弁証法とはなにか

三つの弁証法

弁証法という言葉はよく使われるが、その意味を説明できる人は少ない。エンゲルスがたびたび弁証法について言及しており、その箇所を読んだ人も多いとは思うが、それだけで理解するのはまず無理だ。

哲学が認識しなければならない真理は、ヘーゲルでは、ひとたび見いだされたら暗記しておきさえすればよいというような、できあがった教条的な命題の寄せあつめではもはやなかった。真理はいまや認識の過程そのもののなかに、学の長い歴史的発展のなかにあった。この学は、認識の低い段階からもっと高い段階へつぎつぎにのぼっていくのであるが、いわゆる絶対的真理を発見して、もうそれから先へはすすめず、手をこまねいて、得られた絶対的真理をおどろき見つめる以外にはもうなにもすることがないという、そういった点にいつか到達することはないのである。そして、哲学的認識の分野においてそうであるように、他のどの認識の分野でも、また、実践的行為の分野でも、そうなのである。(エンゲルス『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』)

古代ギリシアの哲学者たちはみな、生まれながらの、天成の弁証家であって、じっさい、彼らのうちで最も広い学識の持ち主であるアリストテレスは、すでに弁証法的思考の最も根本的な諸形式を研究したのであった。これに反して、近世の哲学は、そのなかにも弁証法の輝かしい代表者(たとえば、デカルト、スピノザ)がいたことはいたが、とくにイギリスの影響によって、しだいにいわゆる形而上学的な考え方にはまりこんでしまい、一八世紀のフランス人もまた、すくなくともその専門的な哲学的著作では、ほとんどまったくこの考え方に支配されていた。(エンゲルス『反デューリング論』)

弁証法の理解が難しいのは、「ヘーゲルの著作が難解で、きちんと読んだ人が少ないこと」「ヘーゲル理解にも弁証法理解にも、相当な哲学史的知識が必要になること」「弁証法という言葉自体が複数の内容を含んでいること」が理由だと思われる。

まずは、弁証法が含む複数の内容について解説しよう。弁証法には、

  • 認識の弁証法:ソクラテス、デカルト、スピノザが用いた伝統的なもの
  • 自然の弁証法:物質が認識に模した運動をしているというもの。ヘーゲルが発明
  • 歴史の弁証法:歴史の発展に必然性を認めるもの。ヘーゲルからマルクスが観念論的要素を取り除き、体系化

がある。

スピノザの表象論

一般的概念

認識の弁証法を理解するには、一番本質的な議論をしているスピノザを理解するのがいいだろう。

我々は、特定の対象について一般的概念を持つ。例えば「椅子」という言葉を聞けば、漠然と「椅子」のイメージを思い浮かべることができるし、知り合いの名前を聞けば、その人の風貌なり声なりをイメージすることができる。

ここで実際に起こっていることは、「過去にその対象と出会った時の状況を、全て同時に想起した状態」である。一度しか会ったことのない人間であれば、そこで表象するのは一度きりの記憶だ。顔つきや表情とともに、着ていた服、時間帯、自身の身体的な状態といった、出会った時の状況が鮮明にイメージされるだろう。しかし見知った人間の場合、イメージされる表象は膨大になる。このとき、どの表象にも共通する、顔つき、背丈、声といったものは明確に。服装、髪型といったその時々で異なるものは、曖昧にイメージされることになる。

真偽

我々は多くのものについて、このような一般的概念を形成している。そして、個々の対象に出会った時、その一般的概念を想起する。

一般的概念の通りに対象が動けば、その一般的概念は真だったことになり、逆にその通りに動かなければ、その一般的概念は偽であったことになる。観念の真偽とは、「想起した一般的概念の通りに対象が動くか、否か」を意味するのだ。

そしてこの真偽により、自身の行動が適切になるか否かも決まってくる。それが偽である場合、実際には危険であるにも関わらず近づいてしまう、自身にとって有益であるにも関わらず遠ざけてしまう、不適切な対応をとって自分が不利になる、ということが起きてしまうわけだ。

