『精神現象学』BB 精神

  • A 意識
  • B 自己意識
  • C(AA) 理性
  • (BB) 精神 ←今回読む箇所
  • (CC) 宗教
  • (DD) 絶対知

『精神現象学』の出版過程

本来ヘーゲルは、『精神現象学』と『論理学』をあわせて一冊の書物として出版するつもりだった。原稿を少しずつ送り、諸論から理性の章までは印刷も済んでいた。
だが、途中で『論理学』の出版を見送る。さらに、原稿料の支払いや、残りの原稿の送付を巡ってトラブルが起きる。そこで、できたスペースを埋めるため、理性の章以降の分量が急に増える。そして最後に、本来は単独で出すつもりではなかった『精神現象学』の体裁を整えるため、序文を付け足し、当初のタイトル(『意識の経験の学』)を変更し、章立てをかえる(そのため、Cの下位区分が増える)ということをした。

このようなことをしたため、前回読んだ「C 理性」は、手元にある草稿を適当に詰め込んだような、まとまりのないものになったのではないかと思われる。ちなみに今回読む「BB 精神」も、これほどではないが内容は荒い。

構成

共同体が持つ意識が精神である。

精神には、社会の発展段階に応じて個々の段階がある。そしてそれは、最終的には絶対精神に向かうことになる。具体的には

  1. ギリシャのポリス
  2. 帝政ローマ(ローマ法の世界)
  3. フランス革命から恐怖政治へ
  4. 道徳、良心から絶対精神へ

という構成になっている。

ギリシャのポリス

ここで想定されている社会は、家族を基本単位とした民族である。ここには、二つの秩序が存在する。

1つが「人間の掟」だ。これは、個々の家族において自然に生じる、自己の利害と全体の利害が一致しているという意識である。

現実的な実体として精神はひとつの民族であり、現実的な意識としてはその民族にぞくする市民のものである。この〔市民の〕意識は単純な精神にあってその実在を手にし、自己自身であるという確信をこの精神の現実的なありかたのうちに、すなわち民族全体のなかに有している。しかも直接に民族全体のうちで、みずからの真のありかたを有しているのである。かくてこうなるだろう。ここで意識が真のありかたを手にしているのは、現実的ではないなにものかのうちにではない。一箇の精神のなかで有しているのであり、その精神は現実存在し、妥当しているのだ。
この精神を「人間の掟」と名づけておくことができる。

一方、民族全体に属するものとして「神々の掟」がある。これは、共同体の維持に必要になる、執行権に属するものだ。これによって、労働を各人に割り振り、労働成果を全体に配分する。

これに対抗していっぽう登場してくるものが、もうひとつの威力である「神々の掟」にほかならない。人倫的な国家の威力(Staatsmacht)は、みずからを意識しているふるまいという〔統治の〕運動として、人倫の単純で直接的な実在において、その対立項を有するからである。現実的に普遍的なありかたとして国家の威力は、個体的な自立的存在に対する権力である。

戦争による崩壊へ

国家は自らを維持するために、戦争を恒常的に起こす必要がある。そうすることで、共同体としての意識を構成員に植え付け、それが雲散霧消することを回避するのだ。

かくて当の部分が意識しつづけることになるのは、じぶんたちが生命をひとえに全体のうちで手にしているという消息である。共同体とはしたがって一面では、人格的な自立性と所有の体系、人格的権利と物権的権利の体系として組織化されるだろう。同様に労働にさいしてのさまざまな様式、しかもさしあたりは個別的な目的のためのそれ──獲得と享受の様式──を、固有の団体に分肢させ、自立的なものとする。〔他面では、国家という〕普遍的な団体が有する精神は単純なありかたをしており、みずから単独化しようとするこれらの体系にとっては、その否定的な本質である。それらの体系がこういった単独化のうちで根を下ろし、固定的なものとなってしまえば、全体はばらばらとなり、精神はちりぢりに飛散してしまう。これを避けるため統治はくだんの体系を、その内奥からときとして震撼させなければならないが、それは戦争をつうじてなされるのだ。つまり、体系には整序された秩序と、自立性の権利が帰属するけれども、それを戦争によって蹂躙し、攪乱しなければならない。たほうでは個体に──個体は体系のうちに没入して、全体から引きはがされ、不可侵の自立的存在(Fursichsein)と一身の安寧を追求している──例の〔祖国防衛という〕労働を課して、その労働のうちでみずからの主人つまり死を感得させる必要がある。

