理論の整理
ここまでで明らかになったことを整理しよう。
人間の本性
人間は、自己の利益を実現しようとする本性を持つ。そしてそれは、現在においては、何らかの国家を通してしか実現することができない。
ここから、各人は自己の利益の追求以外に、何らかの一般意志を有することがわかる。これが、他者と議論をし、一致する際の基礎となるわけだ。これは、最終的には、それに反した場合にはその国家を追放され、自己の利益の実現が損なわれる、ということを担保にする。その上で、国家の腐敗により、それが明確ではない場合もありうる。
国家の本性
自己の利益を国家状態でしか実現できないものにより、国家は構成される。国家はその目的を実現するために一つの判断を下し、各構成員はその判断に従って労力を提供する。
ただ、物理的な原因により、国家には解体へ向かう傾向がある。そして我々の見る国家は、大抵はその途上にあるものである。
他者
我々が普段交流する他者とは、必ず何らかの国家関係を共有する。そうでなければ、そもそもその他者と交流していないだろう。それゆえ、その相手とは一般意志を共有することを前提としていい。
諍いの原因
また、普段交流する他者との関係性が規定されることにより、人間同士の間で生じる諍いの原因についても限定することができる。
その原因は、
- 方針
- 平等
のいずれかである。
前者は、所属している国家の方針が不適切であり、共通利益が実現されていない状況への不満に起因する。
後者は、自身の被っている労力が他の構成員に比して多いことへの不満に起因する。
これらをいかにして解決すべきかについては、後に考察しよう。
他者との関係性
基本的に、他者が何か課題を抱えている場合は、その解決のために手を貸す方が適切である。人間の力は、個々人の労力の総合にある。よって、手助けによって味方を増やし、いざというときに自分の抱えている課題を共に解決してくれる者を増やすことは合理的である。そのうえで、手助けをしてもそれに感謝せず、こちらが困難な状況に陥ったときに助けないことが確実な者は、手助けしない方が合理的である。
国家における振る舞い
国家においてどう振る舞うべきかは、何を目的とするかで変わってくる。
その国家から追放されなければそれでいい、というのであれば、常に自身の行動を「国家のため」という言葉で説明できるようにしておくのがいいだろう。
積極的に国家の運営に関与したいのであれば、国家の利益となる行為を積極的に行い、かつそれを構成員に宣伝することが必要になるだろう。
国家に置いて致命的となるのは、一般意志に反した行為をして、かつそれが咎められる場合だ。大抵の者は国家の本質について曖昧かつ、誤った倫理観を持っているために、これが正確に咎められない場合も多いが、それを当てにしないほうが賢明だ。基本的に、一般意志に則った行為をしていればそれでいいだろう。具体的には、全体で行った取り決めを守り、目的の達成と平等を心がけ、個々の自分の行動については「私は常に国家のために動いている」という理由で説明すればいいのだ。
政府
腐敗した国家において、政府が人民を支配する方法には一定のパターンが存在する。政府は、必ず自分たちの行動を、全体の利益の実現をはかったもののように見せかける。
また、人民が集まり発言する機会を妨げ、反対者を公共の安全を理由にして弾圧する。そうして人民の声を黙らせた上で、自分たちが暗黙の支持のもとで行為しているかのように見せかけるのだ。
取り決め
我々を縛る取り決めは、以下の3つに分けることができる。
- 一般意志に関するもの
- 国家の目的を実現するためのもの
- 腐敗した国家において作られたもの
一番基礎にあるのは、一般意志に関する取り決めである。これは国家が存続する限り存続する、根幹的なものである。これを破ることは国家の敵となることを意味するゆえ、守るのが無難である。
また、外的状況の変化に対応するために作られた取り決めがある。これは流動的であり、情勢の変化によって不要になるものもあれば、新しく定められるものもある。構成員全体が、その取り決めを国家の目的に必要だと判断しているか否かが、その取り決めを守るか否かの基準となる。
他に、腐敗した国家において、構成員の一部が勝手に取り決め、暴力によって従わせているだけのものが存在する。
代議制
ここまで行ってきた考察を踏まえれば、代議制という制度がまったくあり得ないものであることは明白だろう。
そもそも、ある個人が特定の集団を代表することは不可能である。自己の利益については判断できても、他の人が何を欲しているかなど分かるわけがない。立法において一個人が、国家にとっての最善を判断できるのは、国家の利益と個人の利益の一致という条件があるからなのである。人間本性に、自己の利益を超えた普遍的な判断を下す能力が備わっているからではないのだ。
また、私的な利益を追求するもの同士が意見をぶつけ合うことが、議論であると想定している点でも誤っている。立法の核心は、一致点を持つ者同士が情報の差を埋めることにある。私的な利益を持つ者同士でいくら議論をしても、一方による他方への押し付け以外の結果にならないのは自明だ。
代議制は、国民の大多数が堕落しきっている時にのみ成立する制度である。
まず、国家が適切な方針を取るか否かについて、国民が無関心でなければならない。この制度を採用しても、全体の利益が実現されないことは、やる前からわかりきっているからだ。全体の利益の存在を信じず、あわよくば議会で多数派をとって自己の利益を実現できれば上々だ、くらいに皆が考えているのである。
次に、立法への参加を負担だと、国民の大多数が感じていなければならない。このときのみ、自分の代わりに代表者が送り、それに議論を任せればいいという発想が生じるのだ。
さらに、国民の大多数が、他の構成員のことを全く気にかけない状況が必要になる。代議制は、少数者の切り捨てを容認するシステムだからだ。
これらに加え、無知、表面だけでも繕えばまがい物でも構わないという意識、こういったものが絡まり合って代議制が成り立つ。
代議制は、本来は破綻している国家が、国家としての見せかけを作るために採用する制度である。この枠組内において、全体の利益を実現するための工夫をいくらしたところで、必ず失敗するだろう。
この体制は、「この体制を維持する方が自分たちにとって得である」「将来的には選挙で多数派を取り、利益を得る可能性がある」と大多数が思っている場合にのみ成り立つ。階層分化が進み、一部の集団のみが権力を独占するようになれば破綻し、国家としての見せかけすら保てなくなるだろう。
代表という考え方は近代になってから生まれたものだ。それは封建政治から、あの不正で非合理的な政府からうけついだものなのだ。この政体のもとでは人類は堕落し、人間という名前そのものが不名誉に塗れていた。古代の共和国でも、君主政においてすら、人民には代表者はいなかった。この代表という言葉さえ、知られていなかった。とても奇妙なことだが、ローマでは護民官はきわめて神聖なものとされていたが、これが人民の役割を簒奪することができるなどとは、想像もされていなかった。あれほど多数の群衆の中にいても、護民官は民会の決議にかける法案を[群衆の力をあてにして]職権で通過させようとしたことは一度もないのである。(3-15)