺く神というものを想定しようではないか。それが、私が頭の中で考え、計算するたびに作用し、誤らせている可能性がありうるではないか」「したがって、数学的真理は疑いうる」→これはどうだろう?
さて、これまで懐疑を行ってきたわけだが、そこで実際にしていた行為の内容を振り返ってみよう。それは、「提示された主張に対して、それに反する事物を想定する」ことではなかっただろうか。感覚的事物については「過去に誤った例」、身体的感覚には「夢」、数学的真理には「欺く神」と、提示された主張を否定する事物を頭の中で対置し、その上で「これについては疑わしい」と言ってきたのではないか。→これについてはどうだろう?
これを認めるなら、その反対概念を想定できないものについては、それが真であると認めていることになるだろう(明晰判明の規則と呼ばれる)。
以上を前提として、「我の存在」について考えてみよう。ここまで一致してきたことからして、「我の存在」を疑うなら、その反対物を対置しなければならない。それについて君は、何か考えることができるろうか。経験、夢、欺く神その他何でもいい。もしできたなら具体的に何かいってくれ。もしできないなら、「我の存在」については君も認めていることになる。こうして、我の存在は証明される。
こうして、「すべては疑いうる」という原理は否定され、明晰判明の規則が第一の根底的なものになる。「すべては疑いうる」を第一の原理としていたのは、懐疑の内容について真面目に考察しなかったことに由来する勘違いでしかない。それが、「懐疑」を実際に行ってそれを一々認めさせるという、懐疑論者が絶対に否定できない方法で証明されたわけだ。
なぜ同意を奪取できるか
総合的方法だと、相手は反論をすることが構造的にできない。反論を出したところで、それは必ず先に行った自分の発言と矛盾するからだ。
例えば、「いや、君はそのような意味でこの言葉を用いているかもしれないが、それは間違いではないか。その点で君と私との間には相違がある」と言うとしよう。すると、「最初から君が定義した言葉しか用いていないんだが」と言われてしまう。
あるいは、「いや、君の主張には論理的な飛躍があるのではないか」と言うとしよう。すると、「私達はずっと、一致したことを積み上げるという形で議論をしてきた。今の主張は、先に君が認めた主張から導き出したものだ。そこに至るまでの過程でもずっと一緒に一致点を確認しており、それは君自身が言明している。不一致があるというのなら、君がどの点まで一致していたのか、どの段階で不一致が生じたのかを言ってくれたまえ。もし、君がこれまで認めたこと、そこで発言した内容を忘れてしまったのなら、僕がそれを繰り返してあげようか?それとも君は、口先だけで同意しないと言ってるのか?」
スピノザの総合的方法
スピノザは、デカルト主義者を対象とする。そして、デカルトの用いた言葉と、デカルトが認めている原理を用いて議論を行い、デカルトの結論である「上位の実体である神が存在し、それが精神的実体と物体的実体を産出した」という理論を否定する。
この際、デカルトの総合的方法を形式的に洗練している。スピノザは、デカルトが用いる言葉を「定義」、認めている原理を「公理」として整理し、それをもとに定理を積み上げていく。そして、デカルトが神に認めた性質を一々否定し、世界には自然の原理と異なる精神も、それを超越する神も存在しないということを証明する。その結果残るのは自然の原理のみであり、唯物論だ。ただ、叙述の仕方から、デカルトが用いた「神」という言葉自体は残り、汎神論的な表現を取ることになる。
スピノザはデカルトの到達地点から議論を始めているため、その地点に到達していない読者にとっては全く意味の不明な書物になっている。例えば最初に「神」「実体」「属性」の定義がなされているが、デカルトの証明を把握している者向けの言葉の整理でしかない。そしてその後は、この定義と公理を踏まえて議論が進んでいく。だから、通常の書物のように、何度も読めば自然に意味がわかってくる、ということもないのだ。
ソクラテスの総合的方法
ソクラテス自身は著作を残していないが、弟子のプラトンがソクラテスの対話を描写したものを残している。
