『精神現象学』C 理性
『精神現象学』は以下の構成。
- 意識
- 自己意識
- 理性 ←今回読む箇所
- 精神
- 宗教
- 絶対知
前回までのまとめ
「1.意識」により、「全てが自己である」という境地にたどり着いた。この結果、カント的な二元論で生じることになる「外部にある事物について語ることができるか」という問題が解消される。
「2.自己意識」からはその成果を受け、国家論の話になる。「相手を否定しよう」という本性を持つ人間同士が出会うことで、生命を賭した闘争が行われ、社会が形成される。闘争に勝利したものが主人となり、敗北したものは奴隷となる。
主人には発展性が無いが、奴隷は労働を介して意識を発展させる余地がある。奴隷が成長し、より優れた段階まで自らの精神を発展させて、やがて革命によって主人を打倒する、という世界観を持っているようだ。
ホッブズ、ロック、ルソーの国家論の影響があったり、フランス革命を参考にしてたりはするが、具体的に歴史を追う、という叙述の仕方はしていない。ひたすら「意識がどのように発展するか」に焦点を当てているのが特徴。そのため、発展の原動力が不明で、記述に恣意的、わかりにくい箇所がある。
「2.自己意識」では、以下の段階まで進んだ。
- ストア主義
- 懐疑主義
- 不幸な意識
- 理性
前回最後に到達した「理性」は、「全てが自己である」ことを自覚している段階である。「理性」に到達した自己意識がどのような振る舞いをして、次の「精神」に至るかが、今回読む箇所で書かれる。
「精神」とは、個を超えた普遍的な意識である。我々が物事について考えるとき、個人の立場ではなく、民族、あるいは国家といった普遍的な立場で考えることがある。これをヘーゲルは、「精神」と呼んでいるのだ。
「3.理性」の概要
「3.理性」は、以下の構造になっている。
A.観察する理性
B.理性的な自己意識がじぶん自身をつうじて現実化されること
C.自身にとって、それ自体として、それ自身だけで実在的である個体性
この三つは相互に連関していない。
理性から精神に至る過程として、A~Cの三つのルートをヘーゲルが思いつき、それを載せたということのようだ。
A: 色々な対象を観察するが、最終的に「観察する」という立場が誤りだと気づく→精神へ
B: 国家内で個人が持つ道徳が、やがて普遍的なものに変化する→精神へ
C: 仕事に従事している中、全体を縛る普遍的な法則の存在に気づく→精神へ
「1.意識」ではまずまず、「2.自己意識」ではそこそこ、整理して議論をしていたが、「3.理性」の議論はかなりとっ散らかっていて、文章的にも読みにくい箇所が多い。草稿段階の不完全なものをそのまま載せたような叙述になっている。
A 観察する理性
観察する理性は、次の段階をたどる。
- 外部のものの観察
- 自己
- 心理学
- 人相術、頭蓋論
外部のものの観察
最初は、外的に存在するものの分析を行う。
有機体と非有機体の区別、神経システム、筋肉システム、内蔵システムという有機的な体系の把握、といったように段階を経ていき、普遍的な生命一般の内に個別の生命がある、という認識に至る。だが、それ以上に進むことができず立ち止まり、自己自身に向かうことになる。
自己
ここでは、自己の思考の諸法則を考察することになるが、すぐに限界に行き当たる。ここで見いだされるものは、ただの形式でしかなく、内容を欠いているからだ。
心理学
なぜここまで失敗したかというと、自分と対象とを分けて考察していたからだ。そこで、この両者の関係性の考察がなされることになる。それが心理学だ。
だが、それは以下のジレンマに行き着くことになる。
- 全体を優先する思考:自己を全体に適合しようとする主体として、人間を捉える。例えば既存の習俗、習慣、思考様式に自らを適合させるように
- 個を優先する思考:自己に適合するよう、全体を作り変える主体として、人間を捉える
人間は環境に規定される存在であるが、同時にそれを変化させる主体でもある。「環境に規定される」という点だけで説明することには無理があるが、だからといって「変化させる主体」という点だけで説明することもできない。こうして、心理学もやはり失敗することになる。
つまり個体は、じぶんに流れこみ影響を与える現実の奔流を、そのなすがままにさせておくか、あるいは個体がその奔流を断ち切って?倒するか、そのどちらかなのだ。かくてしかし、心理学的必然性なるものは一箇の空虚なことばとなる。だから、そのような影響を有するとされたものについても、否みようもない可能性が現にあるのであって、要するにそれは影響をもたなかったかもしれないのである。
