国家の解体
概要
国家の初期段階では各人の条件は同一である。国家の目的についても、その実現には労力の提供が必須であることについても、皆が明確な意識を持っているだろう。だが、時間の経過により、この条件は崩れてしまう。そうして、国家は解体へ向かうことになる。
政治体は人間の身体と同じように、その誕生の時点から死へと向かい始めるのであり、みずからのうちに破壊の原因を宿している。(3-12)
自然の秩序
一般意志の弱まり
国家の解体が避けられないのは、自然の秩序に従うと、個人の持つ一般意志には弱まる傾向があるからである。
国家によって恩恵を受けていることが事実であっても、それは自然に意識できることではない。国家は目に見え触れることのできる、物理的なものではないからだ。その恩恵と自己の提供する労力について、結びつけて意識する機会が減れば、やがて国家を想像上のものと思うようになるだろう。そして、国家により与えられる恩恵を、空気のように無料で得られるものだと思い込み、国家が要請する労力を、避けれるなら避けたいものだと考えるようになるだろう。
実際にすべての人は人間として、ある個別の意志をもつのであり、市民としてもっている一般意志に反することも、これと異なる意志をもつこともありうるのである。個人の特殊な利益は、共同の利益とはまったく異なる言葉で、個人に語りかけるかもしれない。各人は、ほんらいは独立した絶対的な存在であるから、共同の利益のためにはたすべき任務を、無償の寄付とみなして、その寄付の額の高さと比較すると、[その義務をはたさないことで]他人がこうむる被害のほうが小さいと考えるかもしれないのである。あるいは国家は法的な人格であり、生きている人間ではなく、理屈で考えだしたものにすぎないと判断し、国民としての義務をはたさずに、市民としての権利だけを享受しようとするかもしれない。このような不正がつづけば、やがて政治体は崩壊することになるだろう。(1-7)
政府の意向
また、政府は国家を弱めようとする傾向を持つ。政府は、国家の構成員が提供する労力を利用することができる。それを全体のために使うのではなく、政府という団体のために使うことができれば、政府の構成員はより大きな利益を得ることが可能になるだろう。国家の一員として得る利益は減少するかもしれないが、政府の一員として得る利益はそれを補って余りあるわけだ。自然の傾向からすれば、政府は国家を裏切ることになるのである。
個別意志はたえず一般意志に抵抗して働くものだが、同じように政府はつねに主権に抗して働こうと努める。この試みが大きくなるほど、国家の体制は悪化する。そして統治者の意志に抵抗して、それと均衡を保つことを試みる団体意志はほかには存在しないのだから、いずれは統治者が主権者を抑圧して、社会契約を破棄するような事態が訪れるに違いない。これは老衰や死がついに人間の身体を破壊するのと同じことだ。政治体が誕生した時からこうした悪が内在するのは不可避なことであり、この悪が弛みなく、政治体を破壊しようとするのである。(3-10)
国家の解体過程
国家の解体には、二つの道筋があり得る。
一つが、政府が主権を奪い取る場合だ。この際、政府とそれ以外の人民という、共通利害の異なる二つの国家が存在することになる。社会契約は破棄され、一方が暴力を行使している間だけ、他方が従うという自然状態の関係に戻るのだ。
もう一つが、政府の構成員が、団体としてしか行使してはならない権力を、個別に簒奪した場合である。これは、統治者が突然機能を停止した場合や、内部での対立が進み、かつ統治者がそれをおさえきれなくなった場合に生じる。一つの国家から複数の国家が分裂することになり、政府が主権を簒奪した場合よりも大きな混乱が引き起こされることになる。
国家が解体する場合には、二つの道筋がある。
第一の場合は、統治者がもはや法律にしたがって国家を統治せず、主権を簒奪した場合である。この場合には大きな変動が発生する。政府ではなく、国家が縮小するからである。というのは、大きな国が解体して、その内部に別の国家が形成されるのであるが、その新しい国家は政府の構成員だけで形成されていて、これが支配者として、暴君として、残りのすべての人民を支配するのである。だから政府が主権を簒奪した瞬間から、社会契約は破棄されているのであり、すべてのふつうの市民は、自然な自由の状態に戻ったのである。もはや市民は、服従することを強制されるかもしれないが、服従する義務はないのである。