プラトンは、初期はソクラテスの対話を忠実に書き記していて、その描写も生き生きとしているが、後期になると、自分の思想をソクラテスの口を借りて語らせるだけのつまらないものになっていく。例えば初期の『ゴルギアス』では三人の対話者が出てくるが、各人ともソクラテスの主張に真っ向から反対し、敵対的な議論をしてくる。
ポロス「これは、なんと、さすがに論破しがたいことをおっしゃるね、ソクラテス!いやさ、三歳の童子でもそれがほんとうでないことぐらい、ちゃんと証明してみせることだろう。」「これはまた、ソクラテス、珍説を吐くものだね!」「もうすっかり反駁されてしまったとは思わないのか、ソクラテス?あなたの言っていることは、およそこの世に、だれ一人として賛成する者はいないようなことなのに。」
カリクレス「哲学というものは、たしかに、ソクラテス、若い年ごろにほどよく触れておくだけなら、けっして悪いものではない。しかし必要以上にそれに打ち込んで時間をつぶすならば、人間をだめにしてしまうものだ。」「人間がすっかりいい年になっていながらまだ哲学を続けているとなると、これは、ソクラテス、どうも滑稽なことになると言わざるをえない。」「いい年をしてまだ哲学にうつつを抜かしていて、いっこうにそこから足をあらわぬような男を見ると、もうそんな男は、ソクラテス、ぶんなぐってやらなければと思うのだ。」「そういう人間は、どれほど生まれつきの素質がすぐれていても、もはや一個の男子たる値打ちがなくなっているからだ。一個の中央から逃れ、詩人が男子の栄誉を輝かすべき場所としてあげている広場を避けて、社会の片隅にもぐりこみ、三、四人の若造を相手にぼそぼそとつぶやきながら余生をおくり、自由に大声で思うぞんぶん力づよい発言をすることもないとすればね。」「しかし、親愛なるソクラテス、どうかわたしの言うことに気を悪くしないでいただきたい。こんなことを言おうとするのも、あなたに好意をもっていればこそなのだから――あなたは、そんな状態でいることを恥ずかしいとは思わないのだろうか。」
これが後期になると、ただのイエスマンになる。
「そうです、ソクラテス」「おっしゃるとおりです」「そのとおりです」「たしかにそうです」「当然そうあってよいことです」「それはもう、きっとそうであるはずです」「ゼウスに誓って」「まさしくそのとおりです」「ええ、たしかに」「ええ、間違いなく」「ほんとうに、おっしゃるとおりです」
したがって、ソクラテスが用いた総合的方法を学ぶには、初期の対話篇を読むのがいいだろう。
『ゴルギアス』において、ゴルギアスは、どんな者にでも弁論術を教えることができる、そして弁論術というのは非常に有益な技術だ、と主張する。それに対しソクラテスは、その弁論術の内実を確定しようと試みる。
ソクラテス「ごもっとも。さあ、それでは、弁論術についてもその調子で答えてください。それは、いったい何に関する技術なのですか。」
ゴルギアス「言論。」
ソクラテス「もしわたしの理解に間違いがなければ、あなたの言われるのはこういう意味でしょう?すなわち、弁論術とは説得を作り出す術のことであって、そのおこなう仕事のすべては、かいつまんで言えば、結局はそこに帰着するのだと。それとも、この、聴衆の心に得心を植えつけるということのほかに、弁論術の効能としてもっと何かあげることがおありですか。」
ゴルギアス「何もない、ソクラテス。君の定義でじゅうぶん言いつくされていると思う。弁論術の主眼とするところは、いかにもその点にあるのだから。」
ソクラテス「してみると、弁論術とは説得をつくりだす術だと言っても、その説得なるものは、どうやら、人にそれと信じこませるだけのことなのであって、正と不正の何たるかを知識として教えるような説得ではないわけですね?」
ゴルギアス「そう。」
ソクラテス「そうすると、弁論家が医者よりも説得力があるというばあい、それは、そのことがらを知らない人が知っている人よりも知らない人々のなかで説得力をもつということになりますね?そういう帰結が出てくるでしょうか、それとも違いますか。」
ゴルギアス「このばあいは、たしかにそういうことになるだろう。」
このように、弁論術とは言論に関するものであり、正義と不正に関するものであり、説得を作り出すものであり…というように、ゴルギアスとの一致点を漸次的に形成していく。
