自然状態から国家状態へ

自然状態

自然状態の人間

自然状態における人間は、自己保存を唯一の衝動として持ち、自己以外のもの全てを手段として扱うことができる。あらゆるものは、いくらでも自由に利用して構わない。自己保存よりも優先すべきものは存在しないからだ。

自然状態の限界

しかし、自然状態の自由は、実は意味がないものである。他の者も同様に、こちらを自由に利用しようとしてくるからだ。自己保存のためには何を試みようと自由だが、それが実現するか否かは、自己と、自己を取り巻くものとの関係性によって決まるのである。
自己を凌駕するものは常に存在し、常に自己の意を押し通すことは不可能だ。人間が個として持つ力は、自然において限定的であり、自己保存には十分でないのである。そして、これに個人で対処することには限界がある。例えば、いくら身体を鍛えようと、人間である以上眠らざるを得ず、その間は必ず無防備になるわけだ。
他のものに対して絶対的に対抗する力を持っていないという、自己を保存する上での脆弱性が顕在化した時点がどこかにあり、それが自然状態と国家状態の分岐点だとルソーは主張する。

ここで、さまざまな障害のために、人々がもはや自然状態にあっては自己を保存できなくなる時点が訪れたと想定してみよう。自然状態にとどまることを望んでいる人々はこうした障害に抵抗するのだが、この時点になると障害の大きさが、人々の抵抗する力を上回ったのである。こうして、この原始状態はもはや存続できなくなる。人類は生き方を変えなければ、滅びることになるだろう。(1-6)

これを乗り越える方法

国家形成による克服

これに対抗する唯一の方法は、同じ本性を持つ者同士が、一つの方針のもとに集まり、力をあわせることである。先の例でいえば、「眠る間は無防備になる」という本性を持つ者同士で、一方が寝ている間は他方が起きて守ろう、と取り決めてそれを実行すれば、この脆弱性を克服できるわけだ。
協同の前後で、各人が自然に対して持つ力が変化したわけではない。しかし、多数の個体があたかも一つの個体であるかのように動くことで、自然において相対的に強力な存在になれるわけだ。

人間は[何もないところから]新しい力を作りだすことはできない。人間にできるのは、すでに存在しているさまざまな力を結びつけ、特定の方向に向けることだけである。だから人間が生存するためには、集まることによって、[自然状態にとどまろうとする]抵抗を打破できる力をまとめあげ、ただ一つの原動力によってこの力を働かせ、一致した方向に動かすほかに方法はないのである。(1-6)

国家形成における難題

だが、ここには難点がある。一人でいるよりも、国家を形成してそれに従う方が適切だというのは、たしかにそうかもしれない。だが、どうやってそれを実現すればいいだろうか?
国家の判断に従うことは、自己の判断を他に委ねることを意味する。これまでは、自己の判断が自己の生存を確保する唯一の根拠だった。判断を国家に委ねるとして、それが自己の利益を損なわない保証はどこにあるだろうか?自己の労力が、自分の関係ないことに利用される危険性があるのではないだろうか?国家が敢えて、自分に重い負担を背負わせたりしない保証がどこにあるのか?この問題が解決しない限り、国家状態への移行は不可能なのである。

このまとめあげられるべき力は、多数の人々が協力することでしか生まれない。しかし各人が自己を保存するために使える手段は、まず第一にそれぞれの人の力と自由である。だとすればこの力と自由を拘束して、しかも各人が害されず、自己への配慮の義務を怠らないようにするには、どうすればよいだろうか。この困難な問いは、わたしの主題に戻って考えると、次のように表現できる。
「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由でありつづけることができなければならない」。これが根本的な問題であり、これを解決するのが社会契約である。(1-6)

可能になる条件

これは、構成員全員が自己の判断を捨て、国家に委ねる場合に達成できる。
では、そもそもそれがいつ可能になるかという話になるが、それは「国家を介してでしか、自己の利益を実現できない」という物理的な条件を持った者同士で、国家を形成する場合に可能になる。
この条件が成り立っている時、構成員は全員、国家の最善を考えることになる。自己の利益を追求しようとすれば、必然的に国家の利益のことを考えざるを得ないからだ。国家がまずい行動をすれば、それは自分の身を滅ぼすことにつながるのである。
この条件が成り立っている時、他の構成員に負担を負わせようなどと考える構成員は存在しない。国家の利益を実現しているものは、各構成員が提供する労力だ。皆が、他の構成員が平等にそれを提供すると確信しているが故に、国家は成り立っている。それを崩すようなことをすれば、その構成員は去るだろう。そして国家は成り立たなくなるだろう。そしてそれは、自己の利益が実現しなくなることを意味する。
また、国家として決めた方針には、自分を含めて全ての構成員が従うことになる。ならば、負担する労力をむやみに重くしようという者など存在するはずがない。そこに費やす労力が国家の目的の達成に必要であり、ひいては自身の利益につながると皆が確信した上で、方針は決まるのである。

これらの条項は、正しく理解するならばただ一つの条項に集約される。社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。この条項によるとまず、誰もがすべてを放棄するのだから、誰にも同じ条件が適用されることになる。そしてすべての人に同じ条件が適用されるのだから、誰も他人に自分よりも重い条件を課すことには関心をもたないはずである。(1-6)

わたしたちは、約束によって社会体に結ばれているが、この約束は相互的なものであるからこそ、拘束力をそなえているのである。この社会体との約束は、人がこの約束にしたがって他人のために働くとき、同時に自分のためにも働くことになるような性格のものである。それではなぜ一般意志はつねに正しく、なぜすべての人は、各人の幸福を願うのだろうか。それはこの各人という語が語られるとき、それを自分のことだと考えない人はいないし、全員のために一票を投じるとき、自分のことを考えない人はいないからではないだろうか。(2-4)

社会契約の条項

こうして、国家を形成するにあたって障害となっていたものは取り除かれた。国家は、「国家を介してでしか、自己の利益を実現できない」という物理的な条件を持った者同士によって形成される。全構成員は、国家の判断に従うこと、それに従って労力を提供することに一致している。これと引き換えに、国家が実現する利益を享受するわけだ。この一致点を、ルソーは社会契約と呼ぶ。

だから社会契約から、本質的でない要素をとりのぞくと、次のように表現することができることがわかる。「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部としてうけとるものである」(1-6)

自然状態から国家状態に移行することで、得たものと失ったものを比較してみよう。
失ったものは、すべてのものに対して有していた、無制限の自由である。ただ、それは実際は無内容なものだった。
得たものは、自然状態では想定することもできなかった、大きな利益である。提供する労力の一つ一つは小さくても、それを一つの方針のもとに統合することで、大きな利益を各人が享受することが可能になるのだ。

要するに、各人がすべての者にみずからを与えるのだから、みずからをいかなる個人に与えることもない。すべての成員は、みずから譲渡したのと同じ権利を、[契約によって]うけとるのだから、各人は自分が失ったものと同じ価値のものを手にいれることになる。そして各人は、自分が所有しているものを保存するために、[契約を締結する前よりも]大きな力を手にいれる。(1-6)

この損得を、分かりやすい項目で比較してみよう。まず人間が社会契約によって失ったものは、自然状態のもとで享受していた自由であり、彼が気にいり、しかも手にいれることができるものなら何でも自分のものにすることのできる無制限の権利である。人間が社会契約によって獲得したもの、それは社会的な自由であり、彼が所有しているすべてのものにたいする所有権である。(1-8)

« ホッブズの方法論とその批判
一般意志 »