『精神現象学』A 意識
ヘーゲルについて
- Georg Wilhelm Friedrich Hegel
- 1770年8月27日 - 1831年11月14日
他の哲学者
- デイヴィッド・ヒューム 1711年4月26日 - 1776年8月25日
- イマヌエル・カント 1724年4月22日 - 1804年2月12日
- ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ 1804年7月28日 - 1872年9月13日
- カール・マルクス 1818年5月5日 - 1883年3月14日
- フリードリヒ・エンゲルス 1820年11月28日 - 1895年8月5日
著作
生前に出版したのは以下。
- 精神現象学(ドイツ語: Phanomenologie des Geistes、1807年)
- 大論理学(ドイツ語: Wissenschaft der Logik、1812-16年)
- エンチクロペディー(ドイツ語: Enzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften、1817年、1827年、1830年)
- 法哲学(綱要)(ドイツ語: Grundlinien der Philosophie des Rechts、1821年)
他に、弟子が講義ノートをまとめて出版した本がある。
『大論理学』の大は、エンチクロペディーにある「論理学」と区分するために通例として付けられているだけ。ドイツ語をそのまま訳すと『論理学』になる。
『精神現象学』『大論理学』『法哲学』が三大著作。『法哲学』は近代社会を総体として把握しようとした内容なので、弁証法が何かを知りたいなら最初の二冊を読めばいい。
『精神現象学』で絶対精神にたどり着いたのちに、『大論理学』で世界を論理で説明しなおすという構成。『精神現象学』を通読したあと、『大論理学』がどういう方法をとってるかをさらっと知れば、ヘーゲル理解としてはおそらく十分。
精神現象学の構成
- 意識
- 自己意識
- 理性
- 精神
- 宗教
- 絶対知
今回読むのは、1. 意識の箇所。「感覚的確信」「知覚」「力と悟性」で構成されている。
二元論の前提
ヘーゲルは、ヒュームやカントの二元論を前提にして議論をしている。精神が優位であり、物質は精神を介してのみ捉えられるものである、という立場だ。
この枠組みだと生じることになる、「外的対象を把握できるか」という問題について答えを出すのが、「1.意識」の目的。二元論的立場だと、私の意識に現れているものと、外的に存在するものが一致するのかが確定できなくなってしまうのだ。
ヒュームは、これは不可能だとした。カントは、人間精神が物事を見る形式には共通するものがある、くらいのことしか言えなかった。
感覚的確信
最初に、感覚的確信について考察する。個々の対象について把握する以前の、「いま」「ここ」「それ」という原初的な段階についてだ。この段階の認識が一番確かなものである、と主張する人がいる。だがそれは誤りである。
目の前に存在するものが存在すると主張したいなら、それを指差して「ここ」「それ」「あれ」と示せばいいだろう。あるいは、今、この瞬間が存在すると主張したいなら、「いま」と言ってそれを示せばいいだろう。
だが、これは実は不確かなものである。例えば夜中に、「いまは夜である」と書き記すとしよう。この真実は、翌日の昼になれば真実ではなくなっている。「いま」は夜ではなく、昼になっているからだ。
これは「ここ」についても同じである。例えば樹木の前で、「ここは樹木である」と書き記したとしよう。この真実は、振り向けばそれだけで、失われることになる。そのとき、「ここ」はもはや樹木ではなく、「家屋」といった別のものになってしまうわけだ。
ここから、真であるのは感覚的確信ではなく、「いま」「ここ」の背後にある普遍性であることになる。「いま」とは個別的な対象ではなく、相異なる時間を示したものである。「ここ」は特定の場所ではなく「まえ」「うしろ」「うえ」「した」「みぎ」「ひだり」といった多くの場所を示したものである。普遍的なものこそが、真なるものなのだ。では、この普遍性を与えているのは何であるかというと、それは私ということになる。
知覚
では次に、個々の対象について考察してみよう。
それは、「一」でありながら、同時に多くの性質をその内に含んだものとして現れる。例えば塩を目の前にしているとすれば、それは「ここにある」と同時に、白く、辛くもあり、立方体でもある、等々の性質を備えているわけだ。
では、その多様な性質を一つのものに属しているのは何だろうか。これも、やはり私によるということになる。その対象のうちに、それらの性質が含まれているわけではない。私の舌が辛いと思い、私の目が白いと捉えることで、それらは一つのものに、多数の性質を含んだものとなるのだ。この能力は、知覚と呼ばれる。
力と悟性
次に、我々にあらわれている事物全体、という観点から捉えてみよう。ここには、「力」が見て取れる。そこでは、一つの統一がありながらも、その中において各々のものが釣り合いを保っている。この力は、当然目に見えるものではない。
この力は、法則という仕方でも捉えることができる。そこには目に見えない内なる力が働いており、それが現象という仕方で現れている。この法則は、最初は個々異なる法則として現れる。だがそれはやがて、万有引力という仕方で、全てを統一するものとして把握されることになる。この対象を把握する際の運動も、やはり人間精神が与えているものだということになる。
自己意識
事物全体は、私の精神が与える運動によって動いている。この段階まで来ると、事物全体と、精神とを分ける意味がないのではないか、ということになる。こうして、対象=自己という事態が成立する。
自己と対象が一致した状態における意識を、ヘーゲルは自己意識と呼ぶ。ここに至ったならば、もはや自己を制限するものを意識することもない。我は無限の存在であり、これが生命の本質である。
このあとの展開
こうして、「外的対象を把握できるか」という問題は解消された。
これをもとに、ヘーゲルは個人と社会全体の問題について考察する。我々は社会全体のうちの個として存在するが、その両者のあいだに不一致を感じる。それは疎外感として意識されている。これはなぜ起こり、どうやって解消されるのか。
自己意識が他者と出会い、そこで「生死をかけた闘争」を行う。その結果主人と奴隷との区分ができる。奴隷は主人に強いられて労働をすることになるが、そこにおいて自らの意識をより高い次元に発展させる……という内容が書かれている。
今回のまとめ
基本的に、ヘーゲルはカントの二元論の枠内での話をしている。
出発点も、問題意識もカント的だ。「ここ」「いま」が客観的に存在するものではなく、自分の精神が与えたものだという主張は、カントの「空間論」「時間論」と似ている。
自然法則を含め、人間精神が全てを規定しているというのもカントと同じ。
自然全体に適用される法則を発見したあとに、それを与えているものが精神であると導く過程も、ニュートンのあとにカントが現れたことを念頭に置いていそうだ。
ヘーゲルの特徴は、認識過程を段階を追って考察したことにある、と言えそうだ。カントの場合は、反対意見に対しての批判が中心で、そのようなことはしていなかった。