なぜソクラテスはこのようなことをしているのかというと、ゴルギアスの主張を
- 弁論術とは、知識の無い者が、知識の無い者を説得するための技術である
- そのような技術は国家において何の役にも立たないものである
の二段階で否定しようと頭のなかに思い描き、議論しているからである。
このように進めるために、まず第一段階として、弁論術の定義についての一致をはかっているのが先の箇所だ。一致点を少しずつ形成し、かつそのときには、一致点をゴルギアス自身の口で一々語らせるということをしている。こうしておくことで、「弁論術は有益なものかどうか」の議論になったときに、弁論術の定義の曖昧さを根拠にした議論のひっくり返しをあらかじめ防いでいるのである。都合が悪くなってひっくり返そうとしても、ソクラテスに「いや、あなたとはさっきその点で一致したはずですよ、あなた自身おっしゃってたじゃないですか。その言葉繰り返しましょうか?それにここにいる人達全員、そのこと覚えていると思いますよ?」と言われてしまうわけだ。
だが、ゴルギアスは、第一段階で矛盾したことを言ってしまい、本論に入る前に舞台から退いてしまうことになる。
ソクラテス「弁論術の先生としてのあなたは、入門者に対してそうした知識はなにひとつ授けはしないけれども――それはあなたの仕事ではないわけですから――、ただ大勢の人間のなかで、そういったことがらを知らないのに知っていると思われるようにしてやるのでしょうか?あるいはそういった問題に関して真実をまえもって知っていてもらわなければ、入門者に弁論術を教えることはぜんぜん不可能なのでしょうか?」
ゴルギアス「よろしい。わたしの思うに、ソクラテス、もし知っていなければ、そうした知識もあわせて、このわたしから学ぶことになるであろう。」
ソクラテス「これはありがたい、よく言ってくださいました。」
ソクラテスは非常に議論慣れをしていて、議論をする際に相手に有耶無耶にされないための技術を心得ている。
対話者は議論に勝つために、様々な術策をこらしてくる。だが、ソクラテスはあらかじめそれらの可能性を全部周到につぶした上での議論をしている。そこに注目してもいいかもしれない。
- あらかじめ互いの共通前提を確かめてから議論を進める
- 相手が議論を放棄すれば、その時点で俺も議論やめるよということを言う
- 長い議論をあらかじめ念を押して封じておく
- 相手に語らせて、段階を踏んで話を進める
- その場にいる大衆を意識させながら議論する
などなど。
学習過程の考察
なぜ、総合的方法だと同意を奪取できるのかを、理論的に考察してみよう。
まず、そもそも真偽とは何か、認識とは何かを大きな枠組みで考え、捉え直す必要がある。
学習能力
世界には、「ある一定のまとまりを持ち、自己を維持しようという本性を持つもの」と定義される、様々な個物が存在する。それは単独で生き残ることはできず、必ず無数の他の個物との関係を必要とする。そのうちのあるものは自己の維持にとって有用であり、あるものは有害である。それらに対し、適切な対応をし続けたものだけが、結局は生き残ることになる。人間は、記憶と学習により、適切な反応をする確率を上げることができる。
それまで一度も見たことのないものに出会ったとする。それが自分にとって有益か、有害か、どのように対処すれば適切かは当然不明である。この場合、そこで行う対処が適切か否かは、運に任されることになる。
しかし、その対象に二回目に出会ったときは、以前よりも適切な反応が可能になる。一度目に出会った際の「○○という対応をしたらまずかった」という記憶を想起すれば、それとは違う対応をするだろうし、「○○という対応をしたらよい結果になった」という記憶を想起すれば、同じ対応を試みるだろう。
三回、四回と同じ対象に出会うことで、対応はより適切なものになる。初回に通じた手段は、たまたま通じただけかもしれない。それは、別の場合ではまずい反応を引き起こするかもしれない。しかし、何度も出会う中で、特定の状況ではどの対処をすればいいか、という知識が蓄積されていく。そして、相手への対応は、より適切なものになっていく。
表象という観点での説明
想起する表象の数が増大している
では次に、この学習過程で生じていることを分析してみよう。それは、その対象に出会ったときに想起する表象の変化として説明される。
