『精神現象学』CC 宗教 DD 絶対知
- A 意識
- B 自己意識
- C(AA) 理性
- (BB) 精神
- (CC) 宗教 ←今回はここから
- (DD) 絶対知
前回は「精神」まで読んだ。共同体が持つ意識が精神である。精神は、以下の社会の段階に応じて発展することになる。
- ギリシャのポリス
- 帝政ローマ(ローマ法の世界)
- フランス革命から恐怖政治へ
- ドイツ観念論
だが、精神において、個と全体との統一が生じることはなかった。それを実現するのが宗教だ。
宗教には以下の段階がある。
- 自然的宗教
- 芸術的宗教
- 啓示宗教
自然的宗教
a ひかり
認識の原初段階において、対象として私の前に現れ、確定した存在だと思ったものが、その姿を失うという事態を経験する。その経験を繰り返す中で、消えては現れる諸々の対象の背後には「私」が存在し、一定の形態を保っていることに気づくことになる。
それは、純粋で、一切を包括し、全てを満たす、光と重ね合わせてイメージされるものだ。自分が動くことで、闇の中に光が照らされ、対象が浮かび上がるように。これを自分側から見るならば、すべてを照らす「一者」から、多くの対象が流出する、ということになるだろう。こうして、光という最初の宗教が生じる。
b 植物と動物
自己に向けられていた意識は、やがて対象に移ることになる。それは、最初は植物の宗教という形を取る。初期の段階では、対象間において生じている運動は意識されず、静的なもののみが意識されるからだ。
だがやがて、そこにある動的な運動に気づくことになる。対象は互いに相争い、否定しあっており、対象には死が含まれている。こうして、静的な植物の宗教は、動的な動物の宗教へと移行する。
そこで精神は数えきれないほどの数におよぶ精神となり、その精神はより弱いもの、より強いもの、より豊かなもの、より貧しいものへと分裂している。こうした汎神論はさしあたり、そういった精神の原子それぞれが静謐に存立しているかたちを取るけれども、それはやがてみずから自身のうちで敵対する運動となってゆく。罪もない花弁の宗教は、ただ自己を欠いた表象を「自己」について懐くものであったが、その宗教が真剣に戦う生へ、罪責ある動物の宗教へと移ってゆく。
対象同士の闘争は、やがて主人と奴隷の分化に行き着く。そこで奴隷は、労働という創造力を手に入れる。最初の段階では、目の前にあるものに形を与えるだけの制約された創造でしかない。だがやがてその限界を超え、奴隷は工匠となり、それが精神を表す作品を創造することになる。
c 工匠
工匠は、最初は自身が何であるかについては無自覚なまま、本能的に作品を作ることになる。そうしてできるのが、抽象的な作品であるピラミッドやオベリスクだ。
ピラミッドやオベリスクの結晶体、直線が単純なしかたで平面とむすびついたもの、部分の画一的な関係と結合したもの、これらにあっては円が有する共約不可能性が絶滅させられている。それらがこの工匠の作品であり、工匠はそこで厳密な形式にしたがっているのである。形式がたんに悟性的なものである必要があり、そのため形式は、それ自身としては意義をもたず、つまりは精神的な自己にはいたっていない。
工匠はさらに、それを精神に近づける努力をする。それは例えば、ピラミッドの外壁に植物や動物を刻む形で現れるわけだ。今や人々は、自身を動物よりも優位な創造者として意識している。動物の宗教を廃棄し、動物を自身の創造力の及ぶものとして捉え返す。結果、動物の形態を廃棄し、それを象形として扱えるようになる。
さらに精神に近づけるため、自己の内なるものもそこに含めようとする。こうして、自然的な形態と、自己を意識した形態とが混淆したスフィンクスが出来上がる。
工匠がそれゆえ双方を統一するが、それは自然的な形態と自己を意識した形態とを混淆することによっておこなわれるから、かくて生じるのは両義的な、それ自身にとってさえ謎に満ちた存在者〔スフィンクス〕である。そこでは意識されたものが意識されていないものと格闘し、単純に内なるものが多様な形態を与えられた外なるものと格闘して、思想の冥さが表現の明晰さと対をなしつつ、突然ことばを発するにいたるが、そのことばは深遠な、理解しがたい智慧に充ちているのだ。
