複数の方向性

以上の議論から、導かれる方針について考えてみよう。立場性により、これはいくつかに分かれると思う。
一つが、国家が腐敗していることを認めた上で、それを立て直そうというものだ。ただ、ルソーはこれについては否定的である。ルソーは腐敗を必然とした上で、それが立て直されることはめったにない、とする立場をとっている。

ある種の病は人間の頭を混乱させ、過去の記憶を奪うことがあるが、同じように国家が存続しているあいだにも、激動の時期が訪れることがある。この激動期に起こる革命は、ある種の発作が個人にもたらすのと同じ作用を人民にもたらすのである。恐怖の念から過去は忘却され、国家は内乱で焼かれ、いわばその灰の中から蘇り、死の腕からぬけだして、若さをとりもどすことがある。これこそリュクルゴスのときのスパルタであり、タルクイニウス家の支配の後のローマであり、現代では暴君を追放したオランダとスイスの姿である。
しかしこうしたことはごく稀である。これがごく例外的なものであるのは、例外的な出来事が起きた国家の体制がつねにきわめて特殊なものだったためである。同じ人民においては、こうした稀な出来事は二度とは起こらないはずである。人民が自由になることができるのは、まだ未開な状態にあるときであり、社会の活力が消耗したあとでは、もはや自由になることはできないからだ。その場合には騒動が起きて人民が消耗させられることはあっても、革命が起きて人民が再生することはできないのだ。鉄の鎖が断ち切られると、人民は分散し、もはや人民として存立しなくなる。そのときに人民に必要なのは支配者であって、解放者ではない。自由な人民よ、次の原則を記憶しておくがよい。人は自由を獲得することはできるが、[ひとたび自由を失うと]もはや二度と回復することはできないのだ。(2-8)

もう一つが、新しく国家を設立する際の参考にしようという立場だ。ルソーは基本、この立場に立っているようである。ルソーは、立法者のあるべき姿や、政体と地理の関係や、法律の適した国民の資質等について、大きな労力を割いて分析している。

政治体は人間の身体と同じように、その誕生の時点から死へと向かい始めるのであり、みずからのうちに破壊の原因を宿している。しかし政治体も人間の身体も、頑丈なものと虚弱なものがあり、長期間にわたって自己を保存できるものと、短期間しか自己を保存できないものがある。人間の身体の体質は自然のものであるが、国家の政治体の体質は人間の技で作られる。人間の生命を長くすることは、人間には不可能な技だが、国家に最善の政体を与えることによって、国家の生命をできるかぎり長くすることは人間の技である。より善い政体の国家もやがて滅びるだろうが、予想外の出来事のために早死にすることがないかぎり、そうでない国家よりも長生きするだろう。(3-11)

また、国家自体を否定する方向性もありうるだろう。ここまでの議論で、理想的な国家においては、自己の利益と国家の利益は完全に一致することが証明された。ここから、国家の利益と自己の利益が矛盾するなら、それは国家がおかしい、よってそれを否定しても構わない、という帰結が導かれるだろう。ルソーを読み、フランス革命を主導した人々は、この立場なのだと思われる。ルソーも、一面ではこの立場を支持していると言えるかもしれない。人間が自由なものとして生まれたのに、現在の国家において奴隷状態に陥っていることを、ところどころで嘆いているからだ。

イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。自由なのは、議会の議員を選挙するあいだだけであり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷であり、無にひとしいものになる。(3-15)

もう一つが、この議論を国家と個人の分析と捉え、それを自己の利益の最大化に役立てるという観点だ。これについてはルソーはあまり意識していないようだが、自己の利益の追求、というルソーが人間本性として規定しているものから考察すると、この考察が理論的には正当なものになると思われる。かつ、上のような個々の立場に関わらない、普遍的なものができるだろう。私が興味あるのはこの方針であり、以下ではこの観点に沿って考察をすすめる。

« 国家の腐敗過程
理論の整理 »