立法

はじめに

立法と執行についてのルソーの叙述は断片的であり、個々の箇所で異なることを言っていたり、問題意識を提示しながらそれに解答を出せていなかったりする。
立法と執行については、私がルソーの一般意志の理論から導き、独自に構築したことを、ルソーの断片的な記述を交えて書く形にする。ルソーの理論そのものではないことを予め断っておきたい。ルソー自身の主張については、別に考察する。

社会契約と立法

社会契約を締結することで、われわれは政治体にみずからの存在と生命を与えたのである。次に必要なのは、立法によって、政治体に活動と意志を与えることである。社会契約は政治体を創設し、結合する最初の行為にすぎず、この政治体がみずからを保存するために何をなすべきかについては、まだ何も決めていないからである。(2-6)

立法過程は、国家を形成すれば必ず生じるものである。自然状態から国家状態へ移行した時点を考えてみよう。この両者の違いの核心は、一つの判断のもと、各自の労力を提供することであった。

人間は[何もないところから]新しい力を作りだすことはできない。人間にできるのは、すでに存在しているさまざまな力を結びつけ、特定の方向に向けることだけである。だから人間が生存するためには、集まることによって、[自然状態にとどまろうとする]抵抗を打破できる力をまとめあげ、ただ一つの原動力によってこの力を働かせ、一致した方向に動かすほかに方法はないのである。(1-6)

この段階で、国家の目的は決まっている。各人が自然状態においては実現不可能であり、国家状態においてでなければ実現できないと思ったことの実現だ。
それを実現するための方法も決まっている。構成員全員の労力を、一つの判断のもとに行使することで実現するのだ。
これによって実現されるものは、労力をあわせることで達成できる、物理的なものである。そうでなければ、そもそも国家が作られることがなかっただろう。
では、その労力を用いる方向性は、何によって決まるだろうか。これは、自然全体の状況によって一意的に決まる。国家の内的状況はどうで、外的状況はどうか。目的を達成するにあたって妨げとなるものは何で、それはどうすれば解消できるか。目的を達成するために働きかけるべき対象は何で、どのように働きかければいいか。これらについて把握すれば、現時点で最善の方針が導けるだろう。それがわかったなら、国家はそれを実現すればいいわけだ。状況の変化に従い、国家の目的を達成するために取るべき、最善の行為も変化する。そのたびに方針を切り替え、労力を用いる方向性をかえればいいだろう。
ただ、その最善の方針を直接受け取る術を、人間が持っているわけではない。人間が得る情報は、どうしても限定されるからだ。さらに、全員が同じ情報を持っているわけでもない。目的とそれを実現する方法については一致していても、各自の持つ情報に応じて、各自は異なる方針を最善だと思っているだろう。
したがって、各自の持つ情報の差を補い合い、最善の方針を導く過程が必要になる。これを行うのが立法である。そこで現在の国家が取るべき方針を決め、全員が従うべき新たな取り決め、すなわち法を定めるわけだ。

秩序に適った善なるものは、人間たちの規約とは独立して、事物の本性からして善であり、秩序に適っているのである。(2-6)

立法過程

人民集会

では、立法過程はどのようなものであるべきだろうか。
国家の目的と、それを実現する方法は既に定まっている。構成員各人が、国家の利益を自分の利益と考えていること、国家が取るべき方針について常に意識していることも、前提により決まっている。相違点は、情報の差だ。これを解消すれば、各構成員の考える最善の方針は、一致することになるだろう。
これを実現するには、全員が参加する集会を開く必要がある。集会において各自が発言し、各自が持つ情報を全体で共有すればいい。そうすれば、集会前には各構成員で相違していた「何が国家にとって最善か」の判断は、一つに定まるだろう。かつそれは、より多くの情報を元にしただけ、自然の秩序によって定まる最善の方針に近いものになるだろう。
全体で情報を共有する過程は、次のようになるはずだ。

  1. 全員が一堂に会する
  2. 誰かが、自身の思う最善の方針を、その根拠とともに提起する
  3. 他の構成員は、その提起と同じか、それ以下の情報しかもっていないのであれば黙っていればいい。だがもし、提起者と異なる情報を持っており、それゆえ異なる方針を最善だと思っているならば、その根拠をあげてその提起を批判する
  4. 提起者は、その情報に基づき、その提起を修正するなり取り下げるなりする

この過程を異論がなくなるまで続けるとしよう。すると、最終的には各自の持つ情報はすべて全員に共有されることになる。そして各構成員は、同じ一つの方針を最善と判断する状態になる。