ここに至って、作品は外なるものであると同時に、内なるものを含むものになる。こうして、工匠は芸術家となり、精神は次の段階へと進む。
B 芸術宗教
a 抽象的な芸術作品
芸術家は、彫刻という形で神を形態化する。今や、神は動物的な形態を脱ぎ捨て、内的で統一的なものとしてあらわれるのだ。だが、彫刻は個別的な作品であり、全体と個との統一はまだ実現していない。
その統一を実現するのが言葉だ。言葉は、個別的なものであると同時に普遍的なものである。それは、讃歌、あるいは祈祷という形を取るだろう。
さきの場合に神は、その創造の闇夜という深みからその反対のもの、つまり外面性へと降りたって、自己意識を欠いた事物という規定を帯びたのである。このより高次の場面とはことばであり、ことばとはそこにある存在でありながら、直接に自己を意識した現実存在なのだ。個別的な自己意識がことばのうちには現にあるけれども、それと同様に自己意識もまたそこではただちに一箇の普遍的な伝播として存在する。つまり、かんぜんに特殊化した対自的存在が同時に流動的なかたちで存在しており、多くの自己のあいだで普遍的に分有された統一として存在している。ことばとは、たましいとして現実に存在するたましいなのだ。
自己意識はこのようにみずからの実在のうちでじぶん自身のもとに存在しているとき、純粋な思考あるいは信心となるのであって、その祈祷の内面性が賛歌にあって同時にそこに在るもの(Dasein)となるのである。賛歌がそのうちに保存するのは自己意識という個別性であり、それが聴きとられる場合には、この個別的なありかたが同時に普遍的な個別性としてそこに現に存在する。祈祷は、万人のうちに点火されて精神的な奔流となり、その流れは多岐多様な自己意識のうちにありながら、みずからの奔流がすべてのひとにとってひとしいおこないであり、単一な存在であるのを意識している。
讃歌は運動を含むが、自己と結びついてしまっている。逆に彫像は、普遍的なものをあらわしながら、運動を欠いている。この両者によって構成され、互いに補いあうものが、祭祀である。
運動が、〔いま挙げた彫像と賛歌という〕両側面のあいだには存在している。その運動のなかで、神の〔ふたつの〕形態がたがいに〔はたらきかけあって〕自身のあいことなる規定を放棄しあうことになる。一方の形態は、自己意識にぞくする純粋に感受する境位にあって運動しているものであり、他方は事物であるという境位のうちで静止している神の形態である。かくて〔双方の形態が〕ひとつであるありかたが現に存在することになるが、この統一が、これらの形態にとってはその本質をかたちづくる概念なのである。こうした運動がかたちづくるものこそ祭祀なのだ。
祭祀においては、占有物を廃棄する供犠が行われる。これは、個別的なものを普遍的なものにするための行為だと解釈されるわけだ。
祭祀の行為そのものがはじまるのはそれゆえ、ある占有物を純粋に供犠することによってである。その占有物を所有者が、一見したところでは自身にとってまったく無駄なしかたで〔地に〕注いでしまうか、あるいはそれを烟にして〔天に〕昇らせてしまうのである。所有者はそのことで、じぶんの純粋意識にとっての実在を眼前にして、所有物を占有し、権利をもつこと、それを享受することを断念し、人格性を、おこないが自己へと立ちかえることを放棄して、行為を折りかえして、むしろそれを普遍的なもの、もしくは実在へと差しもどし、自身のうちへ立ちかえらせない。たほうでは逆に、そのような供犠において同様に存在する実在もまた没落して、その根底へといたっている。犠牲に供せられる動物はなんらかの神のしるしであり、喰らいつくされるもろもろの果実は生けるケレス自身であり、バッカスそのものである。前者が犠牲にされることで死にうせるものは、天上の権利をもつさまざまな力であり、その権利は血と現実の生命に及んでいる。後者の犠牲にあっていっぽう、地下の権利を有する力のもろもろが死にたえる。その権利は血を流さずに、秘められた狡猾な力を持っているのである。
b 生きた芸術作品
祭祀への陶酔は、やがて運動を伴うものを生み出すことになる。
その一つがバッカスの祝祭である。そこでは、収穫した小麦やブドウを飲み食いし、酩酊のうちで自己陶酔し、踊り狂うことがなされる。
もう一つがオリンピアの競技だ。そこでは、鍛錬された肉体が運動する様が見られるだろう。
