『精神現象学』B 自己意識
『精神現象学』は以下の構成。
- 意識
- 自己意識 ←今回読む箇所
- 理性
- 精神
- 宗教
- 絶対知
前回のまとめ
前回読んだ「1. 意識」で言っていたのは、要は「全ては自己である」ということだった。
- 存在するもの
- 事物
- 力
これらは、実際に外的に存在するわけではない。私の持つ精神があって初めて認識できるものである。
「力」までいくと、もはや対象と自己という区別をつける意味すらなくなる。そして、「全てが自己である」という領域にたどり着く。感覚も、事物を知覚するのも、法則を悟性によって捉えるのも、全て精神内で起こっていることだ。このような、全てをその内に含む意識は、自己意識と呼ばれる。
「2.自己意識」では、これを受け、外的に存在するものについての話をする。
ヘーゲルの世界観
「1.意識」の過程で行ってきたことを見直してみよう。
最初の段階では、何らかの確たるものがあると思われていた。それが否定され、人間精神の内に解消される。だが、それは新たに、別の確たるものを生み出し、そしてそれが再び否定される。「存在するもの」が否定されたあと、「事物」が現れたように。「対象を否定し、自己の内に解消する」「それがまた別の対象を生じさせる」「再びそれを否定し、自己の内に解消する」という運動が、我々の根底に存在しているわけだ。
この運動は、生命が生存本能として持つ、欲望と同じものである。我々は、特定の対象を否定し、それを自己に一体化させようという衝動を持つ。食物であればそれを食べるという仕方で否定し、自己と一体化させるように。
生命は、その活動の中で、他のものを否定し、自己と一体化させる。だがそれによって全ての個体が消え去るわけではない。その否定がまた、新たな個体性を生む。他を摂取した個体は、一つの統一性を保ちながら変化をし続ける。さらには、生殖によってまた別の個体を産むことになるだろう。他によって否定されようと、それはまた別の個体への統一、新しい個体の創造につながるのだ。この運動は無限に続き、円環を描く。世界という統一体は存在するが、それは確定したものとしてではない。それが実際に意味しているのは、その内部で行われる、円環を描く運動の総体だ。
人間社会
世界において、自立性を持つものは多数存在し、それらは自らの本性に従って動いている。ここから、人間社会がどのようにして形成されるかを考えてみよう。
人間が他者に会った時、最初はその他者を否定しようとする。他の否定が、人間の持つ欲望の本性だからだ。自立的な生命を否定し、それが自己と同じものであると確信しよう、という衝動を持つのである。だが、その他者も当然、同じ本性を持つ。こうして、相手の自立性を否定し、自己の自立性を証明するための、生死を賭した闘争が始まる。
この結果、闘争に勝利したものは主人となり、敗北したものは奴隷となる。ここで主人となった者は、奴隷を介して事物と関係をする。一方、奴隷は労働を通じ、加工することで事物を関係することになる。
この両者のうち、奴隷にこそ発展性があるとヘーゲルは考える。主人は奴隷に依存しており、かつそれ以上、意識が発展する余地がない。一方奴隷は、主人に対抗して負けたことで、死というもの、すなわち自然全体についての意識を自覚している。さらに、労働によって、意識が発展する余地がある。労働とは、事物に対して自分が加工することで、それを変化させることだからだ。
意識の発展史
人間の意識が、歴史の変遷に応じてどのように変化したのかについて、考察してみよう。ヘーゲルは、
- ストア主義
- 懐疑主義
- 不幸な意識
- 理性
という段階で整理する。
ストア主義
対象が自己と同じものである、と自覚したのがストア主義である。実在的な区別というのは、本当は存在しない。その区別を与えているのは私の思考である。
ストア主義の原理はこうである。すなわち、意識とは思考する存在者であって、なんらかのものが意識に対して実在的なありかたを有するとすれば、ことばをかえれば意識に対して真であり、善であるとするならそれはひとえに、意識がそこで思考する実在としてふるまうからにほかならない、というものである。
この境地においては、地位や身分が無意味なものになる。王という身分も奴隷という身分も、思考が作り上げたものに過ぎない。こうして、マルクス・アウレリウスのような王座にいるものであろうと、奴隷であろうと同じく、現実から身を引いて思索のうちに引きこもり、安息を得ようという発想をする。
ストア主義の限界は、現実に存在するものに目を向けていないことにある。生の充実が欠落しているのだ。真なるもの、善、徳などについて確かに語ってはいるが、それは精神を一時的に高揚させるだけの、退屈なものである。
懐疑主義
ストア主義から一歩進み、現実に目を向けたのが懐疑主義である。
そこにおいて意識されるのは、事物の否定だ。最初は確たるものだと思っていた事物が否定される過程を、ひたすら観察することになる。一方、その否定の中で、それを観察する側にいる我、というものは確たるものとして存在する。こうして、心の平静を得ることになる。
不幸な意識
懐疑主義では、消え去る事物と確固たる自己の間を行ったり来たりして、その両者が統合することはなかった。この矛盾を意識するのが、不幸な意識である。
これは、両者が実は同一のものである、という真の認識に近づくことになる。消え去る個々の事物と、確固たる自己をつなぐ中間に存在するものについて、徐々に意識することになるわけだ。それは、実践的には、その中間にあるものに、我意、決断、といったものを投げ出す。私の持つ自分のこだわりに意味なんて無い、なすがままに任せよ、という自己を放り投げる境地だ。また同時に、個物についてのこだわりも投げ出すことになるだろう。外的な所有物を諦める、という形でだ。宗教者の境地と言ってもいいかもしれない。
理性へ
ここでは、自分の意志を他者の意志とし、個別的なものを放棄して普遍に至るということを行っている。我にとらわれる段階から一歩進んでいるわけだ。
ただ、この段階では、未だ自己と対象との区別を廃棄しているわけではない。これを自覚するのが、理性の過程である。
今回のまとめ
- ヘーゲルの世界観
- ヘーゲルは意識の発展史として歴史を捉えている
の二点を抑えておけば十分だと思われる。
ヘーゲルの世界観は、個物の欲望を基礎に置いたもの。スピノザの世界観と似ている。ただ、カント的な二元論を前提にしていると、「1.意識」の過程を経由し、「外的に存在するものをなぜ把握できるか」について解決しておく必要があったということなのだろう。
歴史的な段階について考察してたり、人間の基礎に欲望を置いていたり、社会の形成について語っていたりと、内容それ自体を見れば唯物論的だ。ヘーゲルがカントの二元論を前提とし、それと整合性を合わせようとして認識論から開始したため、用語でも、理論でも、無駄にわかりにくいものになっているのではないか。唯物史観が出てきて、ヘーゲルを逆立ちした唯物論者だといって批判する理論が出てくるのも当然に思える。