[第二に]政府の構成員が、団体としてしか行使してはならない権力を、個別に簒奪した場合にも、同じように国家は解体する。これも明白な法律違反であり、さらに大きな混乱を巻き起こす。この場合にはいわば行政官と同じ数の統治者がいることになり、国家は政府と同じように分割されて、解体するか、形式を変えるのである。(3-11)
解体の必然性
ルソーは、国家の解体は避けようがないという立場を取る。スパルタやローマですら滅びた。永遠なる国家など存在するわけがない。ならば、永遠なる国家を建設するという不可能なことは諦めて、できるだけ長続きする最善の政体について考察する方が賢明だろう。
スパルタやローマですら滅びたのだ。永続を望みうる国家などあろうか。だから国家の体制を安定させることを望むならば、それを永続させようとしてはならない。成功するためには、不可能なことを試みてはならないし、人間の創造したものを、人間の条件があてはまらないものにできるなどと思い上がってはならないのである。
政治体は人間の身体と同じように、その誕生の時点から死へと向かい始めるのであり、みずからのうちに破壊の原因を宿している。しかし政治体も人間の身体も、頑丈なものと虚弱なものがあり、長期間にわたって自己を保存できるものと、短期間しか自己を保存できないものがある。人間の身体の体質は自然のものであるが、国家の政治体の体質は人間の技で作られる。人間の生命を長くすることは、人間には不可能な技だが、国家に最善の政体を与えることによって、国家の生命をできるかぎり長くすることは人間の技である。より善い政体の国家もやがて滅びるだろうが、予想外の出来事のために早死にすることがないかぎり、そうでない国家よりも長生きするだろう。(3-12)
国家を維持するもの
人民集会
ルソーがまず考察するのは、国家を維持する基礎である。
国家を維持しているのは、立法権である。ポイントは法律そのものではなく、法律を定める過程そのものであることだ。
人民集会では、一般意志を共有する構成員全体が一堂に会する。そこで発言される内容は、どれも自己の利益と関係したものであり、さらには必要なのにこれまで知らなかった内容も含まれる。自身も自由に発言することができ、それによって国家の方針をより最善に近づけることができる。人民集会により、同じ一般意志を持つ他の構成員が実在すること、自己の利益を実現する国家が実在すること、国家の恩恵と自身の提供する労力が結びついていることが、強く意識されるわけだ。
また、人民集会において否定できない過去の法は存在しない。否定されなかった過去の法は、それが国家の目的の実現に必要なものとして、全構成員に沈黙の内に認められたことになる。それが過去の法であろうと、新しい法であろうと関係なく、人民集会のたびに、すべての取り決めは結び直されるわけだ。いわば国家は、人民集会により、新しく生まれ変わり続けるのである。
政治体の生命の原理は主権にある。立法権は国家の〈心臓〉であり、執行権はそのすべての部分を動かす国家の〈脳〉である。脳が麻痺しても、個人はまだ生きている。その人は知能は働かせないが、死んではいないのである。ところが心臓が停止すると、動物は死ぬのである。
国家が存続するのは法律の力ではなく、立法権によってである。昨日の法律は今日になれば強制する力を失うが、[人々が異議を唱えずに]沈黙していることは、[法律を]暗黙のうちに承認しているものとみなされる。主権者が法律を廃止することができるのに、それを廃止しないということは、その法律を承認しつづけているものとみなされるのである。あることを主権者が望むと宣言した場合には、取り消されないかぎり、つねに望みつづけていることになるのである。(3-12)
人民集会の頻度
人民集会は、状況の変化に応じて開催されなければならないし、また定期的に開催されなければならない。そうすることで、国家は力を取り戻し続けることができるわけだ。