認識の弁証法

以上から、二つのことが導かれる。

学習

学習の本質は、一般的概念を真に近づけることである。

これは、個々の対象の経験を積み重ねることで実現できる。例えば誰かにはじめて会った時、たまたま相手の機嫌が悪かったなら、その人は常に機嫌が悪い人だと思うかもしれない。たまたま相手が喋らなければ、無口な人だと思うかもしれない。だが、何度も出会うことでその思い込みは解消される。想起する一般的概念が、より多くの経験を含むものになるからだ。

世界には、原理が不明なもの、どう対応していいかわからないものが多数存在する。それら個々の対象について、真の一般的概念を形成することで、脅威となるものを減らすのだ。

議論における一致

議論において一致する方法も導くことができる。

「はじめから相手と一致する気がない」といった場合をのぞけば、各人の意見の相違は一般的概念の相違、すなわち対象についての経験の相違に起因する。ある人は、その対象に接する機会が少なかったため一面的な経験しか有していない。別の人は、対象に接する機会が多かったため、多面的な経験を有している。この差により、同じ言葉で議論をしても、実は違ったものを想起している、という事態が生じる。

この相違は、経験の差を埋めることで解消される。相手の持つ情報を整理し、相手が持たない情報を与えれば、一般的概念は一致し、議論における対立も解消されるだろう。

ソクラテス、デカルト、スピノザ

弁証法は誰もが持つ能力

「対象について理解するには、漸次的に経験を積み上げる必要がある」「意見の対立は知識の相違に基づく」というのは、誰でも知っていることである。仕事を行うのにしろ、わかりやすい文章を書くのにしろ、料理を作るのにしろ、経験から学ぶことは誰でも普段から行っているはずだし、議論の際には相手と一定の情報共有をしようとするはずだ。

だが、これを突き詰められる者は稀である。それは、学習の際に個性、ひらめき、思索といった精神的な要素を一切切り捨て、全てを技術に還元すること、議論の際の人格、感情、思い、といった相手への配慮は本質ではないと割り切り、全てを情報の問題に還元することを意味するからだ。

理論的な考察を通し、この能力を突き詰めて方法論にまで昇華したものが、弁証法だといえるだろう。

ソクラテス

そのような突き詰めを行った一人がソクラテスだ。ソクラテスは、実践的な議論の手法として弁証法をまとめている。それは一対一を想定した、相手の取りうるあらゆる議論手法を予測して作られた型であり、どれだけ敵対的な相手であっても同意を奪取することができる。

その手法は、「相手の言葉と相手が使う原理を確定する」「それを利用して相手に同意を強いる」というのが基本である。また、「個々の段階で、一致事項を相手に言明させる」「大衆のいる場でのみ議論を行う」「議論の途中で大衆を意識させる」「議論が成り立たないのなら、私はいつこの場を去ってもいいという立場を取る」「長い演説を防ぐ」等、基本の型から外れようとする事態を予め想定し、対処法を最初から色々と打っている。

ソクラテスがこの手法を使い、敵対的な相手と議論をしている様子は、『ゴルギアス』といったプラトンの初期対話篇で見ることができる。

デカルト

デカルトも議論の手法として利用している。懐疑論者を相手にし、懐疑論者の言葉と原理を使い、相手の同意を奪取するということをしている。

また、この手法をはじめて理論化したのがデカルトだ。議論には、相手の言葉と原理を利用する「総合的方法」と、自分が発見した道筋をそのまま語る「分析的手法」がある。「総合的方法」は、同意を奪取するにはふさわしいが、相手の「知りたい」という気持ちを満たさないという欠点がある、としている。

総合は逆に、正反対の、いわばア・ポステリオリに問われた途によって、なるほど明晰に、結論されたところのものを論証するものであって、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用します。が、それは、帰結のうちの何かがこの総合に対して否定されることがあるとするならば、そのものが先行理由のうちに含まれているということをただちに示さんがため、そしてこのようにして読者から、彼がどれほど敵対的であっても頑迷であっても、同意をもぎとらんがため、なのではありますが、これは、分析のように、学び知りたいと願う心を満たし鎮めるものではなく、それというのも、事物が見つけ出されたその仕方を教えることが無いからです。(『省察』第二答弁)