一度しか出会ったことがないものに再び会った場合、その一度きりの状況を思い出す。それが人であれば、その時の表情、髪型、服装、発言、仕草、といったその人間に属するものと同時に、空の模様、周囲の建物、温度、湿度、といった話したときの状況を、さらにはそのときの自身の精神状態を、想起するだろう。もし、たまたまその人が怒っていたとしたなら、怒りっぽい人としてイメージするかもしれない。自身の調子がそのとき悪かったなら、不愉快な人物としてイメージするかもしれない。初対面であまり喋らなかったとしたら、無口でおとなしい人と認識するかもしれない。このように、その人間の本質とは異なるものを、イメージしうるわけだ
数度その対象に出会った場合、これまでに出会ったときの状況を、全て同時に表象する。この時、その状況それぞれの共通点は明確に、相違点は曖昧に意識されることになる。例えば顔つき、仕草、背たけ、声、個々の事態への反応の仕方、といったものについては、どの表象においても共通であるゆえ、明確に意識される。だが、服装、髪型、出会ったときの精神状態といったものはバラバラであり、それゆえ曖昧に意識される。
これを繰り返すことにより、その相手がどういう性質か、というイメージが出来上がる(一般概念と定義される)。それは「この場合にはこのように対応する」「この状況ではこういう発言をする」「このように話しかければこのように反応する」といった、その人間の性質を示すものになるだろう。
これまで出会ったどの場合においても共通していて、それゆえ明晰に意識されるイメージは、その対象に本質的なものであり、それゆえ次に出会ったときにそのイメージ通りに対象が動く確率は高いはずだ。そして、その対象への対処も、より適切なものになるだろう。
導かれること
真偽の意味
ある対象に出会った時に浮かぶイメージの通りに、対象が動くか否か、が本来の意味である。
○○が△△である、という形で表現される真偽も、表象によって説明される。この場合、頭の中で○○についての表象を想起する。そしてそれと、△△とが結びつくかを考える。誰々が嘘をついたと聞いたとき、かつてその誰々に嘘をつかれた経験を想起できれば、それを真だと思うだろう。会話をしたことがなければ、それは結びつくことも結びつかないこともあると思うだろう。その経験が全くなく、逆にそれを否定する表象をイメージすれば、それを偽と判断するわけだ。
他者との相違点
同じ対象に対して、初見でどういった印象を抱くかは人によって異なる。状況、環境、自身の精神状態は人によって異なるからである。だが、その対象に何度も出会うことにより、その相違点は解消され、その対象についていだくイメージはだんだんと近いものになるだろう。
もし、特定の対象についての議論で相違点があるとしたら、二つのパターンがありうる。一つが、同じ言葉で違う対象を指している場合である。もう一つが、どちらかの経験の不足、あるいはその対象についての表象の未整理により、異なるイメージをしている場合である。
前者の場合、定義をすればその不一致は解消される。後者の場合は、情報の共有なり整理なりにより、不一致は解消される。
表象理論
本来あるべき人間の姿
対象に出会えば、これまでその対象について積み重ねてきた一般概念を想起し、対処をする。それが成功したならそれでよし。失敗したなら、その一般概念は修正され、より真に近づくものになる。次に出会った時にはより適切な対処をするだろう。これを漸次的に繰り返す中で、世界において未知で脅威となる領域は減り、適切な行為をできる確率は高くなるだろう。
だが、実際はこの通りに行かない。一般概念を常に想起できるわけではないからである。
意識の構造
現実と過去の表象の入れ替わり、連鎖
我々の意識には、現実の表象と、過去の表象が交互に現れる。どこかを散歩しているとしたら、道、犬、人、太陽、寒さなどなど、現実の表象が意識される。それは、新奇であったり自己の維持に関わるものである場合、それだけ強力に自身を惹き付けることになる。例えば、消防車のサイレンなり、暴れている人なり、高速で走っている自動車などがあれば、そちらに意識が向き、その周囲の状況は目に入らなくなるわけだ。