ここで絶対的精神が自己を意識する生命は、それゆえひとえにパンとぶどう酒の秘儀であり、ケレスとバッカスの秘儀であって、他の神々、ほんらい天上に住まう神々の秘儀ではない。
その者〔の示すの〕は形態化された運動であり、なめらかに鍛練された〔身体の〕仕上げと、流動的な力が四肢のすみずみにまで行きわたったさまである。それはつまり、たましいを与えられた、生ける芸術作品であって、その作品はみずからの美と勁さとを対にして合わせもっており、かくてその〔特権的身体という〕芸術作品に、飾り〔オリーヴの冠〕が──これはかつて彫像を崇めるのに用いられたものだ──賞品として分かちあたえられて、その力と栄誉とが称えられる。その栄誉とはみずからの民族のもとで、石で造られた神に代わって、最高の身体的な表現をかれらの実在にかんして示しているということなのである。
しかし、バッカスの祝祭でもオリンピアの運動でも、個と全体との調和が欠けている。バッカスの祝祭では自己が失われており、オリンピアの運動では、全体が身体の外に出てしまっている。これを統合しなければならない。
c 精神的な芸術作品
これは、民族同士の戦争によって実現することになる。戦争により、一つの全体的民族が形成され、神々もまた一つの秩序の中にまとめられる。こうして生じるのが叙事詩だ。
こうした表象がそこに現にあるところとはことばであって、この最初のことばがエポス〔叙事詩〕そのものなのだ。このエポスには普遍的な内容が、すくなくとも〔神々と全自然と、人倫的世界の全体を包括した〕世界の完全なありかたとして──思想というかたちをとった普遍性ではないにしても──ふくまれているのである。〔叙事詩の〕歌い手は個別的で現実的な者であるけれども、その者がこの世界の主体となることで、そこから世界が造りだされ、またになわれている。
叙事詩は、人倫世界を反映し、普遍的な全体と、個という二つの側面を備えることになる。個が行う労力は全体に吸収され、逆に個を抑圧することになる。それは、個にとっては矛盾として意識される。
個体性の側が努力して労働することも、おなじく無駄な労苦ということになる。なにしろ、例の威力の側がいっさいをみちびくことになるからだ。日もおかず死すべき者たちは虚しいものであるいっぽう、同時に力強い自己であって、普遍的な実在を自身に従属させ、神々を毀損して、神々に総じて現実的なありかたと行為への関心とを貸しあたえる。たほうで逆からいえば、神々は無力な普遍的な存在であり、人間たちからの賜物で養われ、人間たちをつうじてはじめてなにごとかをなす手はずをととのえるとはいっても、神々はやはり自然的な本質であり、あらゆるできごとの素材であって、のみならずまた人倫的な質料であり、行為のパトスである。
神は、かつては普遍性を持っていた。しかし、神々が互いに抗争するなかでその普遍性は失われてしまう。その抗争からは真剣さが失われ、ただの戯れとしてイメージされるだろう。
そこで登場するのが、英雄という個だ。しかし、この英雄について語る歌い手は、自身をその英雄の外部のものとして扱ってしまっている。この分裂を克服しなければならない。
表象の世界〔叙事詩〕にぞくする内容は、それぞれに〔概念の統一から〕解きはなたれて、媒語のなかでたわむれてみずから運動しながら、ひとりの英雄という個体性のまわりに集合する。だが当の英雄は、みずからの力と美をそなえているにもかかわらず、じぶんの生命〔の緒〕が断ち切られるのを感じ、早すぎる死を目前に見てとって悲嘆にくれている。個別的なありかたが自身のうちで確乎とした現実的なものでありながら、その個別性は両極へと排除され、その契機へと分裂して、みずからをいまだ見いださず、統一されてもいないからである。
こうして登場するのが悲劇だ。そこで語り手は英雄の仮面をかぶり、登場人物となる。そこで示されるのは、自己を意識した自分達自身の姿だ。
そこには、現実世界の構造が現れている。例えば人間の法と神々の法の対立が、アンティゴネとクレオンの対立において。知と不知は、アポロンとエリニュエスにおいて。そして、個が知識をつけて、国家が押し付ける不知を乗り越える運動が、知に従い行為した者が、知によって欺かれるという形で現れる。