だが、戦争は個人と全体の関係性が変化させ、結果国家状態の解消につながる。戦争により、これまで全体の中に埋もれていた個が突出するからだ。その個は、やがて「人間の掟」「神々の掟」を破壊することになる。

戦争こそが〔共同体にとって本質的な〕精神〔をかたちづくるもの〕であり、その〔不可欠な〕形式であって、その精神と形式のなかで人倫的実体の本質的な契機、すなわち人倫的な自己存在(Selbstwesen)の有する、あらゆる現にあるものからの絶対的な自由が、その現実的なはたらきと確証とにおいてありありと存在するのである。戦争は一面では個別者の所有の体系と人格の自立性の体系に対し、同様にまた個別者の人格性そのものに対して、否定的なものの力を感じさせる。他面では戦争のなかで、ほかでもなくこの否定的な存在〔個別者〕が高められ、全体を維持するものとされるのである。勇敢な若者に、女性的なものは欲望をいだく。だからそれは破滅の原理として抑圧されていたけれども、その原理が陽の光のもとに歩みでて、価値あるものとなる。いまや自然的な力と、幸運の偶然としてあらわれてくるものこそが、人倫的実在の存立と精神的な必然性とを決するのである。強さと幸運とに人倫的実在の存立がかかっている以上、それが没落してゆくこともすでに決定されているのだ。──さきにはただ竈の神々のみが没落して民族の精神となったが、ここでは生き生きとした民族の精神のさまざまが、それぞれ〔個々の民族という〕個体的なありかたを取ることをつうじていまやおなじく没落して、ひとつの普遍的な共同体となる〔ローマ帝国の成立〕。その単純な普遍性は精神を欠いて死んでおり、そこで生き生きとしているものは個別者としての個別的な個体である。こうして精神にぞくする人倫的な形態は消失してしまい、べつの形態が取ってかわってその場所にあらわれるのである。

帝政ローマ(ローマ法の世界)

こうしてギリシャのポリスは崩壊し、ローマ帝国が成立する。それは普遍的な共同体であり、全体が個別者を結びつける力は希薄だ。支配の中心点にいるのはローマ皇帝であり、権力を振るうことでこの体制を維持しようとする。

個別者にとって、共同体全体は自分とは疎遠なものとして現れる。自己の行う労働は、自己の手の届かないもののためになされる疎外労働として意識されるだろう。

外的な現実はむしろ自己の労働でもある。けれども積極的な労働というわけではなく、自己にとっては否定的な労働〔によって生まれたもの〕なのである。現実がその現存在を獲得するのは、自己意識がじぶん自身を外化すること、みずからの実在を喪失すること(Entwesung)によってであるからだ。そういった外化と喪失は、荒廃のただなかにある自己意識に──この荒廃が法の世界を支配している──、枷を外された始原的なものがくわえる外的な暴力であるかにみえる。

疎外労働は、権力、あるいは富という形で実体化される。我々が労働をすればするだけ、それらは大きくなり、そして我々を圧倒することとなる。

国権とは単純な実体であると同時に、普遍的な仕事であり、絶対的な「ことがらそのもの」であって、そこでは諸個体にとってその本質(Wesen)が言いあらわされており、つまり個体それぞれの個別的なありかたが端的にいって、ただじぶんたちが普遍的なありかたをしている意識にほかならない。国権は同様にまた仕事であり、単純な結果であって、しかもその結果からは、それ自身が、諸個体がなすことから由来するものである消息が消えうせている。