現実の表象がどれも見慣れたものである場合、そこから過去の記憶に意識が飛ぶ。例えば犬を見れば、過去に飼っていた犬を思い出す。料理を見れば昨日食べたものを思い出す、というように。さらに過去の表象から、さらに別の過去の表象に移るという連鎖が生じることもあるだろう。その連鎖は、物音がした、肩を叩かれた、チャイムがなった、といったより強力な現実の刺激によって途切れ、再び現実へと引き戻されることになる。
表象の強度
ある時点で何を表象するか、それがどれだけ持続するかは、その表象の強度による。それは、「特定の表象同士の結びつきを、何度も経験した」「その表象が自身の利害に関わるものである」「日常的にその表象を目にする」といったことにより強力になる。
一般概念の想起
一般概念の想起も、同じ原理に従う。例えばそれが人であるなら、その人間について形成した一般概念を何度も思い返す、常にそれを思い返すよう習慣づける、ということをしていれば、その対象に会った際、その一般概念はスムーズにイメージされるだろう。しかし、新奇な行動を取る、感情を逆撫でることを言ってくる、見慣れぬ環境で出会う、という場合にはそちらに意識がひきつけられ、その一般概念が想起されない可能性が高くなる。結果、対象の本質に対応したものでない、初見の時の運に任せた行動をすることになる。
一般概念に従う行動は、通常理性的な行動、眼前の短期的な刺激による行動は、感情的な行動と呼ばれる。人間は、その時その時で想起されるものに従って動くのであり、感情を抑制する理性という能力が別にあるわけではないのである。
議論への応用
人間の脆弱性
以上から、何を意志するか、どう行為するかは、必ずしも自分でコントロールできるものではないことがわかる。それが実際に意味することは、対象に会った時に一般概念を想起できるか否かであり、それは外的状況次第だからだ。特定の表象の結びつきを意図的に与える、利害に関係する表象を与える、特定の環境を用意する、相手の感情を煽る、といったことにより、相手の一般概念の想起を防ぎ、自身に都合のいい行為をさせることは可能なのである。
コントロールの原理
以上を利用して、相手に特定の表象を与え、コントロールする手段が存在する。
- 利害に関係する表象を与える
- 同じ表象の結びつきをくりかえし与える
- 日常的に特定の表象の結びつきを与える
そうすることで、相手が特定の場合に、特定の表象を浮かぶように、あるいは浮かべないようにコントロールする。例えば、相手が自分にとって不利となる行為をしようとしたとする。そのとき、それによって引き起こされるだろう不利益を事前に強力に与えておいたならば、それを想起するだろう。怒った顔なり、過去に受けた苦痛なり、だ。するとその行為は、実行されないまま終わるわけだ。
既存の議論の分析
ここまでの理論を踏まえた上で、学問、あるいは日常で行われる議論を見てみよう。それは、「対象の本質を把握し、それによって自身の行動を適切なものにする」ためのものではなく、「対象の理解を阻害し、自身に都合のいいように動かすための技法(今後、弁論術と呼ぶ)」に分類されるものではないだろうか?
弁論術の本質
例えば権威論法がある。特定の分野における権威が唱えている理論を持ち出して、相手を圧倒する論法だ。自分の教わった教員が称賛している、教科書に載っているなどの理由により、それを否定するなら、多くの人が反論をしている姿が容易に連想される。また、その反論の一部を自分も実践できる。このような場合、自分が反論される恐れなしに、相手を黙らせることができるだろう。
あるいは、世間一般を持ち出す論法がある。他の誰もが同じことを主張している、君の主張を支持しているのは君だけだ、といった世間一般のイメージを持ち出すことで相手を黙らせる論法だ。これは、悲しい人を見たら悲しくなり、喜んでいる人を見れば嬉しくなるという同調作用を利用したものである。
あるいは、自身の持つ知識なり、能力なり、肩書なりを相手のものと比較し、相手の無能力を強調する方法がある。○○すら読んでないのか、○○語すらできないのか、○○なんて一般常識だよ…といったものだ。
このような弁論術に属するものが、本来の学問の技法と混在している。この理解がかけていたために、他者から同意を奪取する方法が、これまで確立してこなかったのではないだろうか?
