執行
執行とは何か
国家の目的は、国家の構成員が一つの判断のもとに労力を提供することで実現される。
立法過程により、判断は一つに定まった。だが、この段階で終わっても全く意味がない。各構成員は、最善の方針については共有していても、それを実現するために自分が為すべき仕事については全く知らない状態だからだ。誰かが方針の実現に必要な仕事を分割し、各自に配分する必要がある。この過程が執行過程である。
自由な行為であれば、それはつねに二つの原因が協働して生みだされる。その一つは精神的な原因であり、これは行動を決定する意志である。もう一つは身体的な原因であり、これが行動を実現する力となる。ある物に向かって歩みを進める場合を考えてみよう。その行為が行われるためには、まず第一にわたしがそこに行くことを望むことが必要であり、かつわたしの足がそこまでわたしを運んでいくことが必要である。[歩くことのできない]中風患者はたとえ走ろうとしたところで、また速く走れる人でも走ろうと思わなければ、二人とも最初の場所にとどまったままだろう。(3-1)
初期の執行
最初期には、立法過程の直後に、構成員全員で執行過程が実行される。状況が変化し続ける以上、最善の判断を定めたならばそれは早く実現したほうがいい。時間が経てば、それは最善でなくなりうるからだ。それに、常設の執行機関が存在しない以上、その場で執行過程を完了させなければ、方針が実行されないままに終わるおそれがある。
国家が形成されてから、ある程度の時間が経過すると、構成員の一部に執行過程が委ねられることになる。これは、執行過程が以下の特性をもつことによる。
誰がやっても同じ
ここで行うことは仕事の割り振りに過ぎず、誰がやっても同じである。全構成員が、労力の平等性が国家の維持に必須であることを把握しているのであれば、この割り振りが不平等になることもないだろう。
要するにもっとも賢明な人々が多数者を支配するという[貴族政の]政体は、支配する者が自分たちの利益を目指すのでなく、多数者の利益のために支配することがたしかな場合には、もっとも自然で、もっとも優れた秩序なのである。政府の機関をやたらに増やす必要はないし、選ばれた百人の人で立派に処理できることを、二万人の人に委ねる必要はないのである。(3-6)
全員参加は不要
立法過程では、法を正当なものにするためにも、最善なものにするためにも、全員参加は必須だった。だが、執行過程においてはそうではない。また、参加者が多くなれば、それだけ執行過程がより適切になるというわけではない。むしろ、処理を緩慢にするだけである。
また政務の処理を委託された人物の数が増大すると、処理の速度は緩慢になるものであり、あまりに慎重を期すると、好機を捉えることができず、機会を逸してしまうのである。そして議論を重ねすぎると、議論が実を結ばないこともあるのはたしかである。(3-2)
立法過程と分離させないと混乱を生む
立法過程と執行過程が明確に分離されていないと、立法過程の議論に執行過程の議論が入り込む。ある法律について審議する際、「この法律を通すことにより、国家の目的は達成されるか」という観点ではなく、「この法律を通すことで、自分はどのような負担を負うことになるのか」という観点で考えてしまうのだ。たとえ表面上は国家の最善を語り、平等の体裁を保ってはいても、実際には「いかにして自分の被る労力を減らすか」「いかにして他のものに仕事を押し付けるか」を追求する者が現れ、議論は紛糾するだろう。
立法過程と執行過程を明確に分離し、何を決めようと執行過程において労力は平等に分配される、という確信を全員が持った上でなければ、立法過程の議論はうまくいかないのである。
法律を作る者は、それをどのように執行すべきか、どのように解釈すべきかを、誰よりもよく知っているものである。だから立法権を所有する者が同時に行政権を所有する政体が最善のものと思われるものである。しかしまさにそのことが、民主政の欠陥となるのである。というのも統治者と主権者はほんらいは区別されるべきであるが、この政体では統治者と主権者が同じ人格となっているので、政府のない政府を作りだしてしまうのである。
法律を作る者が、法律を執行することは好ましくない。人民という団体が、一般的な目的から注意を逸らせて、特殊な事柄に注目することは好ましくないからである。公務に私的な利害が影響することほど危険なことはない。立法者が特殊な目的を[法律に]もちこむ場合にはかならず腐敗するのであり、それよりも政府が法律を濫用するほうが、まだ弊害が少ない。このように国家が腐敗している場合には、国家はその根のところが病んでいることになり、いかなる改革も行えないのである。政府を濫用しない人民であれば、独立を濫用することもないだろう。つねによく統治する人民であれば、そもそも統治される必要もないのである。(3-4)