財富が受動的なものであり、要するに空しいものであることはたしかであるにしても、それはやはり普遍的な精神的実在ではある。同様にまた不断に生成してくる結果、万人の労働と行為とから生まれでてくる結果であり、そればかりか結果はふたたびあらゆるひとの享受へと解体してゆく。享受にあって個体性はたしかにそれだけで(fur sich)存在するもの、あるいは個別的なものとして存在するものとなる。とはいえこの享受そのものが普遍的な行為の結果であるだけではなく、享受は相互的なしかたで、万人の普遍的な労働と享受とを生みだすのである。

個別者の意識は、ここでは二つに分裂している。一つが現実の国家であり、もう一つが彼岸の国家だ。我々が現実に経験している国家とは別に、その労働の成果を吸い上げ、我々を支配する別個の国家が意識される。それは静的で、我々とは遠く離れたものとして意識されるわけだ。その中心には皇帝がおり、その周囲には僧侶階級がいる。それが、信仰という形でこの体制を維持している。

だが、疎外労働の存在は、自己とは別個のものを研究しようという衝動につながる。そこから生じた自然科学や啓蒙思想が、信仰を否定し、やがては体制を打倒することになるのだ。

くだんの大衆は僧侶階級の欺瞞の犠牲となっている。僧侶階級は嫉妬深い虚栄心から、じぶんたちだけが洞察を所有しつづけていたいものと思い、またその余の利己心をも押しとおして、しかも同時に専制政治と結託するにいたるのだ。専制政治というものは、概念を欠いた総合的な統一を、実在する国とこの理想の国とのあいだで打ちたてたものであって──なんとも奇妙に一貫性を欠いた存在なのだ──、それは大衆の不出来な洞察と、僧侶どもの陋劣な意図のうえに君臨して、その双方をまたじぶんのなかで統合している。民衆の愚かさと混乱に乗じて、手段として欺瞞に満ちた僧侶階級を使いながら、その両者を軽しつつも利益を引きだす。つまり安定した支配を手にいれ、情欲と恣意とを満たすのだ。

フランス革命から恐怖政治へ

こうしてできた社会は、一般意志によって統治される。これは真に全ての人民の人格を統合したものであり、ローマ帝国がそうだったようによそよそしいものではない。

世界はこの自己意識にとって、端的にじぶんの意志〔からなるもの〕であり、この意志は「一般意志」なのである。しかもその意志は、空虚な思想ではない。つまり意志とはいっても、暗黙の同意、あるいは代表を介した同意によって定立された意志といった、空虚な思想ではない。それはむしろ実在的に普遍的な意志であり、すべての個別者の意志そのものなのだ。意志とはそれ自体として人格性の意識であり、いいかえれば各人の意識だからである。だからこうした真に現実的な意志であるかぎりで、くだんの意志は自己を意識した実在であるべきであって、その実在は万人の、また各人の人格性の実在であるはずなのである。そのけっか各人はつねに〔個々人の意志へと〕分割されることなくいっさいをおこない、その結果また全体のおこないとしてあらわれるものも、各人が直接的に意識しておこなうところとなるのである。

しかし、それは執行段階になると、個別的なものとなる。それは他の者の排除につながり、絶対主義に陥る。ロベスピエールが行ったように、反対者をギロチン送りにする恐怖政治につながるのだ。

普遍的なものは行為するに至らなければならない。そのために普遍的なものは、個体性という「一」であるありかたを取りもどして、一箇の個別的な自己意識を尖端に立てざるをえない。