総合的方法
総合的方法とはなにか
これまでに述べたことをまとめると、以下になる。
- 人間同士が一致しないのは、情報量の相違による
- 通常なされる議論は、弁論術と、本来の学問の技法の二つに分かれる。この両者で必要になる技術は別物であり、それぞれ別に習得する必要がある
相手の同意を奪取するには、弁論術をすべて回避した上で、本来の学問の技法に持ち込む必要がある。両方の知識が必要になるわけだ。
この両方の要件を満たし、かつ「これまで出会った最悪の弁論術を想定し、それに対処できる」「それ以外の者に対しても通用する」ものにまで昇華した技術が総合的方法だ。
弁論術の本質
根本にある衝動と内的思考
弁論術を使う者が、どういう衝動で動き、何を念頭において行動しているのかを分析してみよう。
弁論術家の根底にあるのは、自分の利益を実現しようという衝動である。それが、弁論術を利用することによって達成できる場合が存在する。相手の主張が真であっても、それを認めると自身の利益が損なわれるから、結論を先延ばしにしたい場合だ。
その際、まずは自分の頭の中で反対の概念を想定してみる。それでうまくいきそうにない場合、「これまで経験したもののうちで、否定された経験の少ない策」「これを言えば、相手は黙るだろう策」を使おうと考える。それさえも通じない場合は、感情に訴える、あるいは権力なり暴力なりで覆そう、というように考える。
意識すること
弁論術に特化したものが心得ることがいくつかある。
- 確定事項を作らない:これにより、後で不利益な結論に至ってもそれを否定することができる
- 記憶の脆弱性を利用する:複数の問題を同時並行で扱うことにより、確定した何かを作らせる前に別の話題に移ることができる。そうすると、次に前の話題に移ったときは、忘却によって同じ議論をくりかえし、時間を稼げるわけだ
- 問題の核心部について話をさせない:定義の問題、その他の問題に話をそらせ、疲弊させ、時間切れを狙う。そうして、自身の責任問題だとか、相手に負わせている労力についてどう責任を取るかといった、後に言質に取られるとまずいことを言わずに済ませる
よく用いられる策
- 権威論法:特定の権威を持ち出して圧倒する。これは学問領域においてはよく用いられ、そこから派生して他の領域でも使われる
- 感情:他の策がなくなった場合、これが最終的に使われることが多い。泣く、怒る、その他。その場限りにおいて、強力な表象を作り出し、そこに意識を集中させてこれまでの一致をごまかす手法として使われる
- 相手を貶める:自分が反論される恐れなしに自説を述べる準備としてなされる場合と、それまでの一致点、あるいは議論そのものを投げ捨てることの正当化のためになされる場合とがある
総合的方法の実践
型にはめる
基本的には、最初から筋道を決めておき、その型にはめる、という形になる。
ここで問題になることは、対象の本質の把握である。それは、関係する情報を集め、比較し、共通点を把握することによって達成される。相手と不一致であれば、それは相手が自身の持っている情報を欠如しているか、情報に混乱をきたしているかのどちらかだ。
他者と議論する場合、自分の今の判断が真であるという前提のもと、その根拠とともにその主張を提起する、そして相手の情報の欠如を埋め、相手の混乱を解きほぐす、という形になるだろう。かつ、それが受け入れやすいよう、相手の持つ言葉と原理を用いる。相手が持っている情報の方が的確である場合も当然ありうるが、その際はその情報によりこちらの判断を修正すればいいだけだ。人間の判断は過去の経験により制限されており、それを乗り越える能力は存在しない。だから、自身が正しいという前提で行動するべきなのである。
二つの手法の区別
弁論術と本来の学問の技法それぞれで、対処法は変わってくる。それを心得ておいた上で、議論のフェーズが切り替わるたび、適切な対処をすればいい。
弁論術
- 反省、後悔、その他無能力を強いる
- 一致していない前提を飲ませる
- 話をそらせて時間稼ぎをする
- 相手の人格を否定する
という方法をとってくる。これらはただの技法であり、まともに考える必要はない。それぞれについて対応策をあらかじめ持っておき、それを淡々と使うだけだ。
本来の学問の技法
最初の章で述べたような、一致点を積み上げる過程を行う。
過程
- 相手の弁論術的な議論を潰す
- 相手の主張を確定する
- 総合的方法で相手に一致点を強いる
- 途中なされる弁論術をそのたびに潰す
という過程になる。
相手の弁論術を潰す