両義性こそ知の本性なのだから、知の両義性は意識に対しても現に存在し、なんらかの警告がその件について目のまえにあったはずなのだ。巫女の狂乱、〔マクベスにあらわれる〕魔女たちの人間ばなれしたすがた、樹のざわめきや鳥の声、夢等々は、真理の立ちあらわれてくるかたちではなく、警告するしるしである。欺きであることを、思慮が尽くされておらず、個別的で偶然的であることを、知にかんして告げる凶兆なのである。
知と不知の対立は、両方が死に、統一されることで終息する。
行為の運動によって証示されるものは、〔たとえばアンティゴネーとクレオンがふたりながら死んでしまうことで生まれる〕ふたつのものの統一であって、統一は両方の威力がたがいにはたらきあって、ともに没落することで生じ、また自己を意識した〔双方の〕性格がおなじように没落することをつうじてなりたつ。対立するものがたがいに宥和することは、〔両者が〕死ぬことで生まれる地下界のレーテー〔忘却の河に入ること〕である。
こうして登場するのが、自己意識だ。ここにおいて、神々はただの抽象的なものとして扱われる。神々の仮面をかぶりながらも、登場人物は皮肉を口にする。仮面を剥ぎ取り自己が浮かび上がる。そうしてあらわれる自己は、本来の俳優である自己とも、あるいは観客とも区別のつかないものだ。
デモスの普遍性から分離された個別性が原理となり、その原理が現実にあってほんらいの形態を採って立ちあらわれ、かくて共同体を──共同体の秘められた恥辱こそがこの個別性の原理なのだ──公然と僭称し、これをやり繰りするようになる。そのときいっそう直接的なかたちで露わとなるものがやはりコントラストであって、そこでは一箇の観照〔の対象〕としての普遍的なものと、実践がかかわるものとが対照をなしてゆく。露わになっているのはつまり、目的のかんぜんな解放であり、この目的は直接的な個別性にぞくするがゆえに、普遍的な秩序から解きはなたれて、この個別性が秩序を嘲笑するのだ。
普遍性の否定は、一群の掟、義務、権利にも及ぶ。そうして、善にして美なるものを求めようという運動が生じる。
ここでは、人々はみずから自身について確信しており、自分が絶対的な力であることを意識している。芸術的宗教はここで完結し、啓示宗教が登場する。
理性的な思考が神的な実在から取りさってゆくものは、その偶然的な形態である。またそうした思考が対抗するのは、合唱団のふりまわす概念を欠いた智慧に対してであって、それも智慧というものはさまざまな道徳的格言を持ちだして、一群の掟やら一定の義務やら権利の概念やらをみとめさせようとするものであるからだ。これに対して思考はそういったもろもろを単純な理念(Ideenイデア)、つまり善にして美なるもの(das Schone und Guteカロカガティア)へと高めようとするわけである。これは抽象の運動であるけれども、その運動とは弁証法の意識であって、そうした弁証法を〔もともと〕これらの準則や掟といったものもそれ自身そなえているのだから、かくてまた弁証法の意識とは絶対的な妥当性が消失するのを意識することでもある。
ここでは個別的な自己こそが否定的な力であり、この力によって、かつその力のなかで神々とそのさまざまな契機、現に存在している自然ならびにその規定にまつわる思想が消失するのだ。たほう同時にこの個別的自己は消失するという空虚さではなく、みずからを消失というこの空無そのもののうちで維持し、〔なおも〕じぶんのもとで存在し、しかも唯一の現実となるのである。芸術の宗教はこの個別的な自己のなかで完結し、自身のうちへとかんぜんに立ちかえってしまっている。
c 啓示宗教
ここからは、ギリシア世界からローマ帝国の話に移る。そこでは、個が全体と切り離されている事実が意識されている。
法状態にあっては、こうして人倫的な世界もその世界の宗教も、喜劇の意識のうちへと沈みこんでおり、不幸な意識が、このような喪失全体の知と化している。自己価値が法状態における直接的な人格性にぞくするとしても、そのような価値が不幸な意識にとっては喪われ、価値が媒介され、思考された人格性にぞくするとしても〔ストア主義〕、そういった価値も同様にまた失われている。神々の永遠の掟に向けられた信頼も口を噤み、特殊なものどもを知るものとされた託宣もおなじく沈黙している。彫像はいまや亡骸となり、それを生かしていたたましいが遁れさって、おなじく賛歌からもその信仰が逃げさり〔ただの〕ことばとなっている。