人相術、頭蓋論
心理学が失敗したのは、「根源的に規定されながら、それ自体が自由に行動するもの」である人間を、うまく説明できなかったからである。
この条件を満たすものとして、身体がある。身体は、周囲の状況によって成立したものであり、なおかつ、人間が自由に動かして決定できるものである。ここから、人相術、あるいは頭蓋論が生じる。
だがこれも、考察が進むことで妥当性を失う。
ここで言う身体は、その領域を広げることができる。人間は、話し、文字を刻み、加工する等の方法で、外的なものに影響を及ぼすことができる。それは、ある面ではその人間の内面を示すものだ。自身の内にある自らの本質を、外的対象のうちに移動することになるのである。「何が自己の内にあり、何が自己の外にあるのか」というそもそもの観点自体が、正当性を失うのである。
B 理性的な自己意識がじぶん自身をつうじて現実化されること
ここでは、国家において個人がどのようにして、道徳的な観念を形成するか、という観点で論じられる。
人倫
最初の段階が人倫である。個と国家とが緊密に結びついている原始的な社会を想定すれば、わかりやすいだろう。
国家は、実体性を持つものとして強く意識されている。かつそれは、法律という仕方で各人を強く縛っている。その法律は、一般に習俗と呼ばれる。
そこでなされる労働は、個人の欲求に従うものであると同時に、国家的なものでもある。何を欲求し、どの労働をするかは、その者の所属する国家に規定されるからだ。そして、その労働は、その労働を行った個人だけではなく、他の構成員も満足させるものになるだろう。そして、この労働を通じて、自身が個ではなく、民族という普遍的な存在であることを見出すのだ。
個体が遂行する純粋に個別的な行為といとなみは、さまざまな欲求と関係している。それらの欲求は、個体が自然的存在者として、すなわち存在する個別性として有しているものである。個体にぞくするこのもっともありふれた機能さえ、それが無に帰することなく、現実性を手にするために、〔個体を〕維持する普遍的な媒体をつうじて生起している。つまり、民族全体の威力によって生起しているのである。しかも、みずからの行為一般について、それがこのように存立する形式だけを個体は、普遍的な実体において手にしているだけではない。同様にまたその内容をも得ているのだ。個体のなすところは、すべてのひとが一般に熟練していることがらであり、習俗である。
道徳
人倫段階の法律には、絶対性が欠けているという欠点がある。そこで命じられることは、特定の集団に通じるものでしかないのだ。
人倫段階においては、個は全体に埋もれていた。だがやがて、個は個としてのあり方を自覚するようになる。そして、あらたに道徳の創造を試みる。
「道徳」とは、普遍的かつ法則を備えたものである。人倫段階とは異なり、最初に善、すなわち「こうあるべきもの」があって、それに個が従属する形になるのだ。
この運動を、ヘーゲルはa b cの三つの段階で分けて記述している。それぞれ
a ゲーテ『ファウスト』
b シラー『群盗』
c セルバンテス『ドン・キホーテ』
をモチーフにするという、凝ったことをしている。
a 快楽と必然性
道徳を実現しようとする行為は、壁にぶち当たる。道徳を説いたからといって、民族全体が変化するわけではないからだ。世界は必然的なものと映り、無力感に陥るだろう。
それに、たとえ自身の説いた善が実現したとしても、満足を得られるわけではない。実現した善は自己の手を離れ、現実に属するものになってしまう。自らが為したことが、圧倒的な威力として自分自身に跳ね返ってきてしまうのだ。
こうして、自身のうちに疎遠なものを意識し、激昂、焦燥、錯乱の状態に至ることになる。
ここで生起している移行は、「一」という形式から普遍性という形式へのそれである。移行はつまり、ひとつの絶対的な抽象からもうひとつの絶対的抽象へ、純粋な対自的存在〔自立的存在〕にぞくする目的から──そのような存在は他者たちとの共同を投げすてているものだ──純粋にその反対となるものへ、しかしそのことでおなじく抽象的な自体的存在であるものへと生起している。この件は、かくてその現象からすると、個体がただ没落し〔その根拠へといたり〕、個別的なありかたの絶対的な儚さが、やはり酷薄で、しかし継ぎ目のない現実に突きあたって砕けてしまったかのものであるように見える。──個体も〔とはいえ〕意識であるかぎり、じぶん自身とじぶんとは反対のものとの統一であるから、この没落はそれでもなお個体に対し存在している。個体が目的とし、また実現したところも個体に意識されている。それは個体にとって本質であったものと、それ自体として実在であるものとのあいだの矛盾についても同様である。個体が経験するのは二重の意味であって、その二重の意味は個体がなしたところにふくまれている。個体のなしたこととはすなわち、みずからの生命レーベンを受けとることであったが、個体が生命を受けとったことによって、しかし個体はむしろ死を掴んでしまったのである〔ゲーテ『ファウスト』〕。
