国家の腐敗過程

前提

どのような国家であろうと、それは最後には解体するということがわかった。ではついで、その解体に至る過程について詳しく見てみよう。
国家が解体するのは、以下の三つの理由による。

  • 国家がそれ自体として分解する傾向を有する
  • 政府が国家を否定する傾向を持つ
  • 人民が自身の持つ立法権について顧みなくなる

ここから、立法権は形骸化し、政府は国家から分離し、人民を弾圧するようになる。
まずは、立法権の形骸化について考察してみよう。

分離の兆候

人民集会外での対処

国家はその目的を実現するため、外的状況に応じて変化をし続けないといけない。それを実現するのが人民集会だ。新しい課題が生じると、人民集会が開かれ、そこにおいて外的状況に対応するための方針が導かれる。そののち、それを実現するために必要な労力が割り出され、各人は新たな労力を提供することになるわけだ。
だが、新しい課題が生じたときに、それを人民集会にはからず、国家の一部の者が自分たちだけで対処しようとする場合がありうる。課題によっては解決方法が明白であり、全体にかけるまでもないと判断する場合や、一々課題を全体化して労力を配分するよりも、自分たちだけで処理する方が手間がかからないと思う場合だ。新たに生じた課題が解決すべきものだということは自覚できても、それを全体にはかって共有することの意味や、労力の配分を平等に行うことの意味については、自覚的でない場合があるのだ。

分離の固定化

この状態が続くことにより、新たに生じた課題へ対応する者と、そうでない者の分離が固定化する。後者は、国家によって得る利益と、自身の提供する労力とを分離して考えるようになるだろう。自身が享受する利益を、空気のようにただで得られるものであり、要請される労力は、避けることができれば避けた方がいいものだと思うようになるのだ。

人民集会

参加者の減少

これに付随して、人民集会について人民が持つ意識も変化する。新たな課題への対処が、国家の一部の者によって実現しているのであれば、人民集会など一々開く必要もないし、それに自分が一々参加する必要もないのではないか、と思うわけだ。
初期においては、人民集会において議論される内容は、自分の利益と直接関係するものだった。そこでの議論は、自分の労力を費やす対象を決定するものだった。だがいまや、議論に参加せずとも方針は決まり、労力は自分以外の誰かが負担し、自己の利益は勝手に実現するのだ。
人民集会においてなされる議論は、自己の利益とも労力とも無関係なものに映り、そこに興味を持つことはできない。自己の利益と国家の利益が一致している状況であれば、出される法案の是非を判断することができた。だが、もやはそのような基準は失われているのだ。
この状況が続けば、やがて人民は、人民集会への参加自体を負担であると思うようになるだろう。人民集会は、大多数の者にとって、ただ義務感だけで出るだけの場になる。次第に人民集会への参加者は減り、一部の者のみが議論する場へと変質するのだ。

法律の変質

人民集会において議論される内容が人民の利害と乖離し、人民集会への参加者が減ったなら、そこでなされる取り決めは、一部の者同士の合意に過ぎなくなる。全体の全体に対する取り決め、という本来の条件が崩れてしまうのだ。
国家の利益と人民の利益が乖離する中で、国家として利用できる労力は減少する。そこで、それを補うために、人民集会で決定される取り決めは、人民全体への労力の提供を要請するものになるだろう。だが人民は、その法律を守るべきものだとは思わない。それをただの、「それを守らなければ罰せられる場合がある」ルールとして意識する。そしてそれは、法律からの逸脱を助長することになる。
それを防ぐために、法律の文言の厳格化がなされる。また、法律相互間の矛盾を突かれることを防ぐため、複雑な体系が構築されることになる。こうして法律は、わかりやすく誰でも理解できるものから、複雑かつ難解で、一部の者にしか理解できないものとなるのだ。

逸脱

いまや、各人が意識するのは個別的な利益に過ぎない。一般意志の存在は後方に退いて、それを意識することは難しくなっている。
そのため、人民集会での議論が、国家の最善の方針を導くためのものであることを理解することができない。また、提起される法案の成否の判断もできない。
そこで、人民集会と法律について、次のように捉えることになる。人民集会の場とは、各人が有する個人的な利益を提起する場だ。声が大きいものがその場を制して、自分にとって都合がいいルールを全体に強要するのだ、というように。
このような者が現れると、構成員同士の利害は完全に対立したものとなる。このとき一方にとっての利益は、他方にとっての不利益となるからだ。