立法過程の特徴

全員参加

ここで全員参加が必要になるのは、情報の共有が目的だからだ。求めるのは最善の方針を実現するための情報であり、集会を開く以前の意見の分布は問題ではない。情報の価値は、それを持つものが多数であるか少数であるかによっては変わらないのである。また、一部のものだけが取り決めたことに、それ以外のものが従う理由がないことからも、全員参加は必須になる。
集会において、皆が発言する必要はない。異議がない場合、提起された内容が自分の既に知っているものでしかない場合は、沈黙によって同意すればいいだけだ。それでも、皆が参加し、異議を唱えられるということ自体に意味があるのである。

基準の存在

提起される内容は、提起者が国家にとって最善と考えるものである。他の構成員は、提起される議題が自分の利益に関係するものであるがゆえ、それが適切か否かの判断をすることができる。
自分の利益に関係ない場合、あるいは決定した取り決めに自分が労力を提供する必要がない場合、提起の是非を判断するいかなる基準も存在しないだろう。だが、このような事態は、前提によりありえないわけだ。

少数者の尊重

集会で重要なのは情報の共有である。各人が持っている異なる情報を持ち寄り、最善の方針を導こうとしているのだから、情報は多ければ多いほどよい。したがって、少数者の意見は、多数者の意見と同程度に尊重されることになる。最善の方針を導くという観点においては、議論前の段階における意見の分布は特に重要ではないのだ。

多数決

最善を求める方法は、上のやり方がベストだが、抜き差しならない外的状況が、全会一致まで議論をすることを許さない場合がある。その際には、全員が「すぐに方針を決めるべきである」という認識を共有し、「多数決の結果を最善の方針とみなす」ことに全会一致をしたのちに、多数決を行うことになる。
多数決の正当性は、構成員全体が「現状において多数者が賛成しているものが適切である可能性が高い」という経験則を共有していることによる。多数者に少数者を従わせる権利があるからでは決してない。そのような権利は、人間の本性からも、国家の本性からも導けないのである。

実際に、全員一致で王を選んだ場合を除いて、少数者が多数者による[王の]選出にしたがうべき義務は、事前に合意されていないかぎり発生しようがない。百人の人々が主人を欲しいと望むとしても、主人を欲しいと思わない十人の人に代わって選ぶ権利は、どこから生まれるというのだろうか。そもそも多数決という原則は、合意によって確立されるものであり、少なくとも一度は全員一致の合意があったことを前提とするのである。(1-5)

この原初の契約を別とすれば、[全員一致ではなく]最大多数者の意志が、つねに他のすべての者を拘束する。それはこの契約そのものからえられる結論である。ここで、ある人が自由でありながら、自分の意志ではない意志に服従するように強制されることがありうるのかという異論が提起されるかもしれない。決議に反対した人々も自由であるのに、どうして自分が同意していない法律にしたがわねばならないのか、と。
それは問題の問いかたが悪いのだと、わたしは答えよう。[社会契約によって]市民は、可決されたすべての法律にしたがうことに同意しているのである。その法律に自分が反対していたかどうか、そのいずれかの規定に違反した場合に自分もまた処罰をうけるような法律であるかどうかは問わないのである。一般意志とは、国家のすべての構成員の不変の意志であり、この一般意志によってこそ、彼は市民であり、自由なのである。人民集会で一つの法律が提案されたときに、人民に求められているのは、厳密に言えばそれを承認するか、拒絶するかということではない。その法律が人民の意志である一般意志に合致しているかどうかが問われているのである。それぞれの市民は投票することで、これについての意見を述べる。そして投票の賛否の数を計算することで、一般意志が表明されるのである。だからわたしと反対の意見が多数を占める場合には、それはわたしが間違っていたことを示すものにすぎない。わたしが一般意志と考えていたことが、じつは一般意志ではなかったことを示しているのである。もしもわたしの個人的な意志が、一般意志よりも優位に立つならば、それはわたしが自分の望んでいなかったことをしたことになる。その場合にはわたしは自由ではなかったのである。
このことは、一般意志のすべての特徴がまだ多数意見のうちに存在していることを前提とするものであるのはたしかだ。もしもこの前提が満たされなくなった場合には、いずれの側についても、もはや自由はないのである。(4-1)

法の本質

以上の考察により、法の本質が分かるようになる。

法の正当性

法の正当性は、それが全体による全体に対する取り決めであることに由来する。もしこれが、一部による他の者への取り決めであれば、なぜそれが正当なのか、なぜそれに従わないといけないのか、といった問いに答える必要があるだろう。
ここで法律を決める主体は人民全体であり、それに従う対象も人民全体である。法とは、一般意志の実現に必要だと判断して行う取り決めに過ぎない。ここで決定したことには、他の者と同じく自分も従う。負担する労力は平等であり、それを一つの方針のもとで行うことで、より大きな共通利益を実現するから、それに従うのである。