神々の食卓からは、精神的な食べ物と飲み物のすがたが消え、信仰をあかす競技や祝祭をひらいても、意識にとって〔すでに喪われて〕立ちかえることのないものは、悦ばしい統一がじぶんと実在とのあいだに取りむすばれていたさまである。詩神による作品には精神の力が欠けている。精神にとって〔かつては〕神々と人間たちが溶けあって、じぶん自身についての確信が生れていたものであるけれども、そのような力は〔もはや〕ないのだ。作品はいまでは、私たちに対して存在するものである〔にすぎず、それ自体として存在するものではない〕。それらは、樹から摘みとられてしまった、美しい〔だけの〕果実である。
ここから啓示宗教であるキリスト教が生じる過程を描き出す、というのがヘーゲルの意図なのだが、これまでと比べてかなり雑である。ヘーゲルは、自己意識が実体であると自覚するところからいきなり始める。
つまり自己意識に対して〔いまや〕存在しているところは、実体が自己意識であり、まさしくそのことをつうじて精神となっているというしだいなのである。この精神は、実体という形式を捨てさり、自己意識の形態をまとって現に存在するものへと歩みいっている。したがって、そのような精神にかんして語られうるところは──ここでもし、自然的な生殖からとり出された事情を使って〔表現して〕みようと思うならば──この精神には現実の母親ならひとりいるとはいえ、もうひとり父親のほうはそれ自体として存在する〔にすぎない〕ということになる〔マリアの処女懐胎〕。それというのも、現実もしくは自己意識と、実体である自体的なものとは、この精神のふたつの契機であって、双方の契機が相互に外化し、たがいに譲渡しあうことをつうじて、一方が他方へと生成しながら、精神はその両者の統一として、現存在へと歩みいることになるからである。
自己意識が実体と同一であることを知った精神を、絶対的精神と呼ぶ。さらにこれは、個別の者が推論によって到達したものではない。世間のひとびとに行き渡った信仰の中で意識されている事実だ。それは、実感と行動を伴うものなのである。
こうして絶対的精神には、自己意識という形態がそれ自体として与えられ、かくてまたみずからの意識に対しても与えられたことになる。いまやこの件があらわれるすがたは、世間のひとびとに行きわたった信仰のなかで、精神が一箇の自己意識として、すなわちひとりの現実的な人間のかたちでそこに存在する(da ist)というものとなる。つまり精神が直接的な確信に対して存在し、信仰する意識がこの神性を見て、これにふれ、そして聴くということだ。かくてこの件は空想ではない。それはかえって、信仰する意識にそくして現実的なのである。
だが、啓示宗教には、自分自身を対象として認識していないという限界がある。自身を対象として自覚することで、最後の段階である絶対知に至る。
教団はまた、じぶんがなんであるかという意識さえ手にしていないのだ。すなわち、教団とは精神的な自己意識でありながら、その自己意識はみずからにとってなおこの〔じぶんの〕対象ではなく、いいかえればじぶんにとって自己自身の意識として開示されていない。
まとめ
「宗教」の箇所は、芸術と宗教を結びつけた考察としては面白い。ただ、啓示宗教移行の記述は、取ってつけた感がある。
また、前の「精神」の章との結びつきも不明だ。「精神」ではドイツ観念論まで到達したのに、ここでははるか昔にさかのぼっている。
ヘーゲルが独立の論文として完成させてた、芸術と宗教についての考察を無理やり押し込めたために、整合性がなくなってしまったのではないかと思う。
絶対知
こうしてやっと、精神の最終的な形態である絶対知に到達する。
精神のこの最終的な形態──その精神とはつまり、みずからの完全で真なる内容に、同時に「自己」の形式を与え、そのことでじぶんの概念を実現するとともに、自身はその実現のただなかでみずからの概念のうちに止まっているような精神である──が、絶対的な知(das absolute Wissen)である。絶対知とは自身を精神という形態において知る精神であって、それはいいかえるなら概念的に把握する知にほかならない。真理がただたんに、それ自体としてかんぜんに確信とひとしいばかりではない。真理はむしろまた、自己自身の確信という形態をもそなえている。いいかえれば、真理はその現にあるありかたにおいて、すなわち知る精神に対しても、自己自身の知という形式において存在するのだ。