人民集会の変質

人民集会の場は、皆が個別的な利害を主張しあう場となる。ここには一致点は存在せず、議論が収束することはない。放っておけば、声が大きいもの、最後まで主張をし続ける体力のある者が残る、不毛な場と化すだろう。そこで、一致点を形成するためのルールが作られることになる。
ここでの一致はただの妥協に過ぎず、統一的な基準は存在しない。ルールの策定時においても、各自はそれをできるだけ自分に有利なものにしようとするだろう。そうしてそれは、だんだんと複雑で難解なものになる。提起の方法、議論の手続き、議論が行き詰まったときのルール、投票の際の細かい決まり、発言の時間、発言内容の事前検閲や制限、議長の権限強化、など細かい決まりができることになるだろう。また、一致を取ったとしても、それを文面にする段階でやはり、駆け引きがなされることになるだろう。法律の制定にあたって、各人は自分の労力を最小にし、他のものに最大の労力を押し付けることを図るわけだ。

提起のハードルが上がる

逸脱した者が現れ、複雑なルールが制定されることにより、人民集会において提起するための負担は増大することになる。
本来の国家では、構成員全体の利益と、国家の利益とは直接結びついており、提起も容易だった。自分が気づいたことをそのまま発言すれば、他のものも即座に同意した。だが今や、正当な提起であっても、それを通そうとすればつまらない文句がつけられる。「それは他者の気持ちを考えたものか」「提起者の資質はどうなのか」「本当に今やる必要があるのか」といった非難に耐えるものに練り上げる必要がある。かつ、会議を通すための時間も手間も莫大になる。会議においては、各人がそれを自己の特殊利益から判断して意見をし、かつその提起が通ったときに、自分が被るだろう労力をできるだけ減らそうと意見するからだ。

悪循環

一部の者のみが一部の者のみにしか通じない議論をしているだけでなく、逸脱したものが現れ、複雑なルールが制定され、さらには提起をすることすら難しくなる。こうして、人民集会の場は、ますます人民の利害とは無関係なものとして映ることになる。議論に加わる者や、人民集会に参加する者はますます減少する。
かつて人民を結びつけていた利益の一致は既に消失している。構成員は互いに対立しており、人民集会の場は互いに不利益を押し付け合うための場でしかない。提起される法案は特定の団体を利するだけのものに過ぎず、たとえそれが国家の利益になるものであろうと、必ず対決や論争が生じる。こうして、立法権は初期の状態から、完全に変質してしまうのだ。

しかし社会の絆が緩み始め、国家の力が弱くなってくると、個人的な利益が強く感じられ始める。そして小さな結社が大きな社会に影響を与え始めると、共同の利益は変質し、敵対者が登場するようになる。投票はもはや全員一致で行われることはなくなり、一般意志がもはや全体意志ではなくなる。対決や論争が起こり、立派な意見も、論争なしには認められなくなる。(4-1)

構成員の変質

個別的な利益が前面に

次に、各人民の持つ意志がどのように変質するかを見てみよう。
各人の関心を占めるのは、個別的な利益の実現だ。国家によって得ている恩恵は空気のように感じており、普段意識することがない。国家の維持は他のものが勝手にやっていることであり、自分には関係がないと思うわけだ。ただ、時たま国家が法律等で干渉する際に、意識をする程度である。そして、国家が要求する労力はできるだけ拒否し、法律からの逸脱を図り、集会への参加を拒否しようとする。人民集会において投票する際には、その法案が「国家のために何が適切か否か」ではなく、「自分の個別的な利益にとって適切か否か」を考えて投票することになる。
政府が、一般意志を騙って団体意志を強制しようとすることも、この傾向に拍車をかけるだろう。国家も法律も、特定の集団を利するものに過ぎず、それが語る国家全体の利益というのはただの虚構でしかないと判断するのだ。

最後に国家が滅亡に瀕して、空虚で欺瞞的な形でしか存続しなくなると、すべての人の心のうちで社会の絆が断たれ、きわめて卑しい利害が、厚かましくも公共の幸福という神聖な名を装うようになり、一般意志はもはや口をつぐんでしまう。すべての人々は他人には口にできないような動機に誘われて、あたかも国家など存在しないかのように、もう市民としては意見を述べなくなる。そして個人的な利益だけを目的とした不正な命令が、誤って法律という名のもとに承認されるようになる。(4-1)