まずは相手に発言をさせ、その主張を確定する必要がある。だが通常、相手は素直にそれに従うことはなく、弁論術を使い優位に立とうとする。そこで、それは私には通じないよ、ということを思い知らせる過程が必要になる。
例えば特定の権威を持ち出してきたなら、「君がその人の主張を正しいと思っているというのはわかった。だが私はそうではないし、ここで議論を聞いている他の人もそうではないだろう。だから君がそれを正しいと判断していることをその根拠とともに言ってくれよ」と言えばいい。なにか制限を加える、一方が一方に何かを命令する、教授するという立場を取ろうとしたなら、「君と私とは対等で君にそのようなことをされるいわれはない。そのようなやり方をする根拠がなにか示せ」といえばいい。とにかく、実際には従う必要のない前提を暗黙のうちに飲ませようとするはずだから、それを拒否しなければならない。
もし、相手が感情に訴えてきても、それを弁論術の一種として整理する。感情は、特定の時間しか持続しない、という点に特徴がある。相手は、一時的に場をそれで支配し、自身に有利な条件で議論を終えることを意図しているのだ。だから、議論を長期化する、そこで何も決定させないということが適切な対処法となる。
議論に固執しない
どれだけ要求しても、相手が自分の主張を述べようとしない場合がある。その時、それ以降の議論が成り立つ余地はない。こちらは議論をしようとしたが相手は拒んだ、という事実をもって議論を終了し、別の仕方による目的の達成を試みた方がよいだろう。例えば組織全体に投げるなり、公に訴えるなりだ。一致する気のないものと議論をしても無駄である。話し合い自体に価値があるわけではないのだ。
出す情報は限定する
一致点の積み上げという段階を踏むまで、新しい主張やこちらからの提案は出さないようにする。相手が議論をそらし、逃げる余地を与えてしまうからだ。
一致点の積み上げにあたって
相手が認めたことは、一致点としてそのたびに確認する。それを曖昧なままで済ませようとしたなら、必ず拒否する。議論が滞った場合は、何について一致しており、何については不一致なのかを、相手自身の言葉で確認するのがいい。また、それまでに一致し確定したことを否定してきた場合、それまで一致したこととは違う議論をしてきた場合は、拒否する。
ソクラテスの技法
初期対話篇において、ソクラテスが総合的方法を使う姿が具体的に描かれている。実践に用いる際の参考になるだろう。
- 相手に一々発言をさせる:一致点については、相手に一々相手の言葉で発言させる。こちらからの確認に無言で同意させるだけの場合は、自身の記憶をごまかし、「いや俺はそんなこと言った記憶はないよ」「君がそうとっただけでは」と言うことが容易だろう。それを防ぐためにも、これを強いる方が適切である
- 適切な場所を用意する:ソクラテスは、大衆が大勢集まるところで議論をした。さらに、議論の途中で「ここにいる者にもわかるようにいってくれ」と大衆を意識させた。密室で、自身の発言内容を確認できる者が少ない場所で議論をするよりも、一致点を認めさせることが容易になるだろう
- 相手の主張を事前に把握する:今まで話したことのない相手でも、その人が普段からしている主張を把握しておく。これにより、事前にどうやって議論を組み立てるかを決めることができる
- 普段から適切な振る舞いをする:無能力の追及や、責任の追及によって相手を黙らせようという技法を回避するために必要になる。少なくとも、自身で弁明できない行為はしないよう、普段から心がけるべきだろう
- 共通点の把握:ソクラテスは、徳を求めることが誰も否定できない共通点であることを把握し、それを議論において用いていた。例えば組織内の議論であれば、「組織の維持」「組織の目的」「構成員の平等」が。学問であれば原典の記述といった第一次資料が。絶対に否定できない、否定をすると後々自身にとって不利益な状況に追い込まれ得る共通点として使えるだろう
- 話し合い以外の領域を持つ:ソクラテスは、君に話し合う気がないのなら僕はいつでも帰るよ、ということを議論において何度も主張していた。話し合いで片を付けることや、相手の同意を取ることにこだわらず(言葉の上であればいくらでも否定はできるのである)、その場の状況次第で議論を切り上げることを念頭におくべきである。たとえ議論自体で目的を達成できなくても、そこでの言質なり、自分は話し合いの態度を取ったが相手が拒否をしたという事実なりを使えば、他の仕方で目的を達成できる場合はあるのである。話し合えば誰でもわかり会えるというのは嘘なのだ。