スピノザ

スピノザも、デカルトがまとめた「総合的方法」を議論の手法として採用している。デカルトが平明な仕方で叙述したのに対して、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖による叙述をしたのが特徴だ。

というのは、彼は「第二駁論への答弁」の終りのところで、不可疑的証明方法に二種類あることを認めております。一は分析的方法で、それは「対象を方法的に、そしていわばア・プリオリに発見する真の道を指し示す」ものであり、他は総合的方法で、それは「定義、要請、公理、定理及び問題の長い系列を用い、従ってそれは人がそのいずれかの結論を否認する場合、その結論が前提の中に含まれていることを直ちに示すことができ、このようにしてどんなに反抗的で強情な読者からも同意を奪取することができる」ものなのであります。(『デカルトの哲学原理』序)

ヘーゲル

学習の側面において、弁証法をまとめたのがヘーゲルだ。

学習の本質は、次のように整理できる。

  1. 対象に会った時、一般的概念を想起する。それはこれまでの経験に基づいたものであり、この段階では確たるものとして現れている
  2. 対象が、一般的概念から外れた行為をする。これにより、一般的概念が偽であることが判明する
  3. 次にその対象に出会った時に想起する一般的概念は、この事態を含んだものになる。こうして、一般的概念は真に近づく

これの表面だけを見ると、以下のようになる。

  1. 確たる一般的概念が存在する
  2. その一般的概念を否定するものと出会う
  3. 最初にあった一般的概念は否定されるが、それは単純な否定ではない。否定したものと統合され、一般的概念は真に近づく

このように、ヘーゲルが認識において認めた弁証法と同じものになる。この点で、ヘーゲルは伝統的な認識の弁証法を受け継いでいると言えるわけである。

認識以外の領域への拡大

弁証法を認識以外の過程へ拡大したのは、ヘーゲルが最初である。

この拡大が可能になったのは、以下の理由による。

  • 精神が優位する二元論を採用していた
  • この枠内で物質を説明した

精神が優位する二元論は、カントが確立した。それは、「私は自由にものを考えられるし、自由に判断ができるし、精神が先に存在するのは当たり前でしょ」という素朴な発想をしたヒュームに由来するものだ。カント以降はこの立場が主流となり、フィヒテ、シェリングといったドイツ観念論者がこの立場を引き継ぐことになる。ヘーゲルもその系譜にいるわけだ。

この立場では、全てのものが精神の法則に還元されることになる。例えばカントであれば、空間も、時間も、自然法則も、数学も、ありとあらゆるものが人間の精神作用によって生まれたものだ、ということになる。

『精神現象学』では、「感覚的確信(ここ、それ)」「知覚(事物)」「悟性(力)」と、それぞれについて考察し、これらが精神によって法則を与えたものであることを導いた。これ自体は、カントが行ったことと同じだ。ヘーゲルはさらに、その過程の内に運動を発見した。こうして、物体の運動は、思考の運動を模したものである、という弁証法にたどり着くのである。

認識以外への適用は妥当か

私は、認識の弁証法は正しいと思うが、自然の弁証法については根拠がないと思っている。

まず、自然に弁証法が適用されたのは、ヘーゲルがカント的二元論を採用していることに由来するが、カントの立場は特に普遍的に正当なものではない。哲学史に無知だったヒュームの素朴な思い込みをベースとしたものでしかないからだ。ヒューム以前は、このことは自明視されておらず、決定論とどう整合性をつけるかの議論がなされた。その結果、神に自由意志の根拠を求めるデカルトの理論と、唯物論を唱えるスピノザの理論とが生み出される。この議論を回避している点で、ヒューム以降は哲学的には後退している。カント的二元論を普遍的なものとして扱う根拠がない。

また、自然の弁証法は認識の弁証法とも矛盾している。認識の弁証法からすれば、今現在の自身の理解は常に限定的なものである。真の知識というのは、経験とともに漸次的に獲得されるものであり、一度ある真理に到達すればそれで終わりということはない。ヘーゲルがあることを真理だと確信したとしても、それは彼らの経験に規定されたものでしかなく、更新される可能性は常にあるわけだ。

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