一般意志

ただ、この段階に至っても、一般意志が失われたというわけではない。国家が存続する以上、それは無くなることはないのだ。ただ、個別意志あるいは団体意志を、一般意志に優先させているだけなのである。
個別意志、団体意志が優先されてはいても、一般意志の残滓は各人の内に存在する。そしてそれが、構成員同士をつなぐ根拠になっている。
例えば、個人よりも全体の利益を優先すべきだ、という考えだ。たとえ普段は自分の利益のみを求めて行動をしていても、他の構成員に「全体のためにこれこれをすべきではないか」「他の者のことも考えるべきではないか」と言われ、それを葛藤もなく否定することは難しい。
他に、平等性についての意識がある。全体で取り組むべき課題を不平等に背負っている構成員を見て、それを問題だと考えること、自分が不平等な仕事を受け持っているときに、他の者もそれを負担すべきだと考える、ということがあるはずだ。
また、少数者の尊重、発言の自由、全員参加といった、立法過程の本質を形成するものも意識に残っているだろう。

自分の投票を金で売る時でも、彼は自分のなかの一般意志を消滅させたわけではない。ただそれに背を向けただけなのである。彼の犯した過ちは、質問の意味を変えて、問われていないことに答えたことにある。たとえば投票の際に、「これは国家にとって有益である」と言う代わりに、「これこれの意見が可決されれば、これこれの人または党派にとって有益である」と言うのである。こうして集会における秩序を守るための法律は、集会において一般意志を維持することを目的とするものではなくなる。法律は、一般意志に[問われていない]質問を問い掛け、それに答えさせることを目的とするようになるのである。(4-1)

隷属

現状の国家

ここまで、国家が理想的な状況から、解体へ至る過程について考察してきた。
これを踏まえるならば、現状のたいていの国家は、解体に至る過程にあることが分かる。そこには、本来的な国家が持っていた本質と、それが腐敗した結果生じたものとが現れている。それゆえ、現状の国家をただ眺めるだけでは、国家の分析も、そこから有益な方針を導くこともできないのだ。

理論をもてあそぶ人々が間違えるのは、最初からまずく建国された国家しか見ていないために、これまで述べたような政治活動を維持することはできないと思い込んでいるからである。(4-1)

奴隷状態

以上を踏まえて、現状の国家について振り返ってみよう。
いまや、大多数の人民は立法権とは無関係であり、国家の方針を決定する権利を手放して、人に委ねている。自己の利益が実現するかは、自分とは無関係の者次第である。
さらには、執行についても自己の手から離れている。自己の労力が自己の利益のために使われる保証はない。それが自己の利益と全く関係のないものに使われる恐れがあるどころか、自身の利益に反することすら要請される可能性があるわけだ。
そして、自己の利益とは無関係な法律に縛られている。そこからは、当初それが持っていた、全体の全体に対する取り決めという性質は失われている。法律とは、人民集会の場で、声の大きいものが押し通したものの、集積でしかない。そしてそれは複雑で理解し難い、自身とは全く馴染みのないものになっている。
このように、自己の利益の実現を自己とは関係のない他者に委ねている。その他者は、自分に好きなように労力を要求することができる。自分の利益とは全く関係のない法律に縛られ、その制限においてのみ行動を許されている。さらには、その法律について十全な知識を持っていないことも多く、それによって不利益を被ることもしばしばだ。これは、奴隷状態と全く同じではないだろうか?
それでいながら、自身の個別的な利益を優先して生きているわけだ。自身を左右する、国家全体については無知を強要されており、気にかけることができない。それでいて、自分は自由だと思いこんでいるのである。

自然状態との比較

この状態を、自然状態と比較してみよう。
自然状態においては、自己の判断で自己の利益を実現していた。ただ、それは自身の持つ力量によって、実際には制限されたものだった。それを克服するために国家状態へ移行したわけだ。国家に、自己の判断と、自己の労力を委ね、それによってより大きな利益を得たわけである。
だが、いまや国家状態は変質している。自己の判断と、自己の労力が他のものの自由になっているという点は同じだ。だが、本来の国家状態とは異なり、それが自己の利益のために使われる保証はない。それどころか、委ねた判断と労力によって、自身の利益に反することが要求されることすらあるわけだ。さらに、そこから脱することも難しくなっている。これは、自然状態よりもさらに悪くなっている、とも言えるわけだ。

人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思い込んでいる人も、じつはその人々よりもさらに奴隷なのである。(1-1)

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