弁論術
ここまで、立法段階においてなされる議論は非常に単純であることを示した。だが、実際の議論は、たいてい雑多で、感情的で、多くの難解な話が現れる、複雑なものとなっている。これらをどのように整理すればいいかを、考えてみよう。まずは、これらの議論が生じる場合の考察から始めよう。
課題の解決方法
国家において、新たに生じた課題を解決するための労力を、一部の者が一時的に引き受ける場合がある。この労力の偏りを解消するには、それを全体で分散しなければならない。
問題提起から解決までの過程は、本来であれば
- 提起をする
- 提起された問題が互いに解決すべきものであることを確認する
- 互いに労力を提供する解決策について一致する
- 一致したことを執行する
となるだろう。国家の本質からも、これ以外の解決方法はありえないと言える。
労力の回避行動
しかし、労力を引き受けていない側からすれば、これは自身の労力の増大を意味する。できればその労力を、今引き受けている者にそのまま負担し続けてほしいのだ。
だが、相手の要求を直接的には否定しにくい。そこで、表面上は一般意志と平等に従っているかのように振る舞いながら、様々な手法でごまかし、新たな労力の回避を行う。この際に用いられる手法を、弁論術と呼ぼう。
弁論術のパターン
弁論術には、いくつかのパターンが存在する。
提起の否定
その一つに、相手の提起自体を否定する方法がある。提起自体を否定してしまえば、当然それに自分が取り組むことも、それに労力を提供することもなくなるわけだ。
自らの地位を利用して「あなたはそんなことを考えなくていい」「やるべき仕事をやってから発言しろ」と威圧する、相手の無能力をなじったり、自分も辛い立場にいるんだと主張したり、自分がこれまでに費やした労力を一方的に主張したり、大声を出したりすることによって、相手に無力感を与えて一時的に威圧し、提起自体を取り下げさせる方法がある。
問題の存在を否定
提起された問題に対して、問題の存在自体を否定する方法がある。相手が提起した問題を問題と認めなければ、それに労力を提供する必要もなくなるわけだ。
例えば「それは気のせいではないか」「気の持ちようで解決するのではないか」「皆も同じことを我慢している」「もう少しまてばなんとかなるのでは」「見方をかえればそれもいい経験になる」「これこれのアイデアで解決できるのでは」といった発言がそれにあたる。
話を逸らす
他に、話を逸らすという方法がある。よく使われるのが、抽象的な話にすり替えるパターンだ。話を逸らしたまま時間を稼いで、そのまま議論が終了すれば、自分はそれに労力を払う必要がなくなる、というわけである。
この際には、容易に解決がつかず、相手がそれを無関係だと切り捨てにくいテーマが選ばれやすい。例えば「一方的である」「特定の人の意見を考えていない」「少数者の気持ちを考えていない」「色々な思想を持つ人がいることを理解していない」「一面的なものの見方ではないか」などである。
言葉の問題へのすり替え
他に、言葉の問題にすり替える方法もある。定義についてこだわったり、言葉尻を捕まえた議論をして時間を稼ぐのだ。これも、意図としては「話を逸らす」と同じである。
感情の利用
また、感情を利用する方法もある。怒る、不機嫌になる、悲しげな顔で共感する素振りを見せる、泣き出すなどによって、一時的にその場を感情で支配し、本来の議題から話を逸らすのだ。これも、意図としては「話を逸らす」と同じであると言えるだろう。
執行との混同
執行と立法をわざと混同することにより、容易に議論に決着がつかないようにする方法もある。「忙しい」「時間がない」「自分はこれこれの課題を抱えている」というように。これで執行の問題の話に移れば、それだけ時間を稼げるし、さらには立法、執行の議論と堂々巡りにすれば、相手はいつか諦めるだろう、と考えるわけだ。
たいていの議論は弁論術である
立法において、揉める要素は本来的には存在しない。議論が紛糾するとすれば、それは相手が弁論術を使っているからなのだ。そして私は、情報の差を埋める、という立法本来の過程に沿わない議論は、それが何であろうと、すべて弁論術でしかないと思っている。
悪意のあるなしに関わらず、弁論術は頻繁に使われる。というのは、我々が経験する国家が大抵は腐敗しており、そこで要求される労力の提供を拒否することが合理的な場合が多いからだ。そのため、自己の負担を増大する提案に対して、たいていの人は反射的に弁論術を使うのである。
議論が紛糾する理由は、非常に単純なのだ。単純に、自身が労力を負担するのを嫌うものが、それっぽい見せかけをしてごねているだけなのである。それを解消するためには、難解な理論も、相手の理解も、人間本性の分析も必要ない。それを弁論術だと見透かし、それに対処できる技術を身につければいいだけなのである。