人民が集会において、一連の法を認可し、国家の政体を定めたとしても、それだけでは十分ではない。人民が集会において、恒久的な政府を設置し、行政官の選挙方法を最終的に決定したとしても、それだけでは十分ではない。予想外の出来事が起きたときには臨時集会を開催すべきであり、さらにいかなることがあっても延期したり、廃止したりすることのできない定例の集会を定期的に開催する必要がある。すなわち定められた日に、人民が法律の定めによって正規に招集されるべきであり、ほかにはいかなる招集の手続きも不要な集会が開催される必要があるのである。(3-13)
開催箇所の分散は不可
人民集会を、地方で分散して開催することはできない。全体の全体に対する取り決め、という法の正当性を失わせるからである。
ここで問われるかもしれない。なるほどただ一つの都市[で構成される国家]ならこれも可能かもしれないが、国家に多くの都市が存在する場合にはどうすべきだろうか。主権を分割するのだろうか、それとも主権を一つの都市に集中させ、ほかの都市はその都市に従属させるのだろうか、と。
わたしはそのどちらも正しくないと答えるだろう。第一に主権は単一なものであり、それを分割することは、破壊することだからである。第二に、一つの都市も一つの国家も、他の都市や他の国家に合法的に従属することはできないからである。なぜなら政治体の本質は、服従と自由が一致することである。だから[服従する主体である]国民と[自由の主体である]主権者という言葉は、コインの裏表のようなものであり、この二つの語の意味は市民という単一の語によって統一されているからである。
ルソーは、国家が大きくなった場合は、首府を定めず各都市で順番に会議を招集すべきだとしている。また、住民は全土に分散させ、特定の都市が大きな力を持たないようにすべきだとしている。
しかし国家を適切な規模にまで縮小できないとしても、まだ別の方策が残されている。それは決して首都というものの存在を認めないことだ。政府の所在地を各都市に持ち回りで移動させ、各都市で順番に国家の会議を招集すればよいのだ。
住民は全土にむらなく分散させ、国家のどの都市にも同一の権利を所有させ、いたるところに豊かさと活力をもたらすのである。そうすれば国家は最大の力を所有するようになり、もっとも善く統治されるようになるだろう。都市の城壁は、取り壊した農家の残骸によらねば築かれないことを忘れてはならない。首都に新たな宮殿が聳えるのを見るたびに、わたしは田園がすべて廃墟になっていくのを見るような気分になるのである。
政府の越権を防ぐ手段
人民集会中の執行権停止
人民集会が開催されていない間、事前に取り決められていないことについても、政府は執行権を行使することができる。次々と起こる不測の事態に対処するため、自身のうちにある一般意志に推し量り、国家の代弁者として行為するのである。だが、人民集会がなされている間は、すべての執行権が停止される。すべての人民が参加している場所においては、それを代表する者はありえないからだ。人民集会においてはあらゆることを決めることができ、そのあらゆることには当然、政府の解任も含まれるわけだ。
人民が主権者の集団として合法的に集会を開いた瞬間に、政府のすべての裁判権は停止し、すべての執行権は停止する。そして最下層の市民の身柄といえども、最高の行政官の身柄と同じように、神聖で不可侵のものとみなされる。代表される者[すべての人民]がみずから出席している場には、代表する者[行政官]というものはもはや存在しないからである。ローマの民会で起きた騒動の大部分は、この規則を知らなかったか、あるいは無視したために発生したものである。このような集会では、執政官も人民のたんなる議長にすぎず、護民官もたんなる演説者にすぎず、元老院は完全に無用のものにすぎない。
この[政府の権限の]停止期間のあいだに、統治者はその時点での上位の統治者を承認するか、承認すべきだとされていたので、これは統治者には厭わしい期間だっただろう。また人民の集会は、政治体を庇護し、政府に軛をかける役割をはたすものであり、いつの時代にも支配者が恐れるものであった。そこで支配者たちは市民が出席する意欲をなくすように手配し、反対し、妨害し、[甘い]約束を提供するための手間を惜しむことはなかったのである。(3-14)
政府の妨害