同一人物が同一の仕事に携わる
執行過程を委ねられた執行者は、立法過程のたびに各自に仕事を割り振る。やがて、国家として為すべき仕事が定まってくると、同一人物が同一の仕事に携わるようになる。その方が、技能も情報も蓄積されて効率的だからだ。
団体意志
このようにして、執行者が固定し、同一の仕事に携わる構成員が出てくる。国家の構成員が増えて、なすべき仕事も増えると、両者に複数の構成員が携わるようになり、やがてそれは政府と委員会になる。
政府と委員会が独自の機関として動くには、独自の団体意志の形成を認めることが必要になる。政府であれば、「執行を適切に行う」という共通の目的を実現するために、政府構成員で適切な取り決めを行い、その取り決めを実現するための仕事を政府構成員に割り振るわけだ。国家との違いは、この共通の目的が、国家の目的に従属している点にある。
国家という団体と政府という団体には、次のような本質的な違いがある。国家はそれだけで存在するが、政府は主権者がいなければ存在しないということだ。だから統治者の支配的な意志は、一般意志あるいは法にほかならないし、それ以外のものであってはならない。統治者の力は、公的な力が集中されたものにすぎない。統治者がみずからの判断によって独裁的な行為や恣意的な行為に走ると、全体の結びつきが緩み始める。(3-1)
このように政府は従属的ではあっても全体的なものであり、これを国家という全体的なものの下位にどのように位置づけるかは、困難な問題である。政府はみずからの構造を強化しながらも、国家という全体の構造を損なわないようにしなければならない。政府は自己保存のために使われる特殊な力と、国家の保存のために使われる公共の力をつねに区別していなければならない。要するに、政府は人民のためにつねにみずからを犠牲にするよう心掛け、みずからのために人民を犠牲にすることがないようにしなければならない。
政府は人為的な団体であり、同じく人為的な団体である国家によって作られたものである。だから政府の生命は借りものの生命であり、従属的なものにすぎない。しかし政府がある程度は敏捷に力強く活動できないわけではないし、ある程度はいわば健康を享受することもできないわけではない。最後に政府がその設立の目的から完全に逸脱することは許されないものの、それが設立された方法に応じて、ある程度はその目的から逸れることもできるのである。(3-1)
腐敗を防ぐ仕組み
腐敗の危険性
国家が形成されてから時間が経過し、政府と委員会が生じたとしよう。
ここでは国家の構成員は、
- 個別意志
- 団体意志
- 一般意志
の三つを有している。
自然の秩序からすれば、この三つの意志は、上から下の順番で強力である。人間はまず、個人の利益を意識する。ついでより小規模で身近である団体の利益を意識し、最後により抽象的である国家の利益を意識するわけだ。そしてこれは、社会秩序の要請するものとはまったく逆の順序なのである。
行政官の人格には本質的に異なる三つの意志が存在する。第一の意志は、行政官個人に固有の意志であり、自己の特殊な利益だけを求める。第二の意志は、行政官たちに共通の意志であり、これは統治者の利益だけを目的とするものであり、団体意志と呼ぶことができるだろう。この意志は、政府にかんしては一般意志であるが、政府が所属する国家にかんしては個別意志である。第三の意志は、人民の意志または主権者の意志であり、全体としての国家についても、全体の一部としての政府についても、一般意志である。
完璧な立法においては、第一の特殊な個別意志は皆無でなければならない。そして第二の政府に固有の団体意志は、ごく限られたものでなければならない。こうして第三の一般意志または主権者の意志が他のすべての意志よりも優越し、他のすべての意志を律する意志とならなければならない。
反対に自然の秩序に放任すると、さまざまな意志は集中度が高いほどに活動的になる。だから[主権者に分散されている]一般意志がもっとも弱く、団体意志が二番目に強く、個別意志がもっとも強くなるものである。だから政府の構成員の意識において優先されるのは、第一に自分自身であり、第二に行政官であり、最後に市民である。これは社会秩序が要請するものとはまったく逆の順序なのである。(3-2)
選挙
国家の構成員が、国家ではなく団体を優先するようになれば、国家は腐敗するだろう。それを防ぐために、選挙や任期といった、団体の構成員の流動化をはかる仕組みが作られることになる。こうすることで、自然の秩序に逆らい、構成員が団体意志ではなく、一般意志を優先する事態を維持するのだ。