精神が行う運動が、歴史を形作る。最初は、精神についての知識は宗教として発展するが、のちに哲学が取って代わる。
意識はかくてさしあたり、直接的な統一が思考と存在とのあいだになりたっているしだいを言明する。つまり抽象的な実在と自己との統一ということであるけれども、これはそれじしん抽象的に言明されている〔にすぎないものな〕のだ〔デカルト〕。つぎに最初の光がより純粋に、すなわち延長と存在とのあいだの統一として──なぜなら延長のほうが純粋な思考により近しい単純なありかたであって、この点で光を超えているからだ──ふたたび呼びだされ、かくてまた思想において東方の実体がまた呼びおこされたのである〔スピノザ〕。そのとき精神が同時に震撼させられたのはこの抽象的な統一についてであり、この自己を欠いた実体的なありかたにかんしてであって、だから精神はそこから身を退いて、その実体性に対抗して、個体性を主張する〔ライプニッツ〕。いっぽう精神は、この個体的なありかたを教養にあって外化し、そのことをつうじて個体性をそこに存在するものへと造りあげて、いっさいの現存在にあって個体性を貫徹させようとする。かくて精神が到達したのは有用性という思想であり、かくてまた絶対的自由のうちで、現にあるものをみずからの意志として把握したことになる〔ルソーとカント〕。そののちにこうして精神は、じぶんのもっとも内奥にある思想を逆にさかのぼってとり出して、実在を〈私〉=〈私〉というかたちで言明するにいたる〔フィヒテ〕。この〈私〉=〈私〉とはしかし、じぶん自身のうちへと反省的に回帰してゆく運動のことなのである。理由はこうである。ここでなりたっている同等性は、絶対的な否定性として絶対的な区別なのだから、〈私〉がじぶん自身とひとしいことはこの純粋な区別に対立している。その純粋な区別は純粋なものであると同時に、自身を知っている自己にとっては対象的な区別でもあって、時間として言いあらわされることもできる。だから先には実在は思考と延長がひとつであることだと言明されたように、実在は思考と時間との統一と把握されることができるかもしれない。とはいえこの区別もじぶん自身に委ねられた区別となると、止まることなく、支えもない時間であることになるけれども、そのような時間はむしろじぶん自身のうちで崩壊してしまう。そういった時間というものは延長の有する対象としての安らいということになるが、この延長もたほうではじぶん自身との純粋なひとしさ、つまりは〈私〉なのだ、ということである。言いかえてみよう。〈私〉とはただたんに自己であるというわけではなく、自己のじぶん自身とのひとしさである。この同等性とはしかし、かんぜんで直接的な統一がじぶん自身とのあいだでなりたっていることである。ことばをかえれば、この主体は同様に実体なのである〔シェリング〕。この実体を独立してそれだけでとらえるなら、それは内容空虚な直観であり、あるいはなんらかの内容を直観することであるにしても、その内容は限定され、ひたすら偶有性をそなえているだけのことになってしまい、必然性を欠いたものとなるだろう。
だが、これまでの哲学者は、それを精神の運動として把握していない。それを実現したのがヘーゲルだ。精神がたどってきた長い過程は、ここに終わることになる。あとに残るのは、精神の展開過程を考察する論理学のみだ。
〔絶対〕知にあってしたがって精神は、みずからの有する諸形態の運動を閉じることになる。知がさまざまな形態に纏いつかれているのは、意識の有する区別のさまざまをいまだ克服しえていないかぎりにおいてのことだからである。精神はかくて、じぶんの現に存在する純粋な境位を、つまり概念を獲得したことになる。
ここまでの過程では、意識の振る舞いをずっと詳細に追ってきた。そうして絶対知に到達したわけだが、そこで明らかになったのは、ここで現れる意識の背後にはずっと絶対精神が存在したこと、それが個々の段階に応じた現れ方をしていたことである。
すなわち、これまでの過程は、精神がどのようにして現象するかを考察する学、すなわち『精神現象学』でもあったと言えるわけである。