しかしすべての人民がすべての人民にかんする法律を定めるとき、人民は自分のことしか考えていない。ここに一つの関係が生まれるとしても、全体が分割されるわけではなく、全体の対象を眺める一つの視点と、同じく全体の対象を眺める別の視点があるにすぎない。そのときは[法で]定められる対象も、[法を]制定する意志も、どちらも一般的なものである。わたしが法と呼ぶのは、この行為である。(2-6)

ほんらい法とは、社会的な結びつきを作りだすためのさまざまな条件のことにほかならない。法を定めるのは、法にしたがう人民でなければならない。(2-6)

過去の法の正当性

自分が認めたわけでもない、過去の法に従わなければならない理由も分かる。
人民集会においては、あらゆる取り決めを決めることもできれば、あらゆる取り決めを否定することもできる。仮に一部の代表者が集まって立法を行うのであれば、代表者を選ぶ者らが、そこで決定することに事前に制限を与えるかもしれない。だが、全員が参加している以上、そのような制限などあるはずがないのだ。
そこでは当然、過去の法も否定できる。ある法がもはや不適当だと誰かが考えれば、その者がその法の撤回を提起すればいいわけだ。そうしたなら、上で見たような討議の過程を経て、否決か可決かされるだろう。そのような提起がなされないということは、構成員すべてがそれを暗黙に認めていることになるわけだ。

国家が存続するのは法律の力ではなく、立法権によってである。昨日の法律は今日になれば強制する力を失うが、[人々が異議を唱えずに]沈黙していることは、[法律を]暗黙のうちに承認しているものとみなされる。主権者が法律を廃止することができるのに、それを廃止しないということは、その法律を承認しつづけているものとみなされるのである。あることを主権者が望むと宣言した場合には、取り消されないかぎり、つねに望みつづけていることになるのである。
それでは古い法律があれほどに尊ばれるのはどうしてだろうか。それは古いということそのものによってである。これほど長いあいだ古い法律が維持されたのは、昔の人々の意志が優れていたからだと考えるべきなのである。もし主権者がそれを有益なものとして承認していなかったなら、千回でもそれを撤回したことだろう。善き体制をもつ国家では、法律の力が弱まるどころか、たえず新たな力を獲得しているのはそのためである。古いものが好まれるために、古い法律は日に日に尊敬されるべきものとなる。反対に法律が古くなるにつれて力が弱くなるようなところではどこでも、もはや立法権がなく、国家が生命を失っているのである。(3-11)

法の一般性

法は必ず一般的なものであり、特定の者を対象にした法はありえない。法とは、構成員全体による、構成員全体に対する取り決めだからだ。この形態を崩したならば、それは法としての正当性を失うのである。

わたしは法の対象はつねに一般的なものであると主張するが、それは法が[対象である]国民を一つの全体としてあつかい、個々の行為を抽象的なものとしてあつかうということである。[対象としての]人間を個人としてあつかうことはなく、その人の行為を個別なものとしてあつかうことはないのである。だから法は新たな特権を定めることはできるが、特定の人物を名指して特権を与えることはできない。法は複数の市民階級を作りだして、それぞれの階級に入るために必要な資格を定めることはできるが、特定の個人を名指して、いずれかの階級に入ることを許可することはできない。法は王政と世襲制を定めることはできるが、国王を選ぶことも、王家を指名することもできない。要するに立法権には、個別の対象にかかわる機能はまったくないのである。(2-4)

その他の性質

  • 立法の権限は誰にあるのか
  • 統治者は法律よりも上位に立つのか
  • 法は不正でありうるか

についても明らかになる。
立法の権限は、人民全体が持つ。その一部が持つことはありえない。
統治者が法律より上位に立つこともありえない。統治者は構成員の一員だからである。
全員による全員に対する取り決めである以上、法が不正であることもありえない。法を、一部の者が他へ行う命令として捉えるならば、この問いも意味があるかもしれないが、そのようなことはありえないのだ。

この観点からみると、以下のことは自明なことであり、問うまでもないことである。すなわち法を作る権限は誰にあるのかと、問うまでもない。法は一般意志の行為だからである。統治者は法律よりも上位に立つのかと、問うまでもない。統治者も国家の[構成員の]一員だからだ。法が不正でありうるかということも、問うまでもない。いかなる人も、自分自身にたいして不正を行うことはできないからだ。最後に国民が法にしたがいながら、しかも自由でありうるのはどうしてかということも、問うまでもない。法は国民の意志を記録したものにすぎないからである。(2-4)

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