このため、政府は人民集会の開催妨害を図ることになる。その際には、政府は治安の維持という名目を利用することができる。人民集会の妨害と恐怖によって人民に沈黙を強制し、その沈黙を政府への同意と勝手にみなして、人民の意志に反した行為をし続けるわけだ。
ところがこの慎重さの義務を統治者が悪用して、人民の意志に反して権利を維持しながら、人民の権利を簒奪したと主張されないようにすることがある。与えられた権利しか行使していないような見せかけを作りだしながら権利を拡大すること、そして治安の維持という名目のもとで、善き秩序を回復しようとする人民の集会を妨げることは、統治者にはきわめてたやすいことだからである。こうした統治者は沈黙をやぶることを禁じておいて、その沈黙を利用する。あるいは不法行為を犯すように故意に導いておいて、この不法行為を利用する。そして人々が恐怖のために沈黙していると、政府を支持しているのだと勝手に思い込み、あえて口を開く者は罰するのである。
ローマの十大官は、最初は一年の任期で選ばれたが、一年で辞めずに次の年まで地位を維持し、民会の開催を禁じて、自分たちの権力を永続的なものとしようとしたのは、このやりかたの実例である。世界のすべての政府は、ひとたび公的な権力を与えられると、このたやすい方法に頼って、やがては主権を簒奪しようとするのである。(3-18)
定期集会
これを防ぐ手段として有効なのが、人民集会の定期的な開催である。
さらにこれを有効にするためには、定期的な集会を開催するための手続きを不要にすることが必要だろう。これにより、政府が人民集会の開催を妨げた場合には、政府が国家の敵であることが公言されることになるからだ。
また、定期的な集会と、あらかじめ定められた手続きに沿って開催されたのではない集会については、全て無効としなければならない。政府が恣意的な条件で集会を開き、政府にとって有利な取り決めを作って、それを人民の意志だと主張する可能性を無くすためである。
しかし定められた日に開催されるだけで合法的なものとみなされるこうした集会を除いて、国民のあらゆる集会は、集会の招集を任務とする行政官が、あらかじめ定められた手続きにしたがって開催したものでないかぎり、すべて非合法とみなす必要がある。こうした非合法の集会で決議されたものはすべて無効とみなす必要がある。集会を招集する命令そのものが法で定められたものでなければならないからである。
合法的な集会を招集する頻度については、多くの点を考慮にいれる必要があり、ここでその正確な規則を提示することはできないだろう。ただ一般的に、政府の力が強いほど、主権者は頻繁に自己の意志を表明すべきだということは指摘できる。(3-13)
そして、提起集会においては、必ず二つの議題を提案しなければならない、とルソーは言う。その箇所を引用してみよう。
社会契約の維持だけを目的としたこの集会では、開会にあたって必ずつぎの二つの議題を提案しなければならない。これは決して省略してはならないし、二つの議案は別々に採決しなければならない。
第一議案 主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。
第二議案 人民は、いま行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。ここではすでに証明したはずのことを前提にしている。すなわち国家には廃止できない基本法というものは何一つないこと、社会契約でも廃止できることである。全市民が集会して、満場一致で社会契約を破棄するならば、それはきわめて合法的な行為であるのは疑問の余地がないからである。グロティウスは、誰でも自分の属する国家を見捨てて、国外に出ることによって、自然の自由と財産を回復できると考えている。だから個人が別々になしうることを、集合した市民の全体がなしえないと考えるのは不合理なことだろう。(3-18)
私見
ただ、形式面だけを整えて国家を長く維持することには、限界があるように私には思える。構成員が国家の利益よりも、個人の利益を追求するような状態になれば、この二項目についても形骸化し、やがて消えてしまうのではないだろうか。
ルソーが構築した理論をもとに、国家の本質とそれが腐敗する構造について把握する者を増やすこと、国家の維持を積極的に担う層を増やすことあたりがポイントになるように私は思う。