いっぽうこの概念の現存在にかんしていえば、時間と現実のうちで学が立ちあらわれてくるのは、精神がみずからについてのこのような意識へとようやく到達した、そのあとのことである。精神がなんであるかを、精神は知っていなければならないけれども、そのような精神として精神が現実存在するにいたるのは、一定の労苦を為しおえたあとのことであり、またまさにそれを為しおえた場所にあってのことである。ここでいう労苦とは、精神がみずからの不完全な形態化を克服し、じぶんの意識に対してじぶんの本質に合った形態を創りだして、かつそのようにすることで、みずからの自己意識をその〔対象〕意識とひとしいものとするということだ。
こうして、『精神現象学』は完結する。
こうして目標は絶対的な知であり、いいかえればみずからを精神として知る精神である。このような精神がその〔目標にむかう〕途上で、さまざまな精神の想い出を手にしている。くだんの精神が内化しているものとはすなわち、精神のさまざまがおのおの自身としてはどのようなものであり、いかにしてそれぞれの王国の組織を完遂させるか、という消息にほかならない。これらの精神を保存することは、精神の自由な現存在、偶然性の形式であらわれてくる定在という面からすると歴史であり、たほう精神の概念的に把握された組織という側面からみれば現象する知の学である。両者を合わせるならば概念的に把握された歴史となって、絶対的な精神の追憶とその刑場をかたちづくることだろう。これが絶対的精神の王座にとってその現実であり、真理であり、確信であって、その王座を欠くとき絶対的精神もまた生命を欠いた孤独なものとなるはずなのである。──ただ
この精神の王国の杯から
精神に泡だつは その無限性
序文
『精神現象学』は、出版途中で大きく構成を変えている。
元々は『精神現象学』単独で出すつもりではなく、『論理学』とあわせて一冊の書物として出版するつもりだった。だが、印刷途中で『論理学』の出版を見送る。さらに、印刷所とトラブルが起こり、分量を当初の予定よりも増やすことを求められる。結果、「理性」の章以降の分量が大幅に増えてしまった。さらに『精神現象学』を独立の書物として成立させるための再構成が必要になった。
このような事情により、『精神現象学』には序論のようなものが二つ(序論Vorredeと緒言Einleiung)ある。
最初に書いたのが緒言だが、出版過程の途中で大きく構想が代わり、最初に置くには不適切なものになってしまう。だが、すでに印刷してるものを取り消すわけにもいかない。そこで、「絶対知」を書いたあと、新たに序論(Vorrede)を書いて、緒言(Einleiung)の前にひっつける。そしてタイトルを、当初のタイトル(『意識の経験の学』)から『精神現象学』にかえて出版したのである。
あとになって付け足した序論(Vorrede)は、普通の書物の序論とは異なるものになっている。本文に出てくるヘーゲル独自の用語が説明無しに出てくる上、学としてはいまだ完成していないことについて述べたり(『論理学』の出版を見送ったのだから当然)、それが不完全なことについて弁明したり、その不完全さを批判してくるだろう者に対して予め反論したり…といった具合だ。ヘーゲルはあとがきを書くようなつもりで、この箇所を書いたのではないだろうか。
まとめ
このような事情で、『精神現象学』は読み進めるのが非常に難しい。最初の序論から読みはじめても何もわからないし、次の緒言を読んでもよくわからない。「意識」「自意識」の箇所まで行っても、ヘーゲルが何を目的としているのか、そもそもなぜ『精神現象学』というタイトルなのかすらわからない。これを印刷した時点では、ヘーゲルすらわかってないのだから、当然の話だ。
「理性」の箇所に来ると、今度は雑然とした草稿の詰め込みと格闘することになる。それを我慢し、最後の「絶対知」まで読み進めて、やっと腑に落ちるのである。
本来なら、ヘーゲルは取ってつけた序論の付け足しで、誤魔化すべきではなかったのだろう。本の冒頭で印刷過程について詳しく説明し、『精神現象学』の構成がいびつで、章によっては不完全な草稿を詰め込んだごまかしをしてしまった、全体的にも破綻している、でも事情が事情で仕方なかったんだよごめんね、と読者に詫びを入れるべきだったのだ。
『精神現象学』が難解なのは我々の責任ではなく、ヘーゲルが不誠実だからなのである。