道徳、良心から絶対精神へ

道徳

ここに至り、精神は現実を去って思考に向かうことになる。

最初は、義務の遂行を目的とする「道徳」に向かう。

一箇の世界観が、ここに完結している。道徳的自己意識の概念のなかでは、双方の側面、つまり純粋義務と現実とが一箇の統一において定立され、かくて一方も他方も、それ自体としてそれだけで存在するものとしてではなく、かえって契機として、つまりは廃棄されたものとして定立されているからである。

だが、道徳的態度は、現状と「目指すべきもの」との間に乖離が起こり、破綻することになる。

良心

ついで、良心に向かう。これは、結果を気にせずに自身の良心のみに従って行動しよう、というものだ。

この〔かつては知Wissenを名のっていた〕意識は〔いまや〕純粋な良心(Ge-wissen)となって、そうした〔これまで見てきたような〕道徳的な世界表象を軽するにいたる。この意識はじぶん自身のうちで単純な精神、みずからを確信した精神であり、その精神が媒介をくだんのさまざまな表象にもとめることなく、直接的に良心をもって(gewissenhaft)行為し、そのような直接的なありかたのうちでみずからの真のありかたに達しているのである。

ただ、個別者として良心的な行為をしているだけでは限界がある。その行為が、他の個別者に何らかの影響を与える場合があるからである。そこで、他の個別者と言葉をかわし、共同で良心に従って行動することとなる。

普遍的な立場から良心による行為をするというのは、一つの究極点であり、それは自らが神であると確信する境地でもある。

良心にはこうして、その崇高さによって至上の権利が帰属する。それは限定〔規定〕された法や、義務のあらゆる内容を超えているからである。良心はかくて任意の内容を、みずからの知と意志とのうちに置きいれる。良心とは道徳的な天才のことであって、その天才は、じぶんの直接的な知から発する内なる声が、神の声であることを知っている。くわえてこの天才はそのような知において、同様に直接的に現にあるものを知るのだから、道徳的な天才とは神的な創造力であり、その創造力はみずからの概念のなかで生動性をそなえているのだ。道徳的天才は同様にまた、じぶん自身のなかで神に奉仕している。その天才が行為するとき、それはじぶん自身のこの神性を直観することだからである。

絶対精神

だが、ここにおいてもやはり、「普遍的な正しいことを押し付ける立場」「個別者として、正しいことを押し付けられる立場」という区別が生じている。そこで、何が善で何が悪かの判断を捨て、相互承認をする段階へ進むことになる。この相互承認が、絶対精神だ。

この「然り」こそが、二重のありかたへと押しひろげられ〔ふたつに分裂し〕た〈私〉が現にあるありかた(Dasein)であり、〈私〉はそのありかたのうちでみずからとひとしくありつづけ、そのうえじぶんを完全に譲渡し、反対物となることのうちで、みずから自身にかんする確信を手にしている。かくして神があらわれ、あらわれるその神は両者の〔〈私〉の〕ただなかにある。そのとき双方は、じぶんが純粋な知であることを知っているのだ。

まとめ

前回の「C 理性」ほどではないが、完成度が高くない。

  • ギリシャのポリス:ギリシア悲劇(『オイディプス』『アンティゴネ』)
  • 帝政ローマ:疎外労働の考察と啓蒙思想の考察
  • フランス革命から恐怖政治へ:ルソー『社会契約論』
  • 道徳、良心から絶対精神へ:思考の運動

というように、それぞれの箇所で論述の材料に使っているものはバラバラで、統一的な説明をしていない。それに、この区分で精神発展の諸段階が描き切れているとも思えない。それぞれのつながりについても曖昧だ。別個に行っていた関係のない論文を、適当に詰め込んだだけに見える。

疎外労働の理論と、社会にはその社会を崩壊させるものが内在するという理論は、マルクスに引き継がれる、ヘーゲルの独自性があらわれている箇所である。ここについては、理解する価値がありそうだ。あとの箇所は、小説なり、ギリシア悲劇なり、ルソーなりからインスピレーションを受けただけのものである。全体の流れを一度確認すれば、それで十分だろう。

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