b 心情の法則とうぬぼれの狂気
一歩先の段階に進むと、aで感じた必然性とは、実際には他のものが意図した成果(心情の法則と呼ぶ)だと気づくことになる。全ての者は、自分の持つ心情の法則を実現しようとしている。それがせめぎあい、妥協の末に成り立っているのが、現状の法律であることに気づくわけだ。
心情の法則にとってこの必然性は矛盾しており、その必然性による受難が目のまえにある。それらを廃棄することへと、したがって個体性は向かっていることになる。個体性はかくてまた、もはや先行していた形態のように浅薄なものではない。つまり、個別的な快楽のみを意欲することがない。むしろ高邁な目的をいだく真摯なありかたをそなえたものであって、その求める快楽は、自身の卓越した本質を呈示すること、人類の福祉をつくり出すことにある〔シラー『群盗』〕。
c 徳と世のなりゆき
今までは、個としての立場から法律を追求していた。やがて、個という立場を廃棄する段階に至る。これが徳だ。こうして、「心情の法則」は「徳」にかわり、「必然」は「世のなりゆき」となる。個が廃棄され、徳は真の徳となり、またそれまで必然と思われていたものも、「世のなりゆき」というそれなりの根拠をもった可変的なものにかわるわけだ。
だが、徳の段階に到達したとはいっても、それを実行するのはやはり個である。それゆえ、これは世のなりゆきに敗北することになる。
じっさいのところ「徳の騎士」〔たとえばドン・キホーテ〕にとってみれば、じぶん自身の行為であり、たたかいであるものはもともと見せかけのたたかい〔八百長〕であって、徳の騎士といえどもそれをまじめに〔真剣な勝負と〕考えることができない。なぜなら、この騎士がじぶんの真の強さとして恃むところがあるのは、善なるものは自体的にそれ自身だけで存在するものであり、つまりは自身を完遂するものであるはず〔である以上、たたかうまでもない〕という消息だからである。──だから見せかけのたたかいということになるのであって、騎士はそれをまじめに受けとってはならないことともなるのである。騎士が敵の喉もとに突きつけ、じぶんにも突きつけられていると思うものも、それが磨りへり、傷つくことになるものも──騎士はじぶん自身の側でも敵の側でも、そのおなじものを懸けていることになる──善なるものそのものであるはずもないからだ。
C 自身にとって、それ自体として、それ自身だけで実在的である個体性
ここでは、仕事に着目した論述をしている。
a
人間は労働行為により、自己の持つ本性を、外的な事物の中に実現することができる。
そうしてできた成果は外的なものであるがゆえに、他の者も活用することができる。例えば、自分が作り出したものでなくても、それを自分のものだと主張することができるわけだ。
初期の段階においては、人間は労働行為において何が重要なのかについて、明確な意識を持っていない。その行為自体に意味を見出すならば、成果について気にかける必要もなく、それを他の者のいいように任せるだろう。意識は、その行為に意味があるのか、自分自身に意味があるのか、為した事柄に意味があるのか、といったように逡巡することになる。
だがやがて、労働は個人だけで為されたものではなく、自分を含むあらゆる人々によって実現されたものだと気づくことになる。
ある個体性が、かくてなにごとかを実現しようとする。そのばあい当の個体性はかくてまた、或るものをことがらとしたかのように見える。個体性は行為し、そのことで他者たちに対するものとなる。その個体性にとって問題なのは、現実であるかに見えよう。他者たちはしたがって、くだんの個体性の行為をことがらとしてのことがらに対して関心をいだくものと考え、その目的は「ことがらそれ自体が実現されることである」ととらえて、そのことがらを実現するのが最初の個体性であろうと、他者であるじぶんたちであろうと関係がないものと受けとるのである。他者たちはこうして、当のことがらをじぶんがすでに成しとげていると指摘したり、あるいはそうでなければ、じぶんたちの側から助力を申しでて、じっさいそうしたりもする。そのようなことがあれば、前者の〔個体性の〕意識は、その意識はそこにいるものと他者たちが思いこんでいた場所から、もはや外に出てしまっている。すなわち、じぶんの行為といとなみこそ、ことがらにさいしてくだんの意識の関心を惹いているところである。
だからことがらそのものは普遍的なものでもあり、その普遍的なものは、このようにすべてのひとびとの行為であり、おのおののひとの行為であるかぎりでのみ、一箇の存在である。それがひとつの現実であるのは、「この」意識が現実を、みずからの個別的な現実であるとともに万人の現実であると知っていることにおいてである。純粋なことがらそのものとは、さきにカテゴリーと規定されたものなのである。つまり〈私〉である存在であり、存在である〈私〉である。
b
私の周囲にあるものは、私の所属する集団の労働の成果であり、その集積物である。ここから、「人倫的実体」が意識されることになる。
そこには、各人を縛る諸法則が存在する。かつ、各自はそれについて自覚しているだろう。各人がこれに基づき、「何が正しいか」という立法行為をする。だが、法則は普遍的なものでなければならないのに、具体的なことについて判断を下すというのは矛盾だ。こうして、立法行為は不可能となり、「ある内容が法則たりうるかどうか」を判断する査法行為に切り下げられることになる。
こうして、意識にとって対象となるものは、「真なるものである」という意義を有している。それが存在し、妥当するのは、それ自体において、またそれ自身に対して存在し、妥当するという意味にあってのことなのだ。意識にとっての対象は絶対的なことがらであり、それはもはや対立に──確信とその真理、普遍的なものと個別的なもの、目的とその実在性といった対立に──煩わされることがない。かえって絶対的なことがらが現に存在するのは、自己意識の現実的なありかた(Wirklichkeit)ならびにその行為としてである。このような絶対的なことがらがそれゆえ人倫的実体であり、その実体にかかわる意識は人倫的意識なのである。
たほうじっさい、ことがら自身の本性からあきらかとなることがらがある。普遍的で絶対的な内容は断念されざるをえないということだ。単純な〔人倫的〕実体には──その本質は単純なものであることである──、どのような規定されたありかた〔限定性〕も、その実体において定立されるには相応しくないからである。
c
この査法行為でも、やはり矛盾が生じる。
ヘーゲルは、「所有」という問題を取り上げて、それが矛盾する様を描き出す。「誰も使ってない土地を占有すること」とは適法だと判断されるが、これは同じく適法だと判断される「全員が平等であるべきである」ことと矛盾してしまう、と。
この矛盾がなぜ生じたかというと、判断主体が個人だったからだ。個別的な意識と、普遍的な意識とを一緒にして考察したため、矛盾が生じたのである。
こうして、判断主体は個から普遍的なものへと移り変わり、恣意的だった法則は真の法則となる。もはや、「それがなぜそうなのか」を問われることの無い、絶対的な法則になるのだ。
──問われているのが、「所有(Eigentum)が存在すべきことは絶対的な法則であるべきか」であるとしよう〔ルソー的な問題設定〕。「それ自体として、それだけで」(an und fur sich)というのは、他の目的に対する有用性のゆえにではない、ということだ。(――中略――)事物が無主であることのもとで、しかしまたまったく無主であることが考えられているわけではなく、むしろ当の事物は個別者の必要(Bedurfnis)にしたがって占有に帰するべきであり、しかも貯蔵されるためではなく、ただちに使用されるために占有に帰するべきである〔とも考えられている〕。いっぽうこのようにまったくただ偶然によって、必要のみを顧慮することは、意識をともなう存在者の本性に──ここで問題となっているのはそうした存在者にかぎられる──矛盾している。(――中略――)この場合にはそこで生じる不平等と、意識の本質とがたがいに矛盾する。意識にとっては、個別者どうしのあいだの平等が原理となるからである。
──したがって、私が或ることがらにかんして、そこに矛盾を見いださないという理由をもって、それが法であり正義であるのではない。むしろ法であり正義であるがゆえに